【カズオ・イシグロ、ノーベル文学賞受賞!】『わたしを離さないで』TVドラマじゃ伝わらない、原作の魅力。

カズオ・イシグロが2017年のノーベル文学賞を受賞しました。綾瀬はるか主演でドラマ化もされた『わたしを離さないで』について、原作小説を読まないことには伝わらないその魅力を徹底解説します!

2016年1月から、カズオ・イシグロ原作の『わたしを離さないで』がTBS系でドラマ化され、放送されていました。

イギリスでは、2010年にキャリー・マリガンとキーラ・ナイトレイのW主演という豪華キャストで映画化され、日本では2014年に蜷川幸雄演出で舞台化されるなど、盛んに翻案が行われている人気作ですが、ドラマ化されたのはこのTBS版が全世界で初めての試みだったといいます。

しかし、蓋を開けてみれば、第一回の視聴率がその期ワーストの6.2%という「大コケ」の結果に‥‥‥。そこでP+D MAGAZINE編集部はドラマは好きじゃなくても、「原作を嫌いにならないで」という思いを胸に、カズオ・イシグロという現代を代表する作家の生み出したこの傑作の魅力を、原作を読むことでしか味わえない「語りの面白さ」という切り口から語り尽くしたいと思います。

 

著者、カズオ・イシグロとは?

作者のカズオ・イシグロは長崎生まれの日系イギリス人作家。幼いころに家族でイギリスに渡り、イギリス人として教育を受けます。長編デビュー作は『遠い山なみの光』(1982年)で、1989年に出版した第3作『日の名残り』が人気を博し、同作でイギリスの権威ある文学賞であるブッカー賞を受賞します。

『わたしを離さないで』は2005年に出版された長編第6作。翻訳者である柴田元幸氏は、「著者のどの作品をも超えた鬼気迫る凄みをこの小説は獲得している。現時点での、イシグロの最高傑作だと思う」と日本語版(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)の「解説」のなかで語っています。

映画やドラマは映像作品で原作は小説ですから、当然内容が同じでもその演出の工夫はそれぞれに異なってきます。それでは、ドラマとは違って原作は一体何が、どのように面白いのでしょうか? 以下では、原作の奥深い魅力を余すところなく楽しむための読み方について紹介いたします!

 

ポイント① まどろっこしい面白さ

 

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『わたしを離さないで』の舞台は1990年代末のイギリスです。物語はキャシーという女性が、幼少時代からの過去を回想する一人語りで進んでいきますが、読者はかなり早い段階から、キャシーが語っているのはどんな世界の話なのかに疑問を持ち、それが解消されないまま読み進めていくことになります。

ふだん小説を読む際、物語の中で通用している設定について、私たちは、それが物語の中に出てきた段階ですぐに、もしくは出てきてからそれほど間をおかずに、説明があることを期待して読んでいくことが多いと思います。しかし、この語り手キャシーは、そうした基本的かつ重要な設定について、私たち読者が真っ先に知りたいと思うような情報をすぐには明かしてくれないのです。

たとえば、キャシーが友人たちとともに「ヘールシャム」と呼ばれる寄宿学校で育ったことが早い段階で明かされます。そのヘールシャムで行われる、「販売会」や「交換会」といったイベントについては、キャシーは「少しお話ししておかなければなりませんね」と、補足説明が必要であることを自ら言いだして説明してくれます。

【注意】ここから先の内容は作品に関する重大なネタバレを含みます。

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このヘールシャムという場所は、実は単なる寄宿学校ではなく、移植手術に臓器を提供する目的で作られたクローン人間である子供たちが集められ、臓器提供という「使命」を果たせる人間になるべく育てられている場所です。しかし、ここがいったい何の目的で存在している場所なのか、ここにどういった子供たちが集められており、育った子供たちはここを出た後どうなるのか、といったことについては、キャシーはなかなか説明しようとしてくれません。

また、ヘールシャムを出て大人になったキャシーは現在、ヘールシャムやヘールシャムと同じような他の施設で育ってきた「提供者」と呼ばれる人たちの世話をし、彼らを見守り、彼らが使命を終えていくのを見送る「介護人」の仕事をしているのですが、これらがいったいどういった人たちのことなのかについても、彼女はすぐには詳しく話してくれません。

私たち読者は、キャシーの語りの断片を手探りで拾い集めながら、その深奥にある真実や、物語世界を支えている恐ろしい前提について推測を重ねることになります。ある意味「まどろっこしい」とも言えるような読み方ですが、このキャシーの語り方で先の展開への興味をそそられ、ページを繰る手が止まらなくなるところが『わたしを離さないで』の第1の面白さです。

 

ポイント② ツンデレな語り手?

A eight years old school girl close to the schoolyards

『わたしを離さないで』の物語は、寄宿学校であるヘールシャムとそこでの友人たちにまつわるキャシーの回想が大部分を占め、過去を振り返っている現在への言及はそれほど多くはありません。しかし小説を読み終わるときには、ここまで語られてきた内容から、キャシーがこの物語の後、いったいどういった運命をたどることになるのか、読者にも想像がつくようになっています。

先に述べたように、この小説はキャシーが自分の回想を一人で語るという形式で物語が進んでいくため、私たち読者はキャシーが語ってくれる内容しか、受け取れるものがありません。その中で、キャシーが自分の言葉で語ってくれることと、回想の中に登場する別の誰かが語ること(これもキャシーの回想の一部なので、そういう意味では彼女の語りではありますが)の中での重要な情報の配置のしかたや、キャシーが現在の自分の言葉で語れることと、他人の言葉や誰かとのやり取りの再現を通じてしか伝えられないことは何か、といったことに注意すると、キャシーが自分自身の認識や記憶についての語り方を(意図的にか無意識的にか)操作している、ということがわかってきます。

例えば、次の引用箇所を読んでみてください。キャシーが自分や友人たちの原点であるヘールシャムについて、複雑な心境を独白する場面です。

 

いまでも、ときどき、元生徒がヘールシャムを――いえ、ヘールシャムがあった場所を――探し歩いているという話を聞きます。ヘールシャムの現状が噂になることもあります。ホテルになっている、学校だ、廃墟だ……。でも、わたしは、これだけ車で走り回っていても、自分で探そうと思ったことはありません。いまどうなっているにせよ、あまり見たいとも思いません。

ただ、自分から探そうとしなくても、運転中、ときどき何かを目にして、あっ、見つけた、と思うことはあります。遠くに体育館を見れば、あれは絶対にヘールシャムの体育館だと思い、地平線にポプラ並木が見え、隣に樫の大木でもあれば、これは反対側から南運動場へ登っていく道に違いない、と思います。(中略)ですから、意識のどこかのレベルでは、わたしもヘールシャムを探しているのかもしれません。

でも、申し上げたとおり、自分から探しにいこうとは思いません。

(土田政雄訳)

 

いかがでしょうか。キャシーは自分で言うように、本当に自分が育った場所であるヘールシャムに現在はそれほど関心がなく、探すつもりはないように読めるでしょうか? それとも、探そうとは思わない、と口先では言いながら、どこかに痕跡でも見つけられないものかと常に気にかけているような印象を受けるでしょうか。

ここではキャシーも慎重で、「意識のどこかのレベルでは、わたしもヘールシャムを探しているのかもしれません」と潜在的な可能性を認める態度を取っていますが、この態度は額面通りに受け取れるでしょうか、それとも「自分でもそういう可能性には気づいてるんですからね!」というように予防線を張った上で、あえて改めて「自分からは探す気はない」という主張を強調しているせいで、かえってわざとらしく、嘘くさいように読めるでしょうか‥‥‥?

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さて、ここまで、同じ使命を持つ提供者たちを見守り見送り続ける語り手キャシーの、独特の立ち位置に焦点をあてて『わたしを離さないで』という小説を紹介してきました。小説という表現ジャンルは時として「物語の内容」そのものよりも、「物語の伝えられかた」に注意して読むことにより、より豊かな解釈が育まれることがあります。そしてそのような解釈の余地を持っているところが、『わたしを離さないで』という作品の奥行きであり、内容そのものとはまた違ったところにある面白さなのです。

このように、なにかをぐっと言い淀みながらそっけなく出来事を語っていくキャシーは、自分が本当に感じていることは隠しつつ、それと裏腹の内容を語っている部分があるという点で、こちらの過去記事(https://shosetsu-maru.com/recommended/openingpassage/)でご紹介したような、「信用できない語り手」と呼ばれるタイプの語り手にあてはまります。しかし、なにもキャシーは信じるに値しないホラ吹きだというわけではありません。彼女の「語り」をめぐるこうした屈折した態度には、個人にとっての記憶の価値という、この作品のテーマが隠されているともいえるのです。

 

ポイント③ 〈記憶〉をめぐる物語

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『わたしを離さないで』の物語の中では、「カセットテープ」が重要な役割を果たすことになります。「オリジナル」と「コピー(クローン)」という含みもあるこのカセットテープですが、「個人が大切にしている記憶」のメタファー(隠喩)にもなっています。

作者のカズオ・イシグロは、「人が人生の終りに近づくにつれて、記憶を自分のためにどう使うか」というテーマを初期の作品から繰り返し追求してきました。イシグロの以前の作品、たとえば戦後日本を舞台にした初期の二作品『遠い山なみの光』『浮世の画家』、またイングランドの古いお屋敷に長年勤める執事の独白と回想を描いた『日の名残り』などは、どれも世代間の断絶、そして過去にとらわれている旧い世代の人間が時代の変わり目を経験し、それを自分なりに受け入れていく過程を扱ったものでした。

『わたしを離さないで』の語り手であるキャシーもまた、読者に向かって語りかけることで自分の記憶を形に残そうとします。また、回想の中で、子供時代の思い出について、親しい友人たちと何度も語り合い、正確な記憶を保存しようとする、という場面もあります。彼女はそうやって、ヘールシャム育ちの仲間たちと記憶を確認しあい、それを色あせないものにしようという努力をしているのです。そしてその結果、彼女は自分の大切な記憶について「以前と少しも変わらず鮮明です」「記憶を失うことは絶対にありません」と断言しています。

でも、本当にそうでしょうか? それはキャシーの願望ではないでしょうか? 願望なのかそうでないのか、私たち読者にははっきりと言い切ることはできません。この小説はキャシーが一人で自分の思いを語る形式で書かれており、読者には彼女が取捨選択して教えてくれる情報しか与えられないからです。

けれども、彼女が平静を装って語っていたときほど、私たち読者にとっては衝撃的な事実が明かされる展開がその後に待っていたことを考えれば、キャシーの語ってくれる彼女自身の感情について、ここでも素直に受け取ってよいものだろうか、という気にもなるのです。そして、彼女が記憶を失うことは絶対にない、と思いたがっているのは、彼女自身がこれから立ち向かうことになる自らの運命に対する、いわば準備の一環、彼女の精一杯の虚勢だったのではないか、というようにも読めてきます。

 

読み返すたびにハマる!

何度も述べているように、この小説では読者が気になる情報ほど後出しにされます。そして真実がどんどん明らかになっていく段階では、それが抑制のきいた語り口で明かされるために、かえって読者の驚きは大きなものになります。そしてその驚きを体験することが、この小説をはじめて読むときの醍醐味の一部といえるでしょう。「語りの視点」を操作することが難しく、視聴者に隠しておきたい情報が筒抜けになるドラマでは、この醍醐味を再現できないのも当たり前のことだったのです。

しかしイシグロ自身はこの作品をミステリのように仕立てようと意図したわけではないと述べていますし、真実を知ってもう一度読み返したときでも、キャシーがただ自分の思い出を自分の視点で語っているというだけではなく、そこには様々な、文章の表面には表れてこない葛藤があった可能性も想像されるようになっていきます。

そうやって読み返すたびに、キャシーが語っている内容そのものに加え、彼女の語り方の意味や、彼女自身にとってのその効果について、様々な読み方が可能になるのが、この小説を手に取る楽しみのひとつだと思います。

初出:P+D MAGAZINE(2018/01/15)

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