【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の6回目。憲政の神様といわれ、清廉潔白な姿勢を貫いた政党人として多くの国民から慕われた、犬養毅について解説します。
第6回
第29代内閣総理大臣
犬養毅 1855年(安政2 )~1932年(昭和7)
Data 犬養毅
生没年 1855年(安政2)4月20日~1932年(昭和7)5月15日
総理任期 1931年(昭和6)12月13日~32年(昭和7)5月16日
通算日数 156日
所属政党 立憲政友会
出生地 岡山市北区川入(旧備中国賀陽郡庭瀬村川入)
出身校 慶應義塾中退
初当選 1890年(明治23) 35歳
選挙区 衆議院岡山2区
歴任大臣 文部大臣・逓信大臣など
墓 所 東京都港区の青山霊園、岡山市北区の犬養家墓所
「話せばわかる」と言論を重視した護憲運動の闘士
犬養毅が追求したのは「閥族打破」と「憲政擁護」でした。これを実現するために2度にわたって護憲運動を展開し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれています。一方で犬養には、産業立国の推進と、アジアにおける日本の確固たる位置づけという大きな目標がありました。老練な政治手腕から「策士」と評されることもあり、正面から痛烈に敵を論破したことから、「毒舌家」とのレッテルも貼られています。また、清貧に甘んじた人情家でもあり、清廉潔白な姿勢を貫いた政党人として、多くの国民から慕われました。
犬養毅はどんな政治家か 池上流3つのポイント
1 護憲運動のリーダー
明治から大正前半にかけて、ほとんどの総理大臣は薩長の藩閥出身者で占められていました。絶大な権力をもっていた元老も西園寺公望以外は薩長出身者だったのです。こうした藩閥支配の政治に反発し、健全な立憲政治と政党内閣制を追求したのが犬養毅です。犬養は、大正時代に2度にわたって護憲運動を展開。「閥族打破」「憲政擁護」を旗印に、藩閥に連なる第3次桂太郎内閣と清浦奎吾内閣を総辞職に追い込んでいます。
2 アジア主義
元来、欧米列強の脅威に対抗するためにアジアの連帯をめざしたのがアジア主義でした。それが日清戦争を機に、日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想へと発展します。第1次大隈重信内閣時代から対中国政策を考えていた犬養は、孫文ら革命運動家を積極的に支援し、中華民国建国に大きく貢献しました。
3 産業立国政策
犬養内閣は1931年(昭和6)12月13日の組閣当日、高橋是清大蔵大臣のもと、金貨および金地金の輸出を許可制とし、実質的に金輸出を禁止しました。金本位制を廃止し、金準備とは関係なく通貨を発行する管理通貨制に事実上移行したのです。一方で、金利を下げ、金融を緩和するインフレ誘導政策を図ることによって、経済の活性化を積極的に推し進めました。犬養の主張する産業立国政策を実行に移したのでした。
犬養毅の名言
四十余年間、政治を専門にやってきたものの、
その間、失敗もしたが成功もしたと言いたいが、
実は失敗だらけである。
― 1925年(大正14)、満70歳を迎える犬養が、逓信大臣と衆議院議員の職を退いたときの声明
わが国の国民教育の不完全は、
道徳の根本たる信念に導くべき
教えが欠けているのである。
― 犬養が晩年、孔子のふるさと中国の山東省曲阜を訪れたときの演説
いわゆる順境を楽しと思わず、
いわゆる逆境を苦しと思わぬ人に取りては、
順境もなければ、逆境もない。
― 1922年(大正11)に出版された犬養毅講述『木堂談叢』より
揮毫
書道家・犬養木堂の世界
字は手の芸ではなく面の芸だ。
面の皮が厚ければ誰でも書ける。
犬養毅は木堂と号し、書道家としても高名だった。議会の合間は、新聞記者と懇談するか、求めに応じて揮毫するかのどちらかだったという。短時間に次々とできあがる書作品には、ひとつとして同じ文言はなかった。それは犬養が長年にわたって修めた漢詩文の教養と、多くの書作品を鑑賞してきたことに裏打ちされたものだったのである。
犬養は「出鱈目は書の極意」と言っていた。「出鱈目」とは飾り気のない「天真」(無邪気さ)であり、これを究極の境地とし、滲み出る「気韻」(高い気品)を重んじていた。「字は手の芸ではなく面の芸だ。面の皮が厚ければ誰でも書ける」という犬養の言葉は、書の巧拙にとらわれない姿勢を示したものである。
「書の巧拙は技術に属し、品格の高卑は天分に属する。運筆がいかに巧みでも、技巧がいかに妙でも、品性の卑しい人には崇高な文字はできぬ」と犬養は言う。さらに「いかに品性が高尚でも、技術を学ばねば、品性を写し出すことができぬ」とも説いた。
「調与時人背」 犬養木堂記念館蔵
調は時人と背き 心は将に静者と論ぜんとす 終年帝城の裏 識らず五侯の門 是れ唐詩なり。古人も亦吾わが境遇に似る者此の如きを見る可し。
唐代の詩人・官僚の張継の詩で、題は「感懐」。前漢第11代成帝時代に皇太后王氏の一族が専横をふるった故事による。当時は腐敗政治が蔓延し、賄賂を憎む清廉な官僚たちは出世もままならず不遇であった。唐も中期には政治腐敗が進んでいたが、張継は「生涯朝廷に仕え、権力には媚びない」として強い決意を示している。憲政擁護で闘っていた犬養にとって、この詩は大きな慰めとなったのであろう。
扇面「金韜水以媚」 犬養木堂記念館蔵
金、韜まれて、水以て媚しく 玉、蔵されて、石、輝きを生ず
丁巳(1917年)の夏、書して信子に与う。木堂散人
原典は中国晋時代の陸機の「文賦」。末娘の信子に書き与えたもので、才能や家柄・財産などを誇示してはならないと諭している。
色紙「碧水丹山映杖藜」 犬養木堂記念館蔵
碧水丹山杖藜に映じ 夕陽猶在り小橋の西
微吟覚えず渓鳥を驚かすを 飛びて乱雲深き処に入りて啼く
沈石田の詩 子遠(犬養の別号)
渓谷の碧い水や丹い山肌が藜の杖に映り、夕陽はまだ小橋の西の端に止まっている。小声で詩を吟じたのが渓流の鳥を驚かせたのだろうか、飛び立って乱雲の奥深くに逃げ込んで啼いていることだ。
人間力
◆ 律儀で誠実な人柄
犬養毅は手紙の返事を必ず書いた。帰宅するや洋服も脱がずにまず郵便物を見て、返事を出すものをえり分けて、片っ端からしたためた。「2000枚の封筒は、1年も待たずに費やしてしまう」ほどだったという。とくに、青年や同志に対しては懇切を極め、その律儀で誠実な人柄が多くの信望を集めた。
◆ 先見の明あればこそ
1898年(明治31)、自由党と進歩党が合同して憲政党が結成された際に犬養の演じた役割は大きかった。憲政党政権である第1次大隈重信内閣が発足すると、犬養は総務委員となり、内閣の実権を握る。世間は犬養を「無冠の宰相」「当世策士の標本」と呼んだ。こうした犬養の政治家としての力量は、卓越した先見の明によるものだった。
1910年(明治43)に立憲国民党を結成するとき、他党が無条件合同を申し込んできた。犬養は「無条件合同というのは、武士が丸腰で来るということだ。それを拒絶する理由はない。だが、この後にきっと大津波が来る」と予見。はたして3年後、大石正巳らが脱党し国民党は分裂した。しかし、次の展開を見すえていた犬養には、失望も落胆もなかった。
策士としての一面を備えていた犬養だったが、一方でみずからの理想を追求する姿勢は一度としてゆるがなかった。犬養は憲政本党・立憲国民党・革新倶楽部という少数政党で苦難の日々を過ごしていたが、一貫して「閥族打破」「憲政擁護」を目標とし、犬養内閣組閣までは元老の門を叩くことはなかったのである。
◆ 強固な意志と克己心
糖尿病を患った犬養は、医師の忠告に従って数年間絶対に糖分を摂らなかった。蓄膿症を患って手術をするかどうかのとき、もし手術しなければ相当の日数を要すると言われた犬養は、「幾日かかっても構わぬから」と90日間1日も休まず病院に通い、その強固な意志と克己心で医者を驚嘆させた。
(「池上彰と学ぶ日本の総理24」より)
初出:P+D MAGAZINE(2017/08/18)