◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第1回 前編

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歴史小説の巨人・飯嶋和一が描く新たな田沼時代、連載開始!

 丸屋の衣からはいつものように火薬と酢の入り交じったような異臭が漂った。丸屋は、このところ「真を写す」と唱えて、阿蘭陀(おらんだ)人が持ち込んだ銅板による洋風版画に打ち込んでいた。

 伝次郎のところには丸屋の置いていった漢画の山水図があった。水墨画であるが、手前の岩山や松、人家は濃く大きく、後方の林や家々は小さく、ずっと後方の山稜は薄くぼかして、いわゆる洋風の遠近法なるものが使われていた。

 丸屋は十代の終りに鈴木春信(はるのぶ)の門下にあり、師から「春重(はるしげ)」の号を許され、六年ほど錦絵の版下を描いていた。腕は確かで水墨なども力のある筆の運びに見るべきものがあった。丸屋が出入りしていた当時、鈴木春信は神田白壁町(しらかべちょう)に住んでいた。ちょうどその頃、平賀源内(ひらがげんない)が同町の借家に住んでおり、丸屋もそれが縁で源内と面識を持つに至った。源内は若い丸屋に西洋の銅版画を見せ、西洋画の遠近法や陰影法を教示した。従来の木版画と比べて銅版画は細部まで鮮やかに、立体的に描け、若い丸屋が衝撃を受けたことは想像に難くなかった。

 山水や人物を描く洋風画などはまだしも、丸屋は調子に乗ると生かじりの知識を吹聴(ふいちょう)したがる癖(へき)があり、蘭書に書かれていたと称して「アダムとエバ」や「カインとアベム(アベル)の兄弟」、「ノアクスの箱舟」などの、実はキリシタン聖典に出てくる逸話を人前で自慢げに口にしたりもする。ただでさえ庶民が長旅に出る時には、往来切手に菩提寺(ぼだいじ)から『宗旨は代々○○宗にて、御法度(ごはっと)の切支丹(きりしたん)には御座無く候(そうろう)』の一筆をもらうことを定められていた。

 開明的な田沼意次の政事向きが全面禁じられることになれば、蘭学ばかりか洋風銅版画なども、場合によっては取り締まりの対象とされる危険もあった。

 

 安永五年(一七七六)の冬十二月、田沼山城守が深川清住町は平賀源内の家を訪れ、エレキテルを見物した話も丸屋勝三郎から聞いていた。田沼山城守は、意外なことに尊大なところのない物腰の柔らかな人物で、一介の浪人者に過ぎない源内を敬意をこめて「平賀先生」と呼び、エレキテルの火花を見て微笑んだという。田沼山城守をじかに見知っている者は「よくできた人物だ」と決まって評した。

 平賀源内は、江戸の林(はやし)家に入門した宝暦七年(一七五七)、湯島で本草学の物産会を開き、国内でまかなえる薬種の探索を目指した。高価な高麗人参の国産化を目指した田村元雄(げんゆう)と組んでの話だった。平賀源内の背後には田沼意次の影があった。源内と田沼意次を結びつけたのは、田沼家出入りの町医から幕府奥医師となった千賀道隆(せんがどうりゅう)だという。千賀道隆の息子・道有(どうゆう)は意次の愛妾(あいしょう)「神田橋お部屋様」の仮親となった人物である。そのお部屋様も源内宅でエレキテルを見物した。田沼意次は、蘭学を始め西洋の学識が国の益に利すると考え、多少のことは黙認し、平賀源内を長崎に送り込んだりもしてきた。十年ほど前、丸屋勝三郎も平賀源内の鉱山探索に同行したことがあった。

 その源内が獄中で病死したのは安永八年(一七七九)十二月十八日のことだった。その年十一月二十一日の未明、源内は、神田橋本町の自宅で前夜から来ていた米商人を斬殺し、大工に怪我を負わせる事件を起こした。様々に憶測されていたが、相手が米商人と大工ならば金銭がらみの話だとの推測はつく。その冬、源内は些細なことで激情しては、森島中良ら弟子筋の者に声を荒らげて罵声を浴びせ、異常な言動ばかりが目立ったという。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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