採れたて本!【海外ミステリ#23】

採れたて本!【海外ミステリ#23】

 二十世紀に活躍した大衆小説家、ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ。彼の推理小説の魅力を伝えるのは非常に難しい。最大の特徴のうち一つは、推理小説にはおよそあり得ないレベルの偶然の多用なのだが、じゃあ、島田荘司や道尾秀介のような、偶然によって奇想を織り上げる作家なのかといえば、そうではない。もう一つの特徴は、現在と過去を自在に往還する語り=騙り口なのだが、じゃあ、幻想文学なのかというと、そうとも言い切れない。様々な魅力が渾然一体となったところにロジャーズの小説はあり、その真価は、読んでいる最中に覚える圧倒的な酩酊感にあるといえそうだ。創元推理文庫に入った『赤い右手』も、近年〈奇想天外の本棚〉の一冊として紹介された『恐ろしく奇妙な夜』も、こうした独特の魅力をたたえている。かくいう私も、高校生の頃に「世界探偵小説全集」の『赤い右手』と出会い、その魅力に取り憑かれ、中編一本を読むために『密室殺人コレクション』というアンソロジーまで手に入れた(中編「つなわたりの密室」が収録されており、現在は『恐ろしく奇妙な夜』で読むことが出来る)。

 そんなロジャーズ1958年の作『止まった時計』が国書刊行会から邦訳刊行された。それどころか、〈ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ・コレクション〉と題し、以後、『赤い月の夜に』『さいを振る女神』を刊行、全三巻のコレクションになる見込みだという。

『止まった時計』では、冒頭に、自宅で襲われて、瀕死の重傷を負ったかつての美人女優ニーナ・ワンドレイの姿が描かれる。正体不明の男が、今にもとどめを刺しにくるのではないか。そう怯える彼女を三人称から描き、事件に至るまでの「過去」を紡いでいく。これがこの小説の骨組みになっている。同時に、彼女が長い人生の過程で巡り合ってきた複数の男たちの述懐が並列するように置かれることになるのだ。

 彼女の元夫たちのうち、犯人は誰か──というシンプルなフーダニットに落ち着きそうなのに、決してそうはならない。一人の女性についての回想が小説全体を呑み込みつつ、舞台は世界にまで広がっていく。語りが際限なく広がり、過去/現在の区別なく並べ立てられるさまは、まるでラテンアメリカ文学のようで、実にくらくらする。ところが、これが結局は、推理小説に落ち着いてしまう。偶然の大いなる導きを用いつつも、奇妙に論理的な語りで、犯人が暴かれる。推理小説の枠を越えながら、結局は、推理小説に着地する。どこか歪な、しかしこの作者らしい小説である。

『赤い右手』『恐ろしく奇妙な夜』に続いて翻訳を担当したのは夏来健次で、15ページに及ぶ入魂の「訳者あとがき」も見どころの一つ。『止まった時計』の全体像──特に時系列──の把握は難しいが、訳者によって丁寧な解説が付されているので安心してほしい。ロジャーズの世界観は、怪奇小説の翻訳も数多く手掛ける夏来健次の訳文と非常にマッチしており(マイケル・スレイドのことも思い出す)、その幸福な関係を味わえるのも魅力である。

止まった時計

『止まった時計』
ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ 訳/夏来健次
国書刊行会

評者=阿津川辰海 

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