◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第6回 前編
「……西洋暦の年代ですか」
「そう。そのとおり。平戸商館は城壁で囲われ大砲も備えて塞城の造りをなしていた。そして、オランダ商館の各建物の入り口には、それぞれの館や蔵を建てた年号が西洋暦で刻まれていた。新教徒として無害のごとく幕府から扱われているオランダ人も、ポルトガルやイスパニアの旧教徒と同じ、キリストを信奉していることには変わりない。見てのとおりだ、と。原(はら)城のキリスト教徒を海と陸から砲撃したオランダ人の火術も尋常ではなかった。松浦(まつら)なんぞに預けてこんな所にオランダ人を野放しにしておいてよいのかと、平左衛門はそれを見せることでそれとなく訴えた。島原や天草の百姓衆を相手に、もう少しで幕府軍が負けそうになるほどの激戦だったのだから、キリスト生誕からの年号が刻まれている建物は、松平信綱に強い衝撃を与えたはずだ。信仰の力の恐ろしさを身をもって味わわされた直後のことだからよく響く。末次がにらみをきかせる長崎へ商館を移し、オランダ人を出島に閉じこめておけば、平戸の松浦氏なんぞに預けておくより、はるかに手堅いのは確かだ。
まあ、筆を手にすれば、お前さんがそんなことにいちいち萎縮するとは思えないが、くれぐれも調子に乗らず、頭を使えということだ。
一に慈(慈愛)、二に倹(謙虚)、三に曰く……」
「『あえて天下の先とならず』ですね。それはわかっております」丸屋は苦笑いしてうなずいた。
画才を備え同じ西洋画法への志を持った者たちも、小田野直武(おだのなおたけ)のように早逝したり、あるいは自ら諦めたりして、気がつけばとうとう丸屋一人になってしまった。老子の教え通りに、前衛として先頭に立つべきではないと頭ではわかっていても、自然に立ってしまわざるをえなくなった。万事に開放的な田沼意次の時代が終われば、それから先は丸屋勝三郎にとって生きにくい世となる。しかも、丸屋は自尊心が強く、ともすれば高言したがる癖もあり、困難と危険のともなう前途が危惧された。
十九
天明五年四月も末日となった二十九日、蝦夷地(えぞち)探索の幕府御用船として伊勢大湊(おおみなと)で新たに建造された二隻は、「神通丸」「五社丸」と命名され、蝦夷島(北海道)松前を目指して品川を出航する運びとなった。
両船とも八百五十石積みの大型弁財船(べざいぶね)で、建造費は一隻で千二百三十五両にのぼり、通常の八百五十石積み弁財船の五割増しの費用をかけていた。基底材となる航(かわら)の長さ四十五・四尺(約十三・八メートル)、肩幅二十四・六尺、深さ七・六尺、帆柱の長さは八十六尺(約二十六・一メートル)、帆が二十四反、しかも航材の厚さが一尺ほどもあるという頑丈なものだった。二隻の竣工が二ヶ月も遅れたのは、慎重に良材を選び、細心の注意を払って精巧に造られたためだと思われた。
海外渡航を禁じた、いわゆる「鎖国」の時代に、間接的にではあるものの外洋航海も可能な船を幕府が資金を出して建造した。両船それぞれが、小回りのきく飛船(とびぶね)二艘(そう)と運搬用の艀船を二艘搭載していた。各船には、船頭の太兵衛と平助のほか十五人の水主(かこ)が乗り組み、いずれも過去に蝦夷地への航海を経験した者たちだった。
幕府廻船御用商人の苫屋久兵衛(とまやきゅうべえ)は、幕府から三千両の資金を借り受け、このたびの蝦夷地探索の一切を請け負った。交易品として江戸で買い入れ船積みした物資の総計は八百十四両にのぼった。
一、米(四斗二升入り俵)六百俵代金二百八十両
一、酒六十駄(百二十樽)代金八十四両
一、木綿千二百二十四反代金百六十両
一、鍋、釜四百個代金四十両
一、古着四百七十枚代金百八十両
一、油空き樽千個代金七十両
そのほか船乗りの食糧として米六十石を買い入れた。