【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の31回目。陸海軍の軍縮で国内経済を立て直した、「加藤友三郎」について解説します!
第31回
第21代内閣総理大臣
加藤友三郎
1861年(文久1)~1923年(大正12)
Data 加藤友三郎
生没年月日 1861年(文久1)2月22日~1923年(大正12)8月24日
総理任期 1922年(大正11)6月12日~23年(大正12)8月24日
通算日数 440日
出生地 広島県広島市中区大手町(旧安芸国広島城下大手町)
出身校 海軍大学校
歴任大臣 海軍大臣
墓 所 東京都港区の青山霊園
加藤友三郎はどんな政治家か
陸海軍の軍縮を断行
軍人として日露戦争などで戦功をあげ、海軍大臣となって艦隊拡充を推進しました。しかしアメリカとの軍拡競争には疑問を抱いており、それが軍縮の断行につながりました。陸海軍に軍縮を納得させられたのは加藤が功なり名を遂げた軍人だったためでもあります。在職中に病気で死亡した総理大臣は、この加藤友三郎がはじめてでした。
加藤友三郎 大仕事・大一番
陸海軍の軍縮で国内経済を立て直す
ワシントン会議で軍縮条約を締結した加藤友三郎。
総理就任後、軍事費縮小と軍の再編を自ら実現する。
●軍備増強路線の責任をとる
1914年(大正3)に勃発した第1次世界大戦は日本に好景気をもたらし、成り金とよばれる富裕層を生んだ。ところが4年後に戦争が終結すると、戦時中の過剰な設備投資などが災いし、大不況となる。
さらに、軍備増強による財政圧迫も加わり、日本経済は破綻しかけていた。財政破綻の原因のひとつは、国家予算の3割近くにも上る「八・八艦隊」計画にあった。つまりは、海軍大臣時代にこれを推進した加藤友三郎にも責任の一端があったといえる。1921年(大正10)、ワシントン会議に首席全権としておもむいた友三郎が国内の反対を押し切って、会議で提案された海軍軍縮案、アメリカ、イギリスとの主力艦比率(米英日が、5:5:3)や航空母艦の保有トン数の取り決め、建造中の主力艦の廃棄などの内容を受け入れたのは、対米英関係への配慮に加えて、国内経済に対する冷静な判断があったのだ。
総理に就任した友三郎は、この軍縮案を実現することこそが自身の責任であると思い定めていたようだった。軍艦の減少と同時に海軍軍人のリストラも断行し、准士官以上を約1700人、下士官以下を約5800人、海軍関係の工場に勤める工員を約1万4000人減少させた。1922年(大正11)と翌年の海軍兵学校の生徒募集は、それ以前の300人から50名に減少した。
●陸軍も軍縮を断行
一方、ワシントン会議では議題に上らなかった陸軍の軍縮にも友三郎は手をつけ始める。陸軍における経費節減について研究し、どこの兵をどれだけ減らせるかを検討した。
このとき陸軍の軍縮を実際に行なったのが、山梨半造陸軍大臣である。相模国大住郡(現神奈川県平塚市)の生まれで、加藤友三郎より3歳下。陸軍士官学校を出てからは歩兵少尉をふりだしに陸軍内で出世を遂げてきた、根っからの陸軍軍人である。
陸軍側は軍縮に乗り気ではなかったが、海軍が思い切った軍備縮小に踏み切ったため、手をつけざるをえなくなった面もある。そして、アメリカも軍縮案を呑んでいるため、その脅威が減少したことも影響していた。
陸軍の軍縮を行なった山梨半造
「山梨軍縮」断行の後、軍事参議官などを経て朝鮮総督に就任。写真は1929年(昭和4)8月、朝鮮総督在任時の姿。写真/共同通信社
兵装を撤去される戦艦「
海軍軍縮策により、1924年(大正13)京都府
大砲などの兵装を撤去される。写真/毎日新聞社
(「池上彰と学ぶ日本の総理22」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/03/02)