【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の8回目。今の日本の礎を築いた人でもある、戦後のワンマン宰相・吉田茂について解説します。
第8回
第45・48~51代内閣総理大臣
吉田茂 1878年(明治11)~1967年(昭和42)
Data 吉田茂
生没年 1878年(明治11)9月22日~1967年(昭和42)10月20日
総理任期 1946年(昭和21)5月22日~47年(昭和22)5月24日、
1948年(昭和23)10月15日~54年(昭和29)12月10日
通算日数 2616日
所属政党 日本自由党、民主自由党、自由民主党
出身地 現在の東京都千代田区神田駿河台
出身校 東京帝国大学法科大学政治学科
初当選 1947年(昭和22) 69歳
選挙区 高知全県区
歴任大臣 外務大臣
ニックネーム ワンマン宰相・和製チャーチル・白足袋宰相
墓 所 久保山墓地(神奈川県横浜市西区)
67歳で政界入りした遅咲きの人!
戦後政治の原型をつくり、いまの日本の基礎を築いたのが吉田茂です。アメリカ軍を中心とする占領軍統治下の日本で、外交官出身という来歴が生かされました。親英米派の吉田が総理に就任することは、当時の日本に有利に働きました。また吉田は、戦前からの古い政党人を退け、官僚出身者を抜擢し、政界の体質を変えてもいます。日本を復興させるために吉田茂が進めた「軽武装・経済優先」主義は、戦後保守政治の基盤となったのです。
吉田茂はどんな政治家か 池上流3つのポイント
1 ワンマン宰相
英語のワンマンを「独裁者的に物事を進める」という意味で使うのは和製英語で、吉田茂総理を評する言葉として広まりました。政治家デビューが67歳と遅かった吉田は、外交官時代に身につけた西欧流の哲学で、強烈に自己主張を通したため、「ワンマン宰相」といわれたのです。
2 戦後の経済復興
1945年(昭和20)の敗戦時、日本経済も壊滅していました。インフレ(物価高)と食糧不足が国民経済を直撃し、鉱工業生産もどん底という八方ふさがりの状態でした。吉田茂はアメリカに余剰農産物の援助を求め、重工業へ集中的に資金・労働力を投入する傾斜生産方式を導入し、超緊縮財政などで危機を乗り切ります。そして朝鮮戦争の特需によって経済復興をはたしたのです。
3 保守本流
吉田茂が登用する人材は、「吉田学校」といわれました。吉田茂の政策を受け継ぎ、保守政治の永続化を図った一群の政治家が、自分たちを「保守本流」と呼びます。派閥政治が盛んになるにつれ、吉田直系の池田勇人派、大平正芳派や佐藤栄作派、田中角栄派が好んで使いました。逆に吉田政治とは距離を置いた三木武夫派や中曽根康弘派らは「保守傍流」とされました。
吉田茂の名言
戦争で負けて
外交で勝った歴史はある。
― 総理就任時の覚悟を述べて
この海の向こうで、
今も多くの日本人の血が流れている。
若い命が失われている。
― 戦時中、吉田をスパイしていた書生が聞いた言葉
日本国民よ、自信を持て。
― 吉田茂『回想十年』より
揮毫
吉田茂書「天道無親常與善人 素淮書」
外交史料館蔵
天道(人道を超える大道)は利己的な考えで人に親しまず、常に善人に味方する、の意味。素淮は吉田の号。
人間力
◆ わが道をゆく
吉田茂は人事を決めるとき、ほとんど他人に相談しなかった。議席を持たない佐藤栄作を官房長官に起用したり、当選1回の池田勇人を大蔵大臣に抜擢したりする。一方で、自分にさからう石橋湛山、河野一郎をばっさり除名処分にした。予想外の人事は、吉田総理の強い指導力を印象づけた。
◆ ユーモアの持ち主
はじめて吉田茂が立候補したのは1947年(昭和22)4月の総選挙。演説が下手だった。そのうえ、コートを着たままだったため、聴衆から「外套を取れ」と野次られる。「外套を着てやるから、街頭演説です」とやり返し、このときだけは大喝采を浴びた。毒舌とユーモアの才で、「憎めないオヤジ」という吉田像が国民に広まった。
◆ 人材を発掘する
吉田は総理になると、総選挙に官僚出身者など新しい人材を大量に立候補させた。しかも、そうして当選した新人議員を重要閣僚・党三役に起用して活躍の場を与えている。このなかから、のちの首相を輩出。吉田は年功序列・事なかれ主義の人事を行なう気などさらさらなく、期せずして人材発掘につながった。
(「池上彰と学ぶ日本の総理1」より)
初出:P+D MAGAZINE(2017/09/01)