◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 前編

御用金令で騒然の江戸をさらなる災厄が襲う。
蝦夷地では検地竿役の新三郎がある疑念を抱き……

 

 幕府から蝦夷地に送られた探索隊で、先住民の毛皮品を好んで身に着け髭と髪を伸ばし放題にしていたのは、下役の大石逸平(おおいしいっぺい)、それに検地竿役の徳内(とくない)と新三郎だった。とくに新三郎は脇差すらめったに帯びることがなかった。外観ばかりでなく、新三郎は口に出さなかったものの、大石や徳内とは異なる考えを持っていた。

 徳内は、本州農村の窮状を救うために蝦夷本島とカラフト、そして千島列島を含む蝦夷地の、「属島開業」と「開国交易」とが急務だと語った。それは徳内の師にあたる本多利明(としあき)の考えに基づくもので、測量の数値である緯度が、その地発展の可能性を決定するのだとした。そして、オランダの都やオロシャの都は、蝦夷本島より高い緯度に位置しながら繁栄している。ゆえに、蝦夷本島や蝦夷地が発展しないはずはないのだとしていた。

 新三郎は、検地のための水縄(みずなわ)や梵天竹(ぼんてんだけ)、十字などは松前まで運んできたが、緯度を測るための器機はなかった。そこで、簡単な緯度測定器を作ることにした。子の星(ねのほし=北極星)はその高度が土地の緯度に合致する。二尺ほどの細竹の節を抜き、半円形の板に右から九十度までの目盛りを打ったものを竹筒の下にはめ込んだ。また、竹筒の下へ魚釣り用の重りを付けた糸を半円板の中心から垂れるように取り付けた。小者に子の星を教え、覗いた竹筒の真ん中に子の星を見るよう命じた。そして、新三郎は、強盗提灯(がんどうぢょうちん)の明かりで重り糸の目盛りを読みとった。松前では四十一度と三十分、アツケシでは湾のほぼ中央にあたる岸で四十三度を示した。もとより手製の観測器で正確な緯度が測れるはずはなかったが、松前とアツケシでは緯度にして一度余ほどの差があるのはわかった。松前周辺では大根やナスなどの野菜も穫(と)れ、うまくいけば稲作も少しは可能かもしれないが、緯度にして二度も違わないアツケシ周辺は真夏でも朝夕は肌寒く、暑さで寝苦しい思いをしたことはなかった。稲は暑い日が続かなければ開花しない。東蝦夷地での稲作は寒さに強い赤米でさえ稔(みの)ることはなさそうだった。徳内が日頃から力説するような、単に緯度だけで収穫の可否や地の繁栄は決められるものではないと思われた。

 また、新三郎の上司にあたる普請役(ふしんやく)の佐藤玄六郎は、幕府直轄を前提に蝦夷本島の開発を勘定奉行の松本秀持に具申した。蝦夷本島を自ら一周した結果として、佐藤は蝦夷本島の周囲をおおよそ七百里とし、総面積を千百六十六万四千町歩、そのうち耕作可能地をその十分の一として百十六万六千四百町歩と算出した。蝦夷本島における推定石高を一反歩(いったんぶ)につき本州旧田の半石を収穫できるものと見なして、約五百八十三万二千石が産出できると試算した。蝦夷地を幕府直轄とし本州から移民を大勢送り込み、耕地を開くのだという。

 佐藤も、徳内らも、あたかもそれらの一切がいずれ実現するかのように興奮していた。だが、新三郎から見れば、蝦夷本島において測量らしきことはまったくなされておらず、すべて見当による創作値でしかなかった。蝦夷本島の耕地面積どころか周囲距離すら定かでなく、およそいい加減な山師勘定に過ぎないものとしか思えなかった。産出石高などにいたっては絵にかいた餅に過ぎなかった。

(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2020年1月号掲載〉

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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