◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 前編

厳罰に処された意次の栄華に思いを馳せる伝次郎。
玄六郎らは蝦夷地探索の停止を申し渡され──

 同年十一月、有毛検見法の実施が実は藩主ぐるみの策謀であることを知った農民たちは、幕府へ直訴(じきそ)する以外に有毛検見法を撤回させる方法がなくなった。藩を通さず直接幕府に訴え出るのは、越訴(おつそ)の罪となり厳しく禁じられていた。それでも、江戸に入った立百姓の五人は、老中酒井忠寿(さかいただとし)の駕籠(かご)行列に直訴を決行した。彼ら五人は捕えられて宿預けとなり、江戸の公事宿(くじやど)に監禁されることになった。

 宝暦六年(一七五六)十月、江戸町奉行の依田政次によって郡上の庄屋ら寝百姓の村役三十人が召喚され、先に駕籠訴を決行した五人と評定所で対決させられた。この審理は、郡上藩側に立った村役三十人に厳しいものとなり、駕籠訴五人の訴えに理があることを村役三十人も認めることになった。結果、双方とも郡上へ帰るよう命じられ、駕籠訴の五人は村預けとなりそれぞれ庄屋宅に監禁されるという、思いのほか軽い罰で済んだ。

 宝暦七年(一七五七)、郡上八幡城下で宿屋を営み立百姓を支援してきた太平治が、ささいなことを口実に入牢させられた。十月、太平治の釈放を求めた立百姓千人余が、城下で打ちこわし騒動を起こした。騒動を主導したとして甚助なる者が捕縛され、満足に取り調べられることもなく、十二月十八日の夜、藩吏によって処刑された。領民を死罪に処する際には幕府へ届け出る必要があったが、郡上藩はこれも無視した。

 宝暦八年(一七五八)二月、郡上藩の足軽と寝百姓ら五十人が、立百姓の連名帳と資金を奪おうとして歩岐島(ほきじま)村で乱闘となり、数十人の負傷者を出す騒動となった。

 同年四月、立百姓の代表六人が江戸へ出て、箱訴(はこそ)を決行した。彼らは郡上藩による幕府の法をも無視する暴政の数々を記し、目安箱に入れた。

 

 同じ宝暦八年の七月、越前国石徹白(いとしろ)村にある白山中居(はくさんちゅうきょ)神社の神主による横暴を訴える箱訴が、追放された村民によって行われた。

 美濃と越前の国境に位置する大野郡石徹白村は高五百石で、神社領ゆえに年貢を幕府や郡上藩に納める必要がなく、白山中居神社の維持保全に使うことが許されていた。幕府支配の上では郡上藩預りとされ、神主が村の庄屋を兼任していた。しかし実質の支配は、氏子代表である村民の神頭(こうとう)によって行われていた。神主の上村豊前(ぶぜん)はこれを不満とし、神社領の支配を一手に収めようと計った。

 石徹白村の村民は、長く公家の白川家に神事の指導を仰いでいた。かつて幕府は、諸国の神社と神主を支配統制しようと、神社が位階を受ける際の朝廷への申請を、公家の吉田家に一本化しようとしたことがあった。神主は、村民を抑える必要から吉田家に通じ、その威光を背景に郡上藩へ働きかけた。また、郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門らに賄賂を贈り、神主の支配に服するよう村民に命令させた。

 宝暦四年(一七五四)、対立する神頭ら村民三名は、江戸に出て当時寺社奉行だった本多長門守に直訴したが、本多長門守は金森頼錦の親戚であり、あくまでも郡上藩に任せるとして取り上げようとはしなかった。逆に、村民三名は越訴の罪によって郡上八幡に監禁され、翌宝暦五年の十一月に闕所(けっしょ=財産没収)のうえ、追放処分となった。次いで、神主支配に抗う四百九十人の村民が財産没収のうえ追放され、厳寒期に大雪のなかでの彷徨(ほうこう)を余儀なくされた。結果、九十余人が飢えと病に死ぬという悲劇を招いた。追放された村民の田畑や家財は、神主豊前によって取り上げられ、売り払われた。郡上藩寺社奉行の根尾とその下役はおこぼれにあずかった。

(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2020年3月号掲載〉

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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