◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 前編

厳罰に処された意次の栄華に思いを馳せる伝次郎。
玄六郎らは蝦夷地探索の停止を申し渡され──

 非難のすべてが事実に基づいているとは思われないが、かなり幕政の内実にくわしい者から聞き取ったと思われるところがいくつも見受けられた。

『一、原宗(惣)兵衛の企ての一件が実施されたならば、まことに天下騒乱にいたることは間違いなかった。右の件のほか、上州の絹(きぬ)運上の件、無人島探索の件、蝦夷(えぞ)探索の件、印旛沼干拓の件などにいたっては、論外の沙汰としか思われないものである』

 この読売を書いた者は、全国御用金令なる暴政が、原惣兵衛なるいかがわしき山師によって考案されたことを知っていた。先に罷免された松本秀持による無人島(小笠原諸島)と蝦夷地の探索にいたっては、幕府でもごく一部の者しか知り得ないはずだった。

 長く幕政の中枢を占めれば、権勢の私物化による腐敗はまぬがれず、身内贔屓と賄賂汚職の権化と指弾されて田沼は表舞台から去ることになった。

 それにしても、かつて「田沼主殿頭」の名が、閉塞した世の扉を開く新風のように語られた時代があった。気がつけばそれから二十八年の歳月が過ぎていた。

 

     四十四
 

 田沼意次の名が新鮮な風のごとく人々の心に吹き込んできたのは、宝暦八年(一七五八)のことで、加瀬屋伝次郎が二十七歳の冬だった。

 その十月から暮れにかけて、美濃(みの)国郡上八幡(ぐじょうはちまん)藩で起こった五年がかりの百姓一揆がやっと落着を見た。短期決戦を旨とする百姓一揆で、足掛け五年もの長期にもつれ込んだのも異例ならば、処罰が郡上藩の取り潰しにいたったばかりか老中を始めとする幕府中枢におよぶというのも前代未聞だった。江戸市中は元禄の赤穂義士討ち入り以来の騒ぎとなった。

 幕府は、寺社奉行で備後福山藩主の阿部正右(あべまさすけ)をはじめ、江戸町奉行の依田政次(よだまさつぐ)ら五人の僉議掛(せんぎがかり)を特別に選出し、この一件の審議に専念させた。これもまた百姓一揆の裁きでは異例のことだった。九代将軍家重(いえしげ)は、側用申次(そばようもうしつぎ)の田沼意次へ評定所に出てこの審議に加わるよう命じた。意次四十歳の時だった。

 家重は、偉丈夫で聞こえた父吉宗とは似ても似つかない生来虚弱な嫡男だった。歩行に難があり、絶えず首を左右に振る奇妙な癖があった。話す時などは顔面がゆがみ口がねじ曲がって自在に言葉を発せられず、側用人の大岡忠光や田沼意次らごくわずかな側近しか将軍の言葉を理解できなかった。西洋医学でいうアテトーゼ型の脳性まひで、この型の者は知的能力に高く優れた者が多いことで知られる。家重も、将棋や囲碁に抜きんでて強く、『将棋考格(こうかく)』という書を著すほどで、素人の大名ごときではまったく相手にならなかった。

 田沼意次は、十六歳で家重付きの小姓となり、家重が将軍になると本丸の小姓番頭に、次いで宝暦元年(一七五一)には側用申次に昇進した。将軍家重は、見るべきところは見逃さず、足軽の出ながら意次のまっとうな人柄と能力を非常に高く買っていた。

 その宝暦八年、意次は所領一万石の大名となるとともに、幕府最高司法機関の評定所に出て審理にあたるよう命じられた。意次は、評定所の審議に関して将軍家重にお伺いを立てる権限を与えられ、将軍の決裁は意次によって評定所に告げられることになった。意次が発する言葉は将軍家重のお言葉にほかならず、ここに意次は幕府における絶対的な権限を握った。

 田沼意次は、江戸城羽目間(はめのま)において郡上藩の審理にあたる五人の僉議掛へ次のように伝えたという。

「百姓方への尋問については、(百姓衆が)納得がいき、筋の通るようにすることが第一である。領主のほうに咎(とが)をつければ、それだけ余計に百姓のほうも(罰が)重くなるということもないはずだ。
 また、先にも言ったとおり、取り調べごとは、事によっては軽く取り調べることもあるが、今度のことは大変な疑惑があることなので、徹底して調べるように」

 意次を通して、将軍家重はたとえ相手が藩主や幕閣であれ遠慮なく裁くよう命じた。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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