◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第1回 前編

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歴史小説の巨人・飯嶋和一が描く新たな田沼時代、連載開始!

 源内が書き遺した『放屁論(ほうひろん)後編』に曰く、「良薬は口に苦く、出る杭は打たるる習ひ、されども御無理御尤(ごむりごもっとも)、君(きみ)君たらず臣(しん)臣たらず、八幡大名、太郎冠者(かじゃ)、脱活(はりぬき)の虎見る様に、己(うぬ)が性根は微塵もなく、風次第で首を振て、一生を過ごさんは、折角(せっかく)親の産付けた睾丸(きんたま)を無にする道理……」

 大田南畝(おおたなんぽ)らが、享年五十二の最晩年に当たる源内を訪ねた時に、この頃大層得意の絵があると言って描いて見せたのは、岩の上で小便をしている者とその岩下で小便を頭から浴びながら有り難がって涙を流している者の図だったという。蜀山人(しょくさんじん)こと大田南畝は「全く意味不明の図だった」と語ったらしいが、風次第に首を振る張り抜きの虎を通り越し、上にある者のものならば小便すら頭から浴びせられても怒るどころか嬉し涙を流す、そんな連中ばかりからなる世相をあざ笑ったものに違いなかった。

 源内の遺体は妹婿に引き取られ、千賀道隆と道有の父子らによって千賀家の菩提所、白髭橋(しらひげばし)たもとの総泉寺に葬られた。源内の死後、千賀道隆と田沼意次との結び付きの深さから、源内は牢死せずに田沼意次によって助け出され、意次城下の遠江(とおとうみ)相良(さがら)に匿(かくま)われたとの噂(うわさ)も流れた。しかし、そんなことはあり得ない話だった。田沼意次にとって源内はすでに利用する価値がなくなり、むしろ切って捨てたい存在になっていたのではないか。田沼意次にしてみれば、一介の浪人であればたとえ切り捨てても後々煩わしいことも少なくて済むと、初めから算段ずくの源内起用ではなかったかと伝次郎には思われた。

 鬼才平賀源内は、「国の益」なるものを真に念頭に戴き、我が身を顧みず奔走した。上から下まで深刻な財政危機には頰かむりしたまま、ぬるま湯に浸かって太平楽を決め込むばかりの世間を相手に、源内は独り闘い続け力尽きた。田沼意次も、それに群がる連中は言うに及ばず、張り抜き虎の玩具のごとく見かけばかりで、結局は性根定まらず、源内の失望も大きかったものだろうと伝次郎は思った。

『今、慈(じ)を舎(す)てて且(まさ)に勇ならんとし、倹(けん)を舎てて且に広からんとし、後(うしろ)なるを舎てて且に先ならんとすれば、死せん』と老子は述べた。

 源内は、かつて「慈」すなわち「いつくしみ」の深い人物だったと丸屋は語った。強きを押さえ弱きを助ける性根を備えた源内も、世間に対する憤激のあまり「慈」を捨て、天下の先頭に立たざるを得なくなった。そこから発した悲劇だと思われた。

 

 町人絵師ながら丸屋も気位が高く、町衆との交わりはほとんど持たなかった。ところが、一回り以上も年の違う伝次郎を同志のごとく思い込み、何か興を催すことが起これば芝宇田川町に足を運んで話し込んでいくのを常とした。丸屋には妙にちぐはぐなところがあり、洋風画を志しながら「江漢(こうかん)」なる唐人風の画号を使っていた。

 丸屋の祖の出身地、紀州の日高川と紀ノ川を意識し、『論語』に出てくる中国の大河からその号を引いたものだという。さすがに「江」は江水(揚子江)のことだとは知っていたものの、「漢」がどこを流れる河なのかを丸屋は知らなかった。伝次郎が恐ろしく大版の「坤輿(こんよ)万国全図」を持ち出し、陝西(せんせい)の西安の辺りから発して東南に向かって流れ、湖北の漢陽で江水に合流する川が漢水(かんすい)であることを示すとかなり驚いた様子だった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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