【太宰、カフカ他】落ち込んだとき、「立ち直らなくてもまあいいや」と思える本4選
なにかに落ち込んだとき、“元気の出る言葉”ではなく、無理に背中を押されない、ちょっとネガティブで投げやりな言葉がほしくなる人も多いのではないでしょうか。今回は、なにかに躓いたとき、「まあ、しばらくは立ち直らなくてもいいや……」と思えるような本を4作品ご紹介します。
「元気が出る魔法の言葉」、「前向きな人になる方法」、「ネガティブな考えを断ち切る習慣」──。そんなコンテンツばかりが溢れる昨今、どうしてもネガティブな自分と折り合いをつけることができず、歯がゆい思いをしている方もいるのではないでしょうか。
本当に落ち込んで元気が出ないとき、偉人の前向きな名言集は、自分の心にとって重すぎる負荷になりかねません。風邪を引いたときに消化によいお粥が食べたくなるように、心の弱っているときに摂取したいのはむしろ、無理して頑張らない、投げやりでネガティブな言葉であることも多いはずです。
今回は、なにかに落ち込んだり躓いたりしたとき、「まあ、しばらくは立ち直らなくてもいいや……」と思えるような選りすぐりの本を4作品ご紹介します。
「なにもかもどうでもよくなる」瞬間がある──『トカトントン』
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B009AJ8IJW
なにがきっかけかも分からないけれど、かつて熱中していたことに急に興味が持てなくなってしまったり、あらゆることに関するやる気を突然失ってしまった……、という経験をしたことがある人は、少なくないのではないでしょうか。
そんな、人が“無気力”になる瞬間を鮮やかに描いた短編小説が、太宰治の『トカトントン』です。主人公は、終戦直後に聞いたトカトントン、という金槌の音をきっかけに、その音が聞こえると突如すべての物事に対するやる気を失う体質になってしまった男。仕事や恋愛に対してどれだけ熱意が高まろうとも、「トカトントン」が一度聞こえてしまったら最後、彼はすべてを簡単に投げ出してしまうのです。
たとえば、主人公が想いを寄せていた花江さんという女性に、海辺で打ち明け話をされるシーン。あと少しで花江さんと結ばれるという場面で、彼は近くの小屋から聞こえる「トカトントン」の音に気づいてしまいます。
トカトントン、トントントカトン、とさかんに打ちます。私は、身ぶるいして立ち上りました。(中略)
花江さんのすぐうしろに、かなり多量の犬の糞があるのをそのとき見つけて、よっぽどそれを花江さんに注意してやろうかと思いました。
波は、だるそうにうねって、きたない帆をかけた船が、岸のすぐ近くをよろよろと、とおって行きます。
「それじゃ、失敬」
空々漠々たるものでした。貯金がどうだって、俺の知った事か。もともと他人なんだ。ひとのおもちゃになったって、どうなったって、ちっともそれは俺に関係した事じゃない。ばかばかしい。腹がへった。
「トカトントン」をきっかけに、男の意識は花江さんではなく、あろうことか花江さんのうしろにある犬の糞に注がれることとなってしまいます。
この男の無気力さや鬱屈とした気持ちは日本の敗戦に由来するものではありますが、急に感情のブレーカーが落ちてしまうような感覚は、現代社会に生きる私たちも味わったことがあるもののはず。『トカトントン』は読み手に元気をくれるような作品ではないものの、「こういう気持ちになること、あるよなあ」と時代を超えた強い共感を呼び起こしてくれる1冊です。
人見知り芸人が社会に折り合いをつけるまで──『社会人大学人見知り学部 卒業見込』
https://www.amazon.co.jp/dp/4041026148
『社会人大学人見知り学部 卒業見込』は、「人見知り芸人」「運動音痴芸人」としても知名度の高い、お笑いコンビ・オードリーの若林正恭によるエッセイ集です。
本作の中で若林さんは、タイトル通り極度の人見知りで自意識過剰である自分の生活を、飾らない素直な文体で綴ります。
憧れの芸人の先輩が目の前にいて、自分と話してくれている。ご飯に連れて行っていただいたなんてこともあった。自分たちはすぐ消えると思っていたから、会えるうちにサインと写真を撮っていただこうなんて、たけしさんやダウンタウンさんの楽屋の前でモジモジしていたなんてこともあった。
読みどころは、そんな若林さんが「人見知り」を掲げながらも、少しずつ変化していく自分の考えや姿勢を素直に記しているところ。
真っ当な社会人にならなきゃなんて焦らなくてもいいと思う。納得できないままでいいですよ。ぼくは今の社会を真正面から納得できる人なんてイカれてると思いますよ。(中略)
例えばさ、ぼくのようなクズは目上の人を尊敬することで挨拶が出来るようになったんじゃなくて、社会って挨拶を丁寧にすると好感もたれるんだろ? ビールを注ぎゃあ簡単に気持ちよくなるんだろ? って完全に見下してからキチッと挨拶できるようになったり、ビールが注げるようになったクズなんですよ。
若林さんの“社会不適合者”ぶりは、読み手の共感を誘うとともに、「自分もこんな風になら、どうにか生きていけるかも」という勇気をくれます。落ち込んだとき、多少ズルをしながらでも前に進もう、と思わせてくれるような作品です。
人生に「失敗」し続けた文豪の言葉──『絶望名人カフカの人生論』
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4102071059
『変身』『城』などの著書を持ち、20世紀の文学を代表する作家のひとりであるフランツ・カフカ。彼はその礼儀正しさと謙虚さで周囲からこよなく愛される人物であったと同時に、とにかくネガティブな思考の持ち主だったと言います。
『絶望名人カフカの人生論』(頭木弘樹編)は、そんなカフカが遺した著書や手紙の中から、“絶望”にまみれた名言を紹介してくれる1冊です。
本書の冒頭では、カフカの人となりがこんな風に説明されています。
彼は何事にも成功しません。失敗から何も学ばず、つねに失敗し続けます。
彼は生きている間、作家としては認められず、普通のサラリーマンでした。(中略)
結婚したいと強く願いながら、生涯、独身でした。
身体が虚弱で、胃が弱く、不眠症でした。(中略)
彼の書いた小説はすべて途中で行き詰まり、未完です。
あまりの報われなさに、読んでいて気の毒になってしまうほど。そんなカフカが遺した言葉は、どれもこれもネガティブさが突き抜けているものばかりです。
将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
──フェリーツェ(結婚を申し込んでいた女性)への手紙より
ぼくは人生に必要な能力を、なにひとつ備えておらず、
ただ人間的な弱みしか持っていない。
──日記より
カフカの“絶望”は切実でありながらも、読者が引きずられてしまうような嫌な暗さはありません。本書を読んでいると、カフカはむしろ、自分のネガティブさに一種の誇りを持っていたであろうことが伝わってきます。
カフカの名言の数々は、自分自身を「弱い」と認め、それを公言してしまうという勇気の持ち方もあることを私たちに教えてくれます。
「行き止まり」はたまに楽しい──『羽虫群』
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/486385224X
『羽虫群』は、1981年生まれの新進気鋭の歌人・虫武一俊の第一歌集です。全体を通して特徴的なのは、短歌の中で描かれる主体の極端なまでの内向性と、生きるのが恥ずかしいという感覚。
生きかたが洟かむように恥ずかしく花の影にも背を向けている
このまんま待っても亀になれぬなら手足はどこへどうすればいい
あと戻りできないフロアまで行ってそれでもすっぽかしたことがある
職歴に空白はあり空白を縮めて書けばいなくなるひと
“花の影”にまで背を向けてしまうような自信のなさと、そんな自分の居たたまれなさを俯瞰しつつ面白がってしまう明るさが同居しているのが、彼の短歌の魅力です。
宇宙的スパンで見れば風呂のあとまたすぐ風呂の生物だろう
長いひきこもりのあとのきらきらのまつ毛ごしに見る冬の街
作中で、短歌の主体はほぼ引きこもりの無職として20代を過ごします。代わり映えのしない日々の中でも、そこで捉えられる季節の移り変わりや感傷は実に鮮やか。内省する歌が多い中で、自分のことだけでいっぱいにならず、常にどこかドライな視点で周りを観察しているような視点が光ります。
行き止まるたびになにかが咲いていてだんだん楽しくなるいきどまり
読み終えたあと、「頑張って生きよう」とは思わないまでも「死なないでいよう」と思えるような、強い力を湛えた歌集です。
おわりに
ご紹介したフランツ・カフカの『絶望名人カフカの人生論』の中では、カフカに宛てた手紙の中で友人が綴ったひと言として、こんな言葉が載せられています。
君は君の不幸の中で幸福なのだ。
「ポジティブ」、「ご機嫌」、「前を向く」ことばかりがもてはやされる昨今ですが、不幸の中で自分自身を省み、卑屈にならずに“負”の日々も面白がることができる人は、不思議と人を惹きつける力を持っています。
長い人生、なにかに落ち込んだり躓いたりしてしまったら、すぐに起き上がるばかりではなく、ときには転んだままで見える景色に思いを馳せてみるのもよいのかもしれません。
初出:P+D MAGAZINE(2019/01/23)