◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 前編
蝦夷地では検地竿役の新三郎がある疑念を抱き……
大雨は止むどころか日を追うごとに激しさを増すばかりで、洪水は関東八国におよんだ。
十七日、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、秩父(ちちぶ)などの山水は一気に河川へ流れ込み、烏川(からすがわ)、神流川(かんながわ)、戸田川、利根川(とねがわ)など常の数倍に水がみなぎった。
利根川では熊谷(くまがや)近くで堤防が破られ、下流の栗橋、古河(こが)、関宿(せきやど)、松戸をはじめ権現堂川(ごんげんどうがわ)、元利根川、二合半領、上松伏(かみまつぶし)、金町から、北は草加、越ヶ谷、粕壁(かすかべ)、幸手(さって)の先々まで、大海のごとく水没してしまった。関東郡代(ぐんだい)の伊奈半左衛門(いなはんざえもん)が支配する武蔵と上野だけで七万八千人の民が水死したと語られ、江戸に幕府を開いて以来の大洪水となった。
東海道沿いの相模(さがみ)にも大水が押し寄せ、酒匂川(さかわがわ)、馬入川(ばにゅうがわ)があふれ、六郷など行き来ができず、鶴見橋が流されて神奈川新町、藤沢宿も往来が不能となった。
下総(しもうさ)の印旛沼(いんばぬま)は利根川の下流西岸に位置した。南の下総台地から印旛沼に流れ込む河川の水を長門川(ながとがわ)を通じて東の利根川へ落としていた。ところが利根川が増水するたびに河水が長門川に逆流し、沼の周辺は始終水害に悩まされていた。
安永九年(一七八〇)以来の印旛沼干拓計画では、長門川が利根川に接する部分を堤防を築いて締め切り、利根川の反対側にあたる沼の西端から検見川(けみがわ)まで川堀を作って沼の水を江戸湾に流し落とすものとした。水害を防ぐとともに干拓の結果として三千九百九十七町歩(約四千ヘクタール)の新田を造成するという田沼時代ならではの大計画だった。
前年八月から干上がった沼地の新田開発を請け負う者を募り、この天明六年四月に長門川の利根川口を締め切る堤防工事が完了していた。沼から江戸湾の検見川まで四里十二町余(約十七キロメートル)の川堀を掘削する工事も八割近くまで進んでいた。田沼意次(おきつぐ)をはじめ勘定奉行の松本秀持(ひでもち)、干拓を発議した現地代官の宮村孫左衛門(まござえもん)、干拓事業に出資した誰もが、印旛沼干拓の成功を疑わなかった。
七月十二日夜からの豪雨は、四方から利根川に流れ込み、その水かさは下流になるほど増して、十三日にはこれまで誰もが見たことのないほどの水量となって押し寄せた。しかも、三年前の浅間山噴火によって大量の土石が利根川に流れ込み、川底を浅くしていた。
利根川のふくれ上がった河水は、印旛沼と遮断した堤防をやすやすと突き崩し、津波のごとく旧長門川筋を逆流してあふれ、周辺の村々を水浸しにした。
これまでの労力も費用もすべて水没し、印旛沼の干拓は所詮大山師どもの絵空事でしかなかったことを明らかにした。
雨は十九日になってようやく止み、関東の各河川も少しずつ水かさを減少し始めた。しかし、三か月におよぶ長雨と大雨によって地盤がゆるみ、芝は愛宕(あたご)山の切り通し道の崖が突然崩れ、民家が押しつぶされて死者が出た。同様に三田の春日(かすが)山、麻布の狸穴(まみあな)山、麴町(こうじまち)の山王(さんのう)などでも相次いで崖崩れが起こり、多数の家が土砂に押し流されて多くの死者を出した。
治水は政事の根本である。このたびの江戸開闢(かいびゃく)以来の大洪水も、田沼政権下で起こった。いたるところで民の困窮を目にしながら、幕府はそれを放置したまま御益(おんえき=国益)と称して度重なる負担を強いてくるばかりだった。未曾有の大洪水は、田沼意次の悪政に対する天の怒りが示されたものとしか民には映らなかった。