川上未映子 “女であること”から逃げない強さと瑞々しさ

2008年の第138回芥川賞受賞から10年以上が経過しても、その鮮烈な印象と作品世界は色あせることなく、活躍の場を広げる川上未映子。近年では、出産・子育ての経験をきっかけに、フェミニズムの旗手として、文芸以外の経済誌や女性誌などの媒体でもひっぱりだこのオピニオンリーダーです。
今回は、彼女の作品をまだよく知らないという方にも入りやすい小説作品とエッセイ5選を紹介しながら、なぜ「川上未映子」という作家に多くの人々とメディアが惹きつけられるのか、その理由に迫ります。

芥川賞を受賞した、女性の本音に迫った代表作/『乳と卵』

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第138回芥川賞受賞作である本作は、登場人物の一人である緑子の印象的なモノローグから始まります。
思春期の少女、緑子と、その母親の巻子。語り手となる主人公は、巻子の妹、緑子にとっては叔母にあたります。本作のテーマは、タイトル通りの「乳と卵」であることが、冒頭の数ページのたたみかけるような展開ではっきりとわかります。実験映画のように切り替わるシーンで登場人物の関係性を明らかにしてしまう手腕は、川上未映子の卓越した才能の発露として芥川賞選考委員をもうならせたことでしょう。

3人の密度の濃い関係性、閉じた世界の中で、物語はページを追うごとに鮮やかに展開します。「家族」、日々の生活という「現実」、失ったもの、そして得たもの。3人の女性は、ふつふつと煮えたぎるような不安や苛立ちを日常の名のもとに押し殺し、なんでもないふりをしながらも、静かに追い詰められていきます。巻子は、「豊胸手術」が絶対必要だという空疎な思い込みで家族から浮いていき、緑子は、母のそんな行動に言いしれぬ不安と、「子供ができたせいでこんな(お乳に)なった」という言葉に傷つき、「生まれてこなければよかった、生まれてきたくなんかなかった」と哀しみを爆発させていきます。中庸の立場でバランスをとっているかのような主人公にも、女性性への不信と不安があることが、生理についてのささやかなエピソードから読み取れます。なまなましい「女の性」というものに女であれば誰もが、どこか息苦しさを感じていること、「女性であること」自体がまるで一種の暴力のように、女性そのものを時に傷つけることが、巻子と緑子という親子の個人的な関係を通して浮かび上がってくるのです。

もしあたしにも生理がきたらそれから毎月、それがなくなるまで何十年も股から血が出ることになって、おそろしいような、気分になる、それは自分では止められへん。(中略)だいたい本のなかに初潮を迎えた(←迎えるって勝手にきただけやろ)女の子を主人公にした小説っていうか本があって、読んだら、そのなかであたしもこれでいつかお母さんになれるんだわ。って感動して生んでくれてありがとう、みたいなシーンにそういうセリフが書いてあってびっくりして二度見した。(中略)だいたい本に書かれてる生理はなんかいい感じに書かれすぎているような気がします。これはこれを読んだ人に、こう思いなさいよってことのような気がする。(緑子の日記より)

初潮を迎える思春期の極度の不安と、夜の仕事を続ける母親へのさみしさから、「女になんかなりたくない」と負の感情を爆発させていた緑子は、
「おかあさん」のことがずっと心配だった、おかあさんがかわいそうだった、と、母への愛情を再確認します。緑子との関係を取り戻した巻子もまた、つきものが落ちたように「母性」というものを全身で受け入れるようになるのです。そのきっかけとなった、真夜中に親子がたがいに生卵を自分の頭にぶつけるエピソードは、寓話のようにエキセントリックでありながらも、ふたりの女が互いを認め合うために不可避な出来事であったと納得させられる強さがあります。
世の中では、「女の子っていいよね」といったような言い回しに象徴されるように、女であることが「強み」であったり「幸せ」であるかのように謳われるのが常です。それなのに、女性が女性であることを強く意識させられるのは、自分が性的対象であること、妊娠・出産という機能の持つ社会的役割などを否応なしに意識させられる、「負」の場面が多いのかもしれません。女性にとってそれらが大きな負担であることすら、肯定しづらい空気はひょっとすると女ならば誰もが感じたことがあるかもしれません。作者は本作で、女性が「ホンネ」を語ることのできない社会の息苦しさに疑問を呈しており、それはエッセイ集「きみは赤ちゃん」に続くまで川上未映子の持つ大きなメッセージのひとつとなっていると感じます。
 

孤独であることから逃げない覚悟/『すべて真夜中の恋人たち』

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主人公・冬子の一途で不器用な恋愛を描いた長編小説です。川上作品の特徴の一つに、ごくわずかな登場人物のみで物語が展開することが挙げられます。更に言うと、紙面のほとんどを占めるのは主人公のモノローグあるいは描写であり、他の登場人物は、主人公との関係性によってのみ語られます。
ともすれば私小説的な川上作品は、そのイメージとはうらはらにとても静的で理知的、ときに冷たささえ感じる物語です。感情の起伏のひとつひとつ、そのひだの一枚一枚を、作者が透徹した瞳で何度も吟味し、熟考しながら語られる言葉は選び抜かれてとても精緻であり、読者の胸に迫るリアリティを持っています。

冬子は「自分以外」の世界あるいは社会そのものについて強い恐怖感を持っており、必要以外の関わりを徹底的に避けようとします。彼女がアルコール中毒者でもあることが物語の進行とともに明かされていきますが、それもまた、直接に外の世界と関わることを恐れるあまりの彼女の自衛手段なのです。いかに他者に影響されまいか、を優先順位の一番に置く彼女の生活は、「三束さん」という男性との出会いによって大きく変化を余儀なくされます。

部屋のなかで、会えないとき、夢から覚めたときに、どうしようもなく胸からこぼれ、ただすぐに消えてゆくしかなかった言葉よりももっとつよいかたまりを、わたしは三束さんにむけて放っていた。三束さんを愛しています。そう言ってしまうとしたまぶたと目のすきまが膨らむようにみるみるうちに涙があふれ、頬を流れてあごにたまり、それからたくさんの粒になって夜のなかへ落ちていった。瞬きもせず、何かから逃れるように、わたしから逃れるように、涙は夜を目指す生きもののようにわたしの頬を這い、あとからあとから流れていった。わたしは顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、最後に泣いたのはもう思いだすこともできないほど遠い記憶のなかのことで、あのときも、あのときも、わたしはきっとこんなふうに泣いてしまいたかったのだと思うと、それがまた涙になってわたしはもうそれを止めることができなかった。

長い時間をかけて、逡巡と、回り道を経て、はじめて「繋がりたい」と自分から思えた異性へのときめきが、一瞬の夢のようにもろくも崩れ去ったとき、冬子は何を感じ、何を思ったのでしょうか。その答えは、小説の中では明言されていません。ありきたりな「気づきと成長」という括りでは説明できない、まるで「死」に近いような絶望さえ彼女は感じていたかもしれません。しかし彼女が長い時間をかけて、また「自分」を取り戻していくことがかすかに予感されるのは、失恋や哀しみを経てたどりつく「再生」のあたたかさを、おそらく誰もが一度は体験しているからでしょう。
本当の意味で誰にも何にも影響されないでいることなどできないし、誰もが「今のままでいたい」と思うことと同じくらい、本当は「変わりたい」と願っているのかもしれません。冬子の経験した恋愛は、彼女がかたくなに守ってきた自分というものを根本から変えてしまうほど激しく、なのにその結末は決して報われたとはいえないものでした。けれども、誰かと本当の意味で繋がるためには、いやというほどの孤独を味わい、自分自身と徹底的に向き合うこともまた、人生において必要なのだという作者からのメッセージを、本書を通して感じることができるのです。
 

哀しみや絶望にそっと救いの手を差し伸べる/『愛の夢とか』

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続いて紹介する『愛の夢とか』は、7編の短編から成る小説集です。どの作品も、日常に潜む、「孤独」やうら寂しさを抱えたまま戸惑う主人公達が印象的です。
短編というと、はっきりとした起承転結で結末にはささやかながらもカタルシスを感じたくなるものですが、その点では、これらの作品はどれも「消化不良」気味といえるでしょう。淡い期待がくじかれたり、執着していたものを失ったり、近くにいる大切な人とのどうしようもない距離感に気づき戸惑う、といったような少し辛い展開が待ち受けています。繊細で美しい文体とはうらはらに、登場人物の、ささやかな自己憐憫の思いさえ、作者は許さずに、「答え」を出さないまま物語は唐突に幕を閉じます。物語のその後は、そのまま読み手にゆだねられ、私たちもまた、作者の痛いほどまっすぐな「生きるということ」、「愛するということ」、「失うということ」という問いに直面させられることになります。

子供のころ、ふいに厳しいことを言われたり、叱ってくれた先生や親の姿に、むしろ安心感や愛情を感じた記憶はないでしょうか。口当たりのよい言葉でつつむことで誤魔化したような「良い話」より、人というものの持つ絶対的な孤独と哀しさに真摯に向き合い、疑問符を投げかける作者の姿勢こそが、厳しいからこそ温かいものに感じられます。

うまく言葉にできないということは、誰にも共有されないということでもあるのだから。
つまりそのよさは今のところ、わたしだけのものということだ。
(『アイスクリーム熱』)

「前向きなんじゃなくて、曖昧なだけなんだよ」と僕は言った。
「君みたいに、あまり極端な感じかたをしないというだけのことなんだ。自分の身に起こることや、自分がしようとしていることを、つきつめて考えようと思わないんだよ」
「それは、最初からそうなの」
「そうだよ。悪いも良いもないと思ってるから、楽なんだよ」
(『三月の毛糸』)

人と人との間に生まれる孤独感ややるせなさを、目をそらさずに掬い取って描いてみせる作者。人は誰かの存在を求め、愛そうとせずにはいられないということを、読者の目の前に提示してくれています。7つの物語のそこかしこに、自分、あるいは親しい人、そして自分自身の過去や未来の姿が重なることで勇気づけられる、不思議な魅力あふれる短編集です。
 

「現実」から決して目を逸らさない強さ/『すべてはあの謎にむかって』

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東日本大震災の直後から、作者自身が第1子を妊娠するまでという、公私ともに変化の多い時期の連載記事から編まれたエッセイです。軽快なリズムで読みやすいくだけたエピソードが中心でありながら、まるでふと真顔に戻るように、社会や世界にまつわることについて透徹なまなざしを向ける作者の視点が印象的です。川上未映子の作者としての姿勢は、「世界に存在する全ての“生き難さ“をなくしたい、それができないまでも、想像し、理解することを忘れないでいたい」というものなのかもしれません。小説であれ、エッセイであれ、ごく私的な体験から普遍的なものへと、作者のメッセージはいつでも一直線に力強くジャンプしていきます。そこに「女性」という、自らの属性を勢いよく取り込むことで、その言葉は実体ある強さを伴って読者の胸に響くのです。
震災の爪痕が残る、南三陸町での滞在時、宿泊所の露天風呂で出会った一人の若い母親についての文章にも、そのスタイルが如実にあらわれています。

若くもないし腰にはふんわりとした肉がついていて、きっとどこにでもある体なのだけれど、なんというのか生命力としか言いようのない強さに満ちていてそれを惜しみなく外部に与えるさまが目に見えるほどに発揮されているのだった。(中略)わたしは母性というものに幻想も美化する気持ちもほとんどないつまらない人間ではあるけれど、この目の前の圧倒的な強さと美しさがもし母性というものに関係しているとするならば、それは凄まじいものだと思うしかないと息を呑むだけでため息をつくこともできなかった。そしてそのあと抱かせてもらった赤ん坊は文字通り、命そのものだった。
わたしにとっての南三陸町は、その母子の輝きそのものである。町の記憶は匂いや光や言葉とともに、あの筆舌に尽くし難い圧倒的な生命力と分かちがたくわたしのなかにある。津波にも地震にも奪いきれないものが、わたしたちのなかにはある。

一人で全てを抱え込むにはこの世界はあまりにも広く、問題の根はあまりにも深い。
だからこそそこから目をそらすのではなく、「ことば」という形で思ったこと、感じたことを絞り出すように記していく、そのことから逃げない姿勢が、彼女の文章を混じりけのない鉱石のように輝かせるのかもしれません。
 

「女性であること」への希望に満ちた応援歌/『きみは赤ちゃん』

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第1子の妊娠直後から、出産、生後1年までの初めての育児生活を赤裸々に綴ったエッセイ集です。衝撃のデビューから、私小説的存在でありつづけた著者がそれでもかたくなに線引きをしてきた、自らのプライベートと小説家としてのテーマが、これ以上ないくらい見事に融合を果たし、エッセイという枠を超えてこれからの「作家」としての意気込みと覚悟を感じる作品です。
妊娠・出産という女性にとっての一大事において、「ネガティブネイテブ」(=生粋のネガティブ思考である、ということ)を自認する作者が「最悪の想像をしてもだいたいこんなもんやろう」と思っていた想像をはるか遠く飛び越える、「壮絶」としかいえない人生初の体験と激変する生活の記録は、読者の心を捉えます。あちらこちらに挿入されるユーモアたっぷりのエピソードには笑わせられながら、それとは逆に、そうでも思わないととてもじゃないけれどやってこれなかった、という、不安定で閉塞感いっぱいの子育ての現実が、経験者には深い共感と、未経験者には応援歌となって胸に迫るのです。

作中で度々語られる、夫の阿部和重との「共同育児」についての考察やエピソードはまさに白眉です。どれほど信頼し合い、どれほど話し合いを重ねても、男という存在が、母親と赤ちゃんの輪の何重も外にあるように感じる、その孤独感と危機的状態に、こんなはずではなかったと自暴自棄になる様子すら赤裸々に語られます。

これはわたし個人のしんどさ、彼女たち個人のしんどさじゃなくて、女性の、母親のしんどさなのだ。限界なのだ。
なぜ、父親たちは、男たちは、それに気づかないのだろう。なぜ、自分たちの問題として感じることができないのだろう。(中略)
女性が助けを求めても、人間扱いしてくれと叫んでも、男性や社会にとっては、それはどこまでも「クレーム」でしかない。クレームとして処理されるだけで、問題提起にもなりはしない。この社会を作ってる男性たちの頭の中身が変わらない以上、なにも変わることなんてないのかもしれない。そう思うとまた眠れない夜がいっそう長く、終わりのないものみたいにふくらんでゆくのがみえるのだった。

それでも、まだものも言わぬ我が子の存在が、いついかなるときでも大きな喜びとなって、家族の未来をつなぎとめていくことも綴られていきます。自立した「個」の人間として、人生をコントロールできると思ったことがいかに浅はかであり、またもったいないことだったか。私たちがメディアを通して知る川上未映子は、人生における選択を決して「他人任せ」にしない、自信に満ちあふれたまばゆい存在でした。しかし出産とそれにつづく子育ては、作者がそれまで持っていた価値観や世界観が白紙になってしまうほどに衝撃的な体験だったことを、読者は本書を読み進めることで追体験します。そして、息子という存在が、代わりに失うものが多くあったとしてもそんなこと問題にもならないほど、かけがえのない宝物なのだと確信していくのです。

生まれたばかりで、あんなに小さかったオニは、(中略)すぐに大きくなってしまうだろう。いろいろなことを忘れながら、新しいなにかに出会いつづけて、そしてすぐに、わたしのそばからいなくなってしまうだろう。オニがおなかにやってきて、そして生まれてから今日までのこの時間は、誰かが、なにかが、わたしにくれた、本当にかけがえのない宝物だった。(中略)きみが、わたしの赤ちゃんだった日々。
オニがこっちを見ている。小さな手をふっている。なにーといいながらオニのそばにいく。抱っこしようと手をのばすと、ウン、といいながらゆっくり立って、一生懸命、歩こうとしている。(中略)もう赤ちゃんじゃなくなった。もう赤ちゃんじゃなくなった、オニ。どうかゆっくり、大きくなって。きみに会えて、とてもうれしい。生まれてきてくれて、ありがとう。

 

おわりに

川上未映子はいつもすっくと立って、時代の、そして女性たちの一歩先を颯爽と歩いているように思えます。それは決して、一段高いところからこちらを見下ろしているからではなく、彼女が自らの置かれる状況、現実から決して目をそらさず、向き合い、葛藤しているからなのかもしれません。卑近な悩みも泥臭いところも、すべてありのままを「自分」として愛せる強さを持っているからでしょう。その強さが、自分と家族のためばかりでなく、会ったこともない沢山の女性を初めとする弱者、生きづらさを感じている読者へ寄り添う意志から来ていることは、彼女の作品を手に取ればわかります。
しなやかに、まっすぐに、現代女性を取り巻く問題に切り込んでいく彼女は、子供というかけがえのない宝物を得た今、これからさらに輝きを増し、同時代を生きる私達に希望を与え続けてくれるでしょう。

初出:P+D MAGAZINE(2019/06/04)

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