◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 前編

御用金令で騒然の江戸をさらなる災厄が襲う。
蝦夷地では検地竿役の新三郎がある疑念を抱き……

 芝(しば)宇田川町(うだがわちょう)の加瀬屋伝次郎(かせやでんじろう)は、表店(おもてだな)十四軒と裏店(うらだな)の長屋四棟を所有していた。触れのごとく間口一間につき銀三匁の換算となれば、伝次郎は年に銀百二十六匁を五年間供出しなくてはならなくなる。金にして年に二両余ならば、伝次郎は店賃(たなちん)を上げることなく供出できる。だが、ほかの地所に住む住人は、その分を家賃や店賃に加算されることになりかねない。民にしてみれば凶作続きで暮らしもおぼつかない時節に、新たな負担を一人の漏れもなく押しつけられただけのことである。その息苦しさは耐えがたいものだった。

 幕府の御用金など、口先ばかりで触れどおりにきちんと返されたためしはなかった。民が願うのは、食べる心配をせずにすみ、日々が平穏なことである。それをあえておびやかすような政事(まつりごと)を執り行う輩(やから)は、仇敵(きゅうてき)同然。やり場のない怒りばかりが江戸市中に満ちた。

 

 三月、江漢(こうかん)先生こと丸屋勝三郎(まるやかつさぶろう)が師事した宋紫石(そうしせき)が江戸で死去した。本名楠本幸八郎(くすもとこうはちろう)。平賀源内や杉田玄白、鈴木春信らと親しく交わり、南蘋派(なんぴんは)の絵師として中国清朝(しんちょう)の写実的な花鳥画で名声を得た。

 弟子の丸屋のほうは、金地院(こんちいん)内の後家に入夫(にゅうふ)して以来、名も土田吉次郎と改め、新銭座町(しんせんざちょう)の実家に時折やって来ては、覗(のぞ)きからくりのオランダ眼鏡(めがね)と、そのネタとなる小さな銅版画を造っているという。伝次郎の家に顔を出すこともなくなった。町衆の大多数は物不足と貧困にあえいでいたが、遊廓(ゆうかく)や大構えの料理茶屋などでは、座興としてオランダ眼鏡が結構もてはやされているらしかった。特に丸屋が描く西洋の風景画は、オランダ眼鏡で覗けば目の前にありありと浮き出して現われ、重宝がられて千住や板橋の宿場などからも注文が来ていると聞いた。

 丸屋の入夫した後家が女児を産んだ話は、伝次郎も髪結いの藤太郎(とうたろう)から耳にしていた。形の上では武家となったが、丸屋に食(は)むべき禄(ろく)はない。妻子を養うには金銭が必要となる。丸屋も、この年四十を数えるはずだった。金銭稼ぎは悪いことではないが、人生は短い。天与の画才を持って生まれた丸屋が、描くべき絵筆を捨て、酔客の座興のための眼鏡絵造りに追われているさまは、伝次郎にしてみればひどくもったいないことに思われた。しかし、本人の人生である。誰が何と思おうと、どこ吹く風で丸屋が生きられれば、それはそれで仕方のないことだった。

 

 七月十二日夜明け、強風とともに屋根が抜けるのではないかと思われるほどの激しい雨が江戸を襲った。未曾有(みぞう)の大雨は、谷となった地形に流れ込み、河川をあふれさせた。

 神田川は、目白下の大樋(おおどい)が崩れ、安藤坂の牛天神下まで水があふれ出し、小石川方面の小日向(こびなた)、関口などの低地はあっと言う間に床上まで水が押し寄せた。水の勢いは増すばかりで、下流に位置するお茶ノ水の昌平(しょうへい)橋、筋違(すじかい)橋、浅草御門、柳橋を水没させ、あたり一面の町家は泥水につかった。

 荒川沿いの小梅、寺島、須田、須崎などでは、いたるところ大水が押し寄せ、住人は家を捨てて秋葉堤(あきばづつみ)の上に避難し、浅草方面の三谷や鳥越などの者たちは二階家の屋根上に這(は)い登って水の引くのを待つしかなくなった。

 本所(ほんじょ)の竪川(たてかわ)通り、逆井(さかさい)、亀井戸、小名木沢(おなぎさわ)、東西の葛西領、江戸川に続く一帯は、泥水に覆われ湖のごとくとなり、小家は水没し大家も屋根の棟が見えているだけとなった。水かさは平地から一丈四五尺もあり、堤の上でも七尺以上におよび、堤防はいたるところで崩壊した。新大橋と永代(えいたい)橋は濁流をこらえきれず押し流された。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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