◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 後編
大金を投じて新造した弁財船には次々と海難が──
十月二十八日、勘定奉行の松本伊豆守秀持(ひでもち)が財政を担当する勝手方をはずされ、訴訟や裁判を扱う公事方(くじかた)に異動させられた。これまで松本秀持は意次の片腕となって財政立て直し策を牽引してきた。意次の解職が明らかにされるや、腹心の松本秀持と赤井忠晶(ただあきら)の両勘定奉行も、当然のことながら失政の責任をとらされ、左遷はまぬがれないと噂されていた。松本秀持と入れ代わりに桑原伊予守(いよのかみ)盛員(もりかず)が公事方から勝手方へ移動した。
同日、勘定組頭の金沢安太郎より蝦夷地探索に派遣された五人の普請役にあてて「蝦夷地一件」の中止を命じる書状が送られた。この時点でも、ソウヤで庵原弥六が越冬中に病死したことは江戸表に報されていなかった。
蝦夷地産物は去年同様の扱いに決まったうえは、御用船一艘でも二艘でも積み入れが終わり次第、蝦夷地を出帆させ江戸表に着いたうえで売り払わせることになる。充分心して対応すべきことは言うまでもない。また、右の廻船二艘、飛船(とびぶね)二艘、艀舟二艘、あわせて六艘は、今年中に江戸表へ着くよう取り計らうべし。
右のことは、松前志摩守の家来、また苫屋久兵衛方へも申し渡したので、そのほうたちと下役、そのほかの小者たちも、業務が済み次第、早々に江戸へ帰るよう申し付ける。
十月三十日、皆川沖右衛門から九月十日に発せられた御用船二隻の海難による破船の報せが、松前藩江戸屋敷を経由して勘定奉行所に届いた。
同日、普請役の佐藤玄六郎と山口鉄五郎の両名は、陸路ひと月をかけて江戸に到着した。
将軍家治の死去と田沼意次の老中解職は江戸に着くはるか前から各地で話題となっており、二人ともその話は耳にしていた。江戸市中も喪に服し、音曲(おんぎょく)や鳴り物はおろか人の出歩く姿もまばらで静まり返っていた。普請役は、本人一代限りの抱(かか)え席で、町奉行所における同心と同様の、大晦日に上役の屋敷で翌年役目の継続かあるいは解職かを告げられるごとき下級役人に過ぎなかった。雲の上の将軍や老中はどうあれ、蝦夷地一件を主導する勘定奉行の松本秀持、そして直接上司にあたる組頭の金沢安太郎が、その結果いかなる立場に落ち着くのかが問題だった。ともかくも、二人は金沢安太郎の屋敷に向かった。
金沢安太郎は、お役目大儀であったと慰労の言葉を型通り述べた後、上司だった松本伊豆守秀持が勝手方をはずされて公事方に用務替えとなり、代わりに勝手方の勘定奉行には桑原伊予守盛員が就任したことを告げた。そして、蝦夷地一件はすべて差し止めと決まり、松前藩邸からその日に届けられた御用船二隻の難破を知らせた。
田沼意次が老中解職となり、田沼の後ろ楯となっていた将軍家治も亡くなった。その結果、蝦夷地の開発を前提にこの件の指揮を取ってきた松本秀持が用務替えとなり、代わりに勝手方の勘定奉行となった桑原盛員は蝦夷地探索の停止を命じた。
本年度の東蝦夷地での交易は順調に進み、前年の倍の収益は上げられるはずだった。前年の倍でも二千六百両は堅いと踏んでいた。本年も蝦夷地交易の充分な可能性を示せば、幕府も蝦夷地の直轄に動かざるを得なくなると二人は信じていた。ところが、品川へ蝦夷地産物を運ぶ御用船が二隻とも北海の果てで破船となった。佐藤と山口は、まるで別世界に紛れ込んでしまった。