◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第10回 後編
徳内はオロシャ人から三年前の一件を聞くが…
エトロフに渡って以来、イジュヨたちは穀類不足に悩まされ、徳内が連日ふるまう米飯をとても喜んで口にした。イジュヨがかなり交易の経験を積んでいるのは、徳内が携えてきた生薬を知っていたことでわかった。桂枝(けいし)・甘草(かんぞう)・丁子(ちょうじ)・木香(もっこう)・樟脳(しょうのう)・紫檀(したん)・石膏(せっこう)・胖大海(はんたいかい)などを見ては、ひとつひとつ香を確かめ、漢名で言い当てた。
またイジュヨは、『マチマチィチェスカヤ・ゲオグラフィア(数理地理学)』という活字本も持っていた。身の危険を感じて逃走する時にイジュヨは書物を持ち出していた。徳内は、その書籍に載っていた太陽・月・北極・蝕(しょく)・地平・暦などにあたるオロシャ語を書き取り、オロシャ本国とシベリアの都市の名、大河の名前も知った。徳内が算盤(そろばん)を出し暦年を問うと、イジュヨは珠を「一七八五」と置いた。前年の西暦だった。カムチャッカから来た交易商人ながら、かなりの教養を備えた人物であることもわかった。
ナイボ村の乙名ハウシビが時折シャルシャムまで来てくれた。彼は想像した以上にオロシャ語が話せた。オロシャ人と先住民アイヌとの通辞をつとめるというハウシビの弟は、依然として遠い島に出たまま消息がわからないという。先住民とオロシャ人との関係をくわしく知られないための口実かもしれなかった。ともかくも、イジュヨら三人が何ゆえウルップに取り残され、エトロフ島に来るにいたったかをハウシビも交えて徳内は尋ねた。
イジュヨはこう答えた。「わたしたちは一昨年の春ウルップ島に渡り狩猟と交易を行った。わたしたちは、アツケシまで行って交易することを望み、エトロフ島の乙名ハウシビを通じて松前家の家臣にその件を掛け合ってもらった。ところが、松前家は、わたしたちを捕らえて首を刎(は)ねよと家臣に命令した。それを聞いて皆驚き、昨年秋に帰ることにしたのだ。その時、わたしとサスノスコイはそのままウルップに残って交易を続けたく思い、それを話したのだが、ほかの者たちと口論となり、身の危険を感じたのでウルップの山に逃れた。
ほかの者たちが船で帰った後、わたしたち三人は、エトロフ島のアイヌと出会い、その舟でシャルシャムに渡り、マウデカアイノの介抱を受けて年を越すことができた」
「松前家の者が貴殿らを捕らえにウルップ島まで渡れるとは思えない。なぜほかの船員たちが皆帰ることにしたのか。何かほかの理由があったのではないか」と徳内は問い返した。
「オロシャ船が急いでウルップを出帆したのは、去年の秋にアイヌたちがオロシャ人に恨みを晴らすため大勢でウルップへ向かうという噂があり、また近々日本人が検分に来るという噂もあったためだ」イジュヨはそう答えた。
「アイヌたちがオロシャ人にいだく恨みとは何なのか」
「アイヌたちは、ウルップ島のラッコ猟場をオロシャ人が奪ったと思っている」
イジュヨの話では、ウルップ島に定住しているオロシャ人は今のところいないようだった。しかし、ウルップ島の周囲はおおよそ百五十余里といわれる。エトロフ島の半分ほどの島ではあるが、日本人は誰も渡ったことがなく隅々まで確かめた者はいなかった。
徳内は、先住民とオロシャ人がラッコをめぐって猟場を争うウルップ島へまず行ってオロシャの支配状況を確かめておきたいと思った。マウデカアイノにウルップに舟を出してくれるよう頼んだが、彼は「この波風ではとても渡れない、舟は出せない」と答えた。確かに連日強風が吹きつのりエトロフ島の東海域の波は高く、おおよそ十九里(約七十六キロメートル)離れたウルップ島まで渡るのはかなり難しいものと徳内にも思われた。しばらくはシャルシャムで日和を待つしかなかった。
徳内はイジュヨら三人を連日食事に招き、この先のことについて尋ねた。