宮沢賢治の美しい詩6選

生誕から120年以上経った今でも沢山の人々に影響を与え続けている宮沢賢治。『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』といった童話作品で知られている彼ですが、詩人としての側面は意外と知らない人もいるのではないでしょうか。今回は、そんな宮沢賢治の美しい詩を紹介していきます。

宮沢賢治はその生涯で2冊自費出版しました。今でもたくさんの人に愛される童話作品が収録されている『童話集 注文の多い料理店』は彼の描いたイーハトーブの豊かな世界が描かれています。そして、もうひとつの『心象スケッチ 春と修羅』では、彼の内面的な葛藤が描かれています。中原中也などに強い影響を与えたと言われるこの詩集、実は映画「シン・ゴジラ」の冒頭に登場し、ゴジラ誕生の謎を解く重要な鍵としての役割を持ちます。まず最初に紹介するのは、様々な人に影響を与え続ける『心象スケッチ 春と修羅』の序文です。

1.自らを青い照明だとした賢治と心象スケッチ––「春と修羅 序」

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

『心象スケッチ 春と修羅』より

一見難しく見えるこの序文の冒頭で彼が語るのは、自分とはどういう存在か、その自分がここに書いたものは一体何なのか、という説明です。自分というのは交流電燈のひとつにすぎず、みんなと一緒に青く光ったり消えたりしている、そしてここに書かれたものはそれらの明滅をそのまま書き記したものだ、という賢治のメッセージが込められています。そしてまさにそれこそが心象スケッチなのだと述べます。引用の後に続いて、ここに記されたものは自分が見た通りの景色のままだということや、我々が見ている記録や歴史も、時間によって変わっていくということを、賢治は科学的な用語を用いながら説明していきます。賢治は農学を学び、また法華経心酔しており、科学用語や宗教用語を使ったこの『春と修羅』という独特の作品にふさわしい序文を独自の言葉で書いています。
発売当初、この序文の難しさ技法の新しさもあってか、『心象スケッチ 春と修羅』はほとんど評価されることはなく、売れることはありませんでした。賢治の生涯収入童話作品からのみで、今でいう五千円ほどという不遇に終わりました。しかし、この詩集で歴史や宗教の位置を変換しようとしたと本人が述べる通り、賢治の壮大な世界観新しさは後の人々に大きな影響を与えたのです。

 

2.春の中を一人歩く修羅を描く––『春と修羅 mental sketch modified』

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの詔曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

『心象スケッチ 春と修羅』より

この表題作である『春と修羅 mental sketch modified』は、風景と心が混ざり合ったような不思議な描写から始まります。その中で苦しみ怒る自らの姿を、賢治は修羅として描きます。修羅とは、仏教文化でいう阿修羅のことで、人間になりきれない未熟な存在でもあります。怒り葛藤する自らをそのような存在として規定しながら、彼は自然と交感していきます。ここで賢治は自我風景を一緒にして区別せず、心の中が風景に映し出されるような描き方をしています。心と風景光と影といったコントラストが美しい賢治の代表作です。

 

3.亡くなった妹へ向けた鎮魂歌––『永訣の朝』

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてきてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い(じゅん)(さい)もやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)

『心象スケッチ 春と修羅』より

このように始まる『永訣の朝』は、賢治が妹のトシを亡くした際に書いたものです。賢治の一番の理解者であったとされるトシは、肺炎のために24歳の若さで亡くなります。真面目な秀才であった彼女は、賢治の思想に強い影響を与えたとされています。あめゆきを取ってきて欲しいと頼む病床のトシのために献身的に看病しながら、別れてしまう現実を理解して彼女の幸せを祈る賢治の姿が読み取れます。このような死に面しながら、賢治は他にも『無声慟哭』『松の針』といった作品も生み出しています。悲劇の中でも書き続ける彼の創作への強い意志が感じられる作品の数々。誰かを失うことの苦しみと、別れゆくことの悲しみを痛々しいほどに描いています。

 

4.生徒たちへの熱いメッセージ『告別』

『心象スケッチ 春と修羅』だけでは終わらず、その後も沢山の心象スケッチと呼ばれる詩を賢治は残しています。詩集『春と修羅 第二集』も死の前に自ら出版の準備をしており、そこには賢治が稗貫郡稗貫農学校に教師として勤めていた頃の作品が収録されています。

云わなかったが
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけてるような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ

もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光りの像があらわれる
お前はそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

『春と修羅 第二集』より

ここに引用した『告別』は、賢治が農学校の教職を辞める際に作られたものです。当時の農村は貧しく、将来が不安定な教え子たちへの共感をもって彼は教師を務めました。ここで賢治は生徒たちに、それぞれの才能を認めつつも、その才能を保ち続ける難しさを説きます。生活するためには自らの能力を削らなければならない、それでもそこに安住するのではなく自分にしかできない何かを作り上げて欲しいと賢治は強く述べます。賢治は少し変わった先生でありながら、生徒たちと劇をしたりするなど、教育に熱心な教師であったと伝えられています。優しいだけではなく、自らの目指すものへの厳しい姿勢を持ったこの言葉は、現代を生きる私たちにも響いてくるでしょう。

教職を辞めた後、賢治は農民たちと一緒に羅須地人教会を設立します。昼間は農作業をし、夜にはエスペラント語の勉強やレコード鑑賞など、様々な学びを農民たちと行いました。農民芸術の学びのために記された賢治の宣言である、農民芸術概論要綱では、「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」や「永久の未完成これ完成である」と言った力強い言葉で農民たちと共に未来を模索しました。しかし、あまり好意的でない意見が寄せられたり体調を崩したりしていく中で協会は解散し、賢治は病気になってゆきます。

 

5.病と闘う苦しさと悲しみを描く––〔丁丁丁丁丁〕

     丁丁丁丁丁
     丁丁丁丁丁
 叩きつけられてゐる 丁
 叩きつけられてゐる 丁
藻でまっくらな 丁丁丁
塩の海  丁丁丁丁丁
  熱  丁丁丁丁丁
  熱 熱   丁丁丁
    (尊々殺々殺
     殺々尊々々
     尊々殺々殺
     殺々尊々尊)
ゲニイめたうとう本音を出した
やってみろ   丁丁丁
きさまなんかにまけるかよ
  何か巨きな鳥の影
  ふう    丁丁丁
海は青白く明け    丁
もうもうあがる蒸気のなかに
香ばしく息づいて泛ぶ
巨きな花の蕾がある

『疾中』より

丁丁丁と続くこの不思議な作品は、賢治が肺炎で病臥している時に書き記した未発表の作品です。本人が『疾中』という題を加えた、病床に書かれたいくつかの詩篇の中の一つです。不吉な言葉の連なりの中で、病に負けまいとする賢治の苦しみ思いが伝わってくるようです。志半ばで諦めた悔しさと、それでもまた立ち上がろうとする賢治の力強さが伝わってきます。

 

6,祈るように書きつけた賢治の理想––『雨ニモマケズ』

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンノカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋にヰテ
東に病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニシニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北にケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロとイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガし
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボー トヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

国語の教科書にも載っているこの有名な詩は、賢治が花巻で闘病中だった際に手帳に記されたメモです。斎藤宗次郎という人物をモデルにしたと言われており、歴史を経て様々な解釈がなされてきた賢治の代表作と言えるでしょう。ここで描かれる人物は、他人のために尽くす人間の理想像のように捉えられ、賢治の本来の姿と考えることもできますが、重要なのは賢治が病に伏していて、このような人間になるのを理想としていたということです。また、あまり知られてはいませんが、彼が信仰していた日蓮宗の法華曼荼羅が祈るように書き記されています。病で苦しむ自分は、ここで書いているもののようになりたい、けれどもなることができないという賢治の葛藤と、彼の宗教的な思想が合わさって、現代まで人の心を打つ言葉となったのです。

賢治は、童話や詩だけでなく、作品、『双子の星』『銀河鉄道の夜』に登場するような夜空のことを歌った歌『星めぐりの歌』を作詞作曲したり、学校の生徒たちと演劇を作ったり、絵を描いたりもしました。彼は生涯を通して創作し続ける表現者でした。宮沢賢治は37歳でこの世を去り、死後徐々に評価がなされていきます。葛藤しながら作品を生み出し続け、今でも様々な解釈がされる彼とその作品たちは、かなり特異な存在と言えます。まるで一つの世界を作り上げたかのような賢治の言葉たちは、これからも生き続けるでしょう。

初出:P+D MAGAZINE(2019/11/09)

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