◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第6回 前編
内心では墨絵の波止場の風景のほうがずっと美しく感じたが、「わしのような俗物は色のきれいなほうがいい」と伝次郎は答えた。直筆の墨絵は一枚しかないのに対して銅版画は摺りを重ねれば何枚も同じものができるはずだった。
「では、旦那にはこちらを」と言って、逆に丸屋は『船員図』の墨絵を差し出して笑顔を見せ、「この波止場の画も何枚か手がけましたので、ほかにもあります」と付け加えた。
「ところで旦那、例の稲葉(いなば)小僧が松平周防守(すおうのかみ)の屋敷に忍び込んで、大金をかっさらって行ったとか。去年暮れの火事で焼け、建て直したばかりの木挽町(こびきちょう)の屋敷だという話です。そこいらのたわけどもの言う事ですから、どこまで本当かわかりませんが」と丸屋は笑った。
「大名屋敷ばかり狙うとかいう怪盗か。実在するなら見上げたものだが、こんな時世にそういう骨っぽい盗人(ぬすっと)がいてほしいという巷(ちまた)の願望かもしれん。石川五右衛門の一統が太閤に釜茹でにされた後も、大坂城の金蔵に忍び込んで千両箱を盗んだ怪盗がいたと語られ続けたそうだ。それにしても、松平周防守の屋敷とは、面白いことは面白い話になっている」
松平周防守康福(やすよし)は田沼意次(おきつぐ)と同い年で、老中首座に位置するものの次席の田沼意次の蔭に隠れ、いるのかいないのか極めて影の薄い人物だった。故意知(おきとも)の正室が松平周防守の娘で、周防守は岳父となるがゆえの老中首座に過ぎず、可もなく不可もない人物として知られていた。
「旦那、田沼の世が終われば、どうなりますかね」と丸屋がきいた。
天与の画才を備えた丸屋の鋭敏で繊細な感覚は、商業市場万能による文化開放の時代がもうじき終わろうとしているのを感じとっているようだった。
「まるで逆の世となるだろうな。田沼主殿頭(とのものかみ)も、もう六十七か、そう長くはない。後を継ぐはずの山城守(やましろのかみ)が去年三月に江戸城内で殺され、暮れにはあの大火だ。江戸城の近辺で奇怪なことばかりが次々と起きている」
「あの大火事が?」
「お前さんの家も、わしの家も何とか運良く焼けずに済んだものの、丸ノ内から京橋南、築地、鉄砲洲、新橋を越えて芝口、すぐ目と鼻の先まで焼け野原だ。そもそも、火元となったのは誰の屋敷だ」
「それは西尾隠岐守(おきのかみ)と横田筑後守(ちくごのかみ)の屋敷、いずれも家臣の長屋からと」
「西尾は田沼の娘婿で奏者番(そうじゃばん)。それで横田は?」
「御用取次の側衆で、江戸城内では田沼派の首領格とか」
「西尾の屋敷は鍛冶橋(かじばし)、横田の屋敷は八代洲河岸(やよすがし)、丸ノ内の少し離れた二カ所から、十二月二十六日のほぼ同じ亥(い)の刻前後に出火した。それも田沼派の重鎮二人の屋敷が火元だ。一カ所なら火消し人足を差し向け総がかりで消し止められるが、二カ所ならば難しくなる。偶然にしてはあまりに出来過ぎていないか」
「言われてみますと、確かに変ですね。しかし、まさかそこまで……」
「江戸城内で田沼の息子を殺す手合いだ。どんなことでもやる。町衆なんぞ何人焼け死のうと焼け出されようと連中は屁とも思っていない。田沼の木挽町屋敷も焼けたものの、あの大火事で焼け出された大勢の町衆にしてみれば、主殿頭が幕政を仕切ってるために、こんな厄災(やくさい)ばかりが次々と起こるとしか思えない。町衆の怒りはすべて田沼に向けられる」