【著者インタビュー】森 功『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』/雑誌ジャーナリズムの礎を築き、大作家からも畏れられた巨人の素顔

出版界に数々の伝説を残した〈新潮社の天皇〉齋藤十一。彼はなぜ、自らを〈俗物〉と称したのか――その素顔に迫る渾身のノンフィクション。

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雑誌ジャーナリズムの礎を築き数々の才能を発掘した出版界の巨人 これまでベールに包まれてきたその素顔に迫るノンフィクション

『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』

幻冬舎
1800円+税
装丁/鈴木成一デザイン室

森 功

●もり・いさお 1961年福岡県生まれ。岡山大学文学部卒。新聞社、出版社勤務を経て、2003年に独立し、08年、09年と雑誌ジャーナリズム賞作品賞を2年連続受賞。18年『悪だくみ「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞。著書は他に『官邸官僚 安倍一強を支えた側近政治の罪』『ならずもの 井上雅博伝―ヤフーを作った男』等多数。今月新書化された『菅義偉の正体』も話題。173㌢、75㌔、B型。

人間が興味を抱き、見たい、知りたいと思うものの根幹はこれからも変わらない

〈貴作拝見、没〉ハガキ1つでダメを出し、大作家からも大いに畏れられた〈新潮社の天皇〉齋藤十一。本邦初の写真週刊誌『FOCUS』創刊時の発言とされる〈人殺しの顔を見たくないか〉など、数々の伝説を伝説のままにしないのが、森功『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』の基本姿勢だ。
 森氏自身、91〜02年まで『週刊新潮』に在籍し、56年の創刊以来、同誌に実質的に君臨し続けた齋藤の姿を〈何度か目撃〉したとある。
「それこそ〈御前会議〉で直接話ができるのは一部の幹部だけ。我々は怖いと思う機会すらないくらい、遠い存在でしたけどね。より正確には齋藤さんのことを怖がる人たち、、、、、、、、、、、、、、を間近に見てきた、そういう距離感です」
 戦後まもなく『新潮』を軌道に乗せ、『芸術新潮』や『週刊新潮』 、『FOCUS』『新潮45』の生みの親でもあった鬼才は、なぜ自らを〈俗物〉と称したのか――。森氏は太宰治に坂口安吾に三島由紀夫、松本清張や柴田錬三郎や池波正太郎等々、手がけた作家の顔ぶれがそのまま文学史と化す彼の日常や原風景から、まずはひもといていく。

 1914(大正3)年2月、北海道忍路おしよろ郡塩谷村(現在の小樽市)に生まれ、3歳の時に父の転勤で上京、大森で育った齋藤は、私立麻布中を経て海軍兵学校を受験するも惨敗。紆余曲折あって早大理工学部に進み、この間に友人の影響で文学に目覚めた。森氏はカントやプラトンやヘーゲル、西田幾多郎や三木清の名著大著を行李一杯に詰め込み、千葉の漁村で読書三昧に耽った〈早大時代の家出〉が、稀代の名編集者の起点かもしれないと書く。
「齋藤さんは編集部で〈パイプ〉と暗に呼ばれていたんですが、特集が6本あると必ず1本はパイプ由来のものがあって、見出しも6本全部彼が決めていた。しかも本人は現場に出るでもなく、指示だけが編集長経由で降りてくるわけです。あの医師は絶対怪しい、調べてみろ、とかね(68年「和田寿郎心臓移植事件」)。
 つまり編集長の上に真の編集長がいて、その天の声で現場が動くという異様といえば異様な体制です。でも、その直感がことごとく当たるんです。〈本来、齋藤さんから出るスクープ記事はありえない〉はずなんですが、それこそ、〈目の付けどころがいいというか〉、本当に謎でした」
 その謎を解く鍵の1つが、小林秀雄が〈音楽を聴いてりゃわかる〉〈だから齋藤はわかるんだ〉と指摘した音楽的素養だ。幼い頃、近所から聞こえてくるピアノの音に魅せられた彼は、中学時代からレコード店や名曲喫茶に通い詰め、小林とも音楽を通じて親交を深めた。
「小林や河盛好蔵や一部の作家との親交はあったが、実は齋藤さんはあまり作家とは会わなかった。〈僕は忙しいんだ、毎日音楽を聴かなくちゃならないから〉と言って人を遠ざけた彼の嗅覚を培ったのは、音楽かもしれませんね。
 感性という点では、ジャーナリストや文学者も似たようなところがある。様々な事実を集めて意味を推し量り、それが一般的な取材作業ではあるんだけど、事実を幾ら重ねても真実は見えてこない。結局はその事実に隠された人間の本性とか、目に見えないものをどうとらえるか、真実を見出すかという感性の問題で、音楽が孕む物語性に親しみ、視覚や聴覚の全てを使って人間の真実に迫ろうとした鬼才の評伝を書きながら、表に出ているものがいかに限られているかを、僕自身、痛感した。それで最近クラシックを聴きかじり始めたんです。せめて少しでも小林秀雄の言う〈微妙〉に触れることができればと」

ジャーナリズムイコール文学だ

 一方、新潮社の創業者一族、佐藤家との関係も興味深い。一印刷工から出発した初代義亮と、齋藤はひとのみち教団(現PL)の同志として出会い、孫の亮一(3代目社長)の家庭教師を務めた縁で新潮社に入社。が、あの菊池寛と並び称された中村武羅夫の陰で戦前を倉庫係として過ごし、肺浸潤のため兵役にも行かないまま終戦。その中村が公職追放され、同僚の多くが戦地に散った戦後に、快進撃は始まる。
「戦争の人的、物的影響はどの社にもありましたけど、倉庫係としての雌伏の時が戦後に生きたり、何が奏功するか本当にわからない。齋藤さんは亮一社長の元家庭教師だから、早大中退後、すぐに役員になったという伝説も結局デマでしたし、PLには絶対触るなという噂もそう。実際はタブーでも何でもなかったんです」
 そんな伝説が邪魔してか、今一つ像を結び難い齋藤の素顔にも、本書では新事実を用意。彼の息子、、の存在だ。
「前妻の富士枝さんと養子縁組した小川雄二さんです。現在84歳の彼は元声楽家で、高校生の時に夫妻と音楽が縁で親しくなり、その後、再婚して家を出た齋藤さんから〈富士枝を頼む〉と託されたらしい。
 ただ、彼の大学進学やベルリン留学を齋藤さんが物心両面で支え、クラシック評論家の吉田秀和に相談までしていたなんて、たぶん新潮社でも誰も知らないと思う。あの齋藤十一にもこんなに人間らしくて優しい顔があったのかと、僕自身、大発見でした」
 純文学志望だった吉村昭に『戦艦武蔵』を書かせ、井伏鱒二「姪の結婚」を『黒い雨』に改題。新田次郎や瀬戸内晴美や岡本太郎を見出したのも齋藤だ。なかでも山崎豊子との深い“師資関係〟にはたまげる。しかし、齋藤は〈二十一世紀なんて見たくもない〉と嘯き、00年12月、86歳で没した。
 彼の最大の遺産は〈新潮ジャーナリズム〉そのものだと森氏は言う。
「彼自身は現場がどう動いたかも知らないし、興味もない。出てくる結果だけに興味があるんで(笑い)。
 やらされる方はたまらないけど、齋藤さんが納得するまで調べることで取材力が上がり、雑誌が売れたのも確かで、〈齋藤十一は週刊新潮で文学をやりたかった〉という伝説は僕も本物だと思う。つまり金や女や人間の暗部にも怯まず迫ってこそジャーナリズムであり、イコール文学だと、高尚とか卑俗の分を超えて具現化してみせた。
 その俗への眼差しもまた、彼自身が芸術全般に通じ、一級の音楽や美術や文学に触れてきたからこそ持てたんだろうし、媒体は紙からネット等々に代わるにしろ、人間が興味を抱き、見たい、知りたいと思うものの根幹は、僕は齋藤十一の時代もこれからも、そうは変わらないだろうと思うんです」
 そんな聖と俗の順接的な関係は齋藤及び本書最大の美点といえ、彼が追求した面白さや美しさの深遠さに、今一度学びたくなった。

●構成/橋本紀子
●撮影/国府田利光

(週刊ポスト 2021年2.26/3.5号より)

初出:P+D MAGAZINE(2021/02/25)

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