「いま」を生きるための歴史小説 門井慶喜おすすめ4選
2018年、宮沢賢治の父を描いた『銀河鉄道の父』で第158回直木賞を受賞した門井慶喜は、広汎な日本史の教養と深い洞察に基づく歴史小説やミステリーで人気の作家です。そんな著者のおすすめ作品4選を紹介します。
『信長、鉄砲で君臨する』鉄砲により天下をとった織田信長の生涯とは
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信長の人生とは切り離すことのできない鉄砲についての歴史小説です。
てっぽう、まいれ。
つぎの瞬間。戦闘中の全兵の動きが、ぴたりと止まった。まるで時間が止まったように。それほどの轟音 だった。煙が視界をまっしろにし、焦げくささが天を覆う。空気のわななきが肌をなでる。およそ、人間の聴覚、視覚、嗅覚、触覚をくまなく犯す人工の天変地異。
長篠の戦では、鉄砲での「三段撃ち」により、信長勢が勝利して天下統一への布石となったことはよく知られていますが、意外なところで、信長が近江国に築いた安土城と鉄砲にも因縁があるのでした。
当初、信長は、天守閣を建築する予定はなく、簡素な
切腹など、まどろっこしい。所作に時間がかかる上、死後に首をうばわれる恐れがある。そこへ行くと鉄砲というのは便利なもので、目と鼻の先から撃ち抜かれるだけですむ。弾は一発、絶命は瞬時。しかも頭が西瓜のように吹っ飛んであとかたもなくなれば、それこそ一石二鳥ではないか。光秀のもとへ首が届くことは永遠になくなるのだ。おもしろい、やるに値する。
鉄砲とともに生きて死んだ、蛮勇の武将の一代記です。
『ゆけ、おりょう』坂本龍馬の妻・おりょうは、悪妻か女傑か
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坂本龍馬の妻・おりょうの生涯を描いた物語です。
時代は、幕末。京都で侍医の娘として生まれたおりょうは、お嬢さんとして育ちますが、父が安政の大獄で囚われて以降は、困窮した一家を支えるため、料理屋の仲居として働いていました。その時、土佐出身の浪士・坂本龍馬と出会い、求婚されます。
もともと、龍馬は、取るに足りない人間だった。脱藩という死生の線をあえて超え、多数の子分をひきつれるくらいだから凡庸な男ではないのだが、さて志士としてとなると、
(ああ、頼りな)
それが正直なところだった。この当時はもう志士のあいだで常識になっている幕政批判もほとんどしない。苛烈 さがない。どこか呑気 。
(志士であるには、あんまり坊ちゃん坊ちゃんしすぎやわ)
それがおりょうの、龍馬につけた値段だった。結婚を決めたのも、龍馬がこんな男だったからだ。頼りないから放っておけない。
おりょうにとって、龍馬は世話の焼ける弟のようなもの。龍馬の配下たちに、夫をもっと立てるようにと忠告されても、「立てるほどの夫ではない」と言い放ちます。おりょうは、男勝りで、家でじっとして家事をするのが嫌い、大酒のみ、夫の仕事に興味がないわりには、酒宴で悪酔いすると幕府側のスパイへ情報をペラペラ喋るなどの行状から、「夫を下げる女」との悪評が立ちます。
配下らは、龍馬がなぜおりょうに惚れ込んでいるのか分からず、おりょうに、龍馬との離縁を迫りますが、おりょうの方でも、離縁を考えているところでした。それは、龍馬が、誰もが不可能だと思っていた薩長同盟の仲介を成し遂げたから。普通なら、夫の成功は妻にとっても喜ばしいことのはずですが、おりょうに限っては違ったのです。
この人は、うちがおらへんかったら一日かて生きてられへん。それがおりょうの心の支えだった。ところが。近ごろは、事情が変わっている。おりょうの龍馬が、天下の龍馬になってしまった。あの人はもう、うちがおらへんでも生きていかれる。
自分の手から離れ、どんどん遠くへ行ってしまう夫。ふたりの間に子どもはなく、こうと思い立ったら即行動するおりょうが、夫に離縁を申し出ようとしたその晩、事件が起こります。薩長同盟という、いわば討幕のための軍事同盟を結んだことが幕府方に伝わり、
夫に従うのではなく、夫とともに戦ったおりょうの姿は、現代にも通じる女性像です。
『地中の星』カネなしコネなしの一青年が、無謀とされた地下鉄づくりに挑む
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東洋で初めて、東京に地下鉄を敷設した早川
徳次は、明治14年生まれ。早稲田大学卒業後、いったんは勤め人になりますが、気骨がありすぎるゆえ起業を志します。36歳のとき、東京の路面電車の満員を解消すべく、イギリスにならって地下鉄を走らせたいと考えた徳次。総理大臣・大隈重信へ直談判します。
目上の人に「うん」と言わせる秘策。それはとくにかく、頭をさげること。ではない。かんじんなのは何べん頭をさげても軽蔑されぬくらい、それくらい精神が上を向いていること。そうして不恰好でも不面目でも分不相応でも、その精神をおもてに出すこと。一生の大事を為そうと思うならば、最大の敵は他人ではない、おのれのうちの羞恥心にほかならないのだ。
徳次の圧倒的な熱意に押され、大隈は、実業家の王・渋沢栄一を紹介します。出資を願い出た徳次に、渋沢は、東京は地盤が弱く地震が頻発することから、地下鉄の安全性を具体的な根拠で示せと言います。とはいえ、地質調査をする資金のない徳次は、ある知恵をもって、渋沢を説き伏せたのでした。途中で関東大地震もあり、計画は頓挫しかけましたが、渋沢との面会から約10年後、やっと着工にこぎつけます。
この工事の要は、すでに人や電車の行き来が激しい地上の下を掘り進めなければならないことで、そのために採られた工法は路面履工、すなわち、地面を掘りつつも、掘った溝へ板を渡して、地上の交通を止めないというものでした。本作の特徴は、そうした工事現場の様子を詳述している点です。
監督たち、技術者たち、無数の人足たち。彼らは名前すら遺ることがなく、そのことに不満も言わなかった。地中の星はいま、そのほとんどが肉眼で見えない。
とありますが、著者は、その無名の労働者たちに名前を与え、彼らが、落盤や坑内での土砂崩れ、火事など、ときに死と隣り合わせの危険さらされつつ、どんな思いで働いたのかを、敬意をもって温かな眼差しで描いています。
昭和2年、上野‐浅草間に開通した地下鉄はその距離2㎞。物珍しさに乗客が殺到します。徳次は、その後路線を延伸していくのですが、問題は資金繰りでした。
1キロあたりの建設費は、地下鉄が500万円なのに対し、地上のそれは30万から50万円。10倍以上のひらきがあるのだ。にもかかわらず運賃は10倍とれないわけだから、長い目で見れば、地上はどんどん線路を伸ばすことができる。
このことに目をつけたのが、東横電鉄取締役の五島慶太です。もともと徳次の盟友で、徳次には恩義があるはずなのに、非情な買収計画を持ちかけます。徳次は、自社を守ることができるでしょうか。
『にっぽんの履歴書』人気歴史小説家の素顔に迫る
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門井慶喜が、小説家になった経緯、日本史への独自の見方などを綴ったエッセイ集です。
個人的な話で恐縮だが、私は、門井慶喜という。ペンネームではなく本名である。歴史、ことに幕末史が好きだった父が名づけたらしく、子供のころ、私はこの名前が大きらいだった。徳川慶喜を他人と思えなかったのだろう。世間のこの人物への評価は両極端で、みずから大政奉還を決断した史上まれにみる名君という人もいれば、鳥羽伏見の戦いで味方をすてて逃げ出した前代未聞の臆病者という人もいる。どうせ過去の人に名前をもらうなら、龍馬とか、漱石とか、誰もが褒める人にしてほしかった。
いまは父に感謝している。あのころさんざん悩まされたおかげで私は歴史という一生の主題を与えられた。気がつけば、私はそれを職業にしてしまったのである。
他にも、同志社大学在学中、古書店で幸田露伴全集を24万円で衝動買いして、その後2か月食パンのみで食いつないだこと、
おわりに
「小説は実社会で役立つ。小説とそれ以外の世界にさほど差はないから」(『にっぽんの履歴書』)と考える著者はまた、「歴史小説を読むことは、過去を振り返ることではなく、現代にも通じる普遍的な人間の姿を学ぶことだ」とも述べています(茂木健一郎のラジオ番組「Dream HEART」2018年3月31日放送回より)。内向的な個人の趣味として読書を越え、今を生きる知恵を与えてくれる門井慶喜の小説を、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。
初出:P+D MAGAZINE(2022/08/03)