【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の43回目。太平洋戦争の直前に現役軍人のまま総理となった「東条英機」について解説します。
第43回
第40代内閣総理大臣
東条英機
1884年(明治17)~1948年(昭和23)
写真/国立国会図書館ホームページ
Data 東条英機
生没年月日 1884年(明治17)12月30日~1948年(昭和23)12月23日
総理任期 1941年(昭和16)10月18日~44年(昭和19)7月22日
通算日数 1009日
出生地 東京都千代田区麹町(旧東京府麹町区)
出身校 陸軍大学校
歴任大臣 陸軍大臣・内務大臣・外務大臣・文部大臣・商工大臣・軍需大臣など
墓 所 愛知県西尾市東幡豆町の殉国七士廟・東京都豊島区の雑司ケ谷霊園
東条英機 その人物像と業績
現役軍人のまま総理となり、太平洋戦争に突入
日中戦争を推進した東条は、
対米
一方では厳しくも面倒見のいい、よき上官でもあった――。
●アメリカとの交渉決裂、開戦へ
1941年(昭和16)12月8日未明、軍令部より首相官邸に連絡が入った。
「海軍部隊ノハワイ急襲成功セリ」
真珠湾攻撃の第一報だった。東条英機総理は、意外なほど冷静に「よかったな」とつぶやき、「陛下には軍令部からご報告を申し上げたろうな」と側近に問いかけた。
かねてから東条が主張してきた日米開戦が現実となった瞬間だった。しかし同時にそれは、総理就任時に昭和天皇から指示された、開戦回避への対米交渉が失敗した結果でもあった。
同年7月に始まった日本軍の南部仏印進駐にアメリカは抗議し、日本への石油輸出を全面的に禁止した。これに対し第3次近衛文麿内閣は、和平による打開が不可能となれば開戦に踏みきることを「帝国国策遂行要領」として9月に決定していた。
当時、陸軍大臣として対米開戦を強硬に主張していた東条であったが、10月に総理に就任すると天皇の意を受けて再検討に着手し、条件付きで中国・仏印から撤兵するとした譲歩案をまとめ、アメリカ側に提示した。
にわかに開戦に慎重となった東条を、急進派は「総理になって怖気づいたか」と厳しく批判したが、東条はそれほど本気で和平に取り組んだ。だが、アメリカは譲歩せず、交渉は決裂した。こうして、開戦の決定が下されたのである。
宣戦詔書の内容が決定した12月6日の晩、東条は官邸の執務室でひとり号泣したという。天皇の意に沿えなかったからだった。
しかし、戦闘が開始されると、東条は一転して自信に満ちあふれた指導者に変貌し、日本を泥沼の戦争へと引きこんでいくのである。
●「カミソリ東条」の異名をとる
東条英機は1884年(明治17)12月30日、陸軍軍人・東条英教の3男として東京・麹町に生まれた。
東条家は代々、能楽師の家柄だった。明治維新後、軍人に転じた父英教は、陸軍大学校を首席で卒業して将来を嘱望されたが、長州(山口県)出身でないことや一本気な性格が災いし、中将で軍歴を終えた。そんな父のあとを追って東条も軍人の道を歩む。
幼年学校から陸軍士官学校へと進んだ東条は、負けず嫌いの努力家で、卒業後は歩兵連隊の少尉に任じられた。1912年(大正1)、参謀将校を養成する陸軍大学校に合格、大尉となって卒業すると、出世コースであるドイツ駐在を命じられた。帰国後、陸軍大学校教官、陸軍省整備局動員課長を歴任し、1929年(昭和4)歩兵第1連隊長に就任した。
このころから、「カミソリ東条」とよばれるようになる。頭脳明晰で切れ味が鋭く、また、規律を重んじ部下には厳しく接したためである。だが一方で、退職する部下の就職の世話まで焼く、面倒見のいい一面も備えていた。
この間、東条はのちに統制派の中心人物となる永田鉄山中佐らが結成した研究会の二葉会、次いで一夕会に参加し、陸軍の人事問題や満蒙(満州と内蒙古地域)問題を話し合い、その打解策を模索するようになる。
一方で、軍事政権の樹立を目ざす橋本欣五郎陸軍中佐らの結社桜会には、批判的な立場をとった。東条は「過激な行動は慎め。まもなく自分たちの時代がくる」と、桜会に惹かれる若手将校らを諫めていたのである。
●陸軍の「切り札」として開戦を主導
1931年(昭和6)、満州事変が始まったころ、参謀本部編制動員課長に就任した東条をはじめ、一夕会のメンバーは陸軍の主要ポストを占めるようになっていた。一方、三月事件、十月事件と、桜会による軍事クーデターが未遂に終わると、天皇親政による国家改造をめざす皇道派が陸軍内で勢力を増した。しかし、1936年(昭和11)、若手将校が起こした二・二六事件がすぐに鎮圧されると、皇道派は一掃されることになった。
当時、満州で関東憲兵隊司令官をつとめていた東条は、関東軍内の急進分子を検挙して混乱を収拾し、その名を高めた。
陸軍中将に昇進した東条は、1937年(昭和12)3月、関東軍参謀長に就任する。同年7月、北京西南の盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が勃発した。東条は強硬論を唱え、兵団長として内モンゴルのチャハル制圧に動く。53歳にして初めての実戦であったが、兵力に勝る国民政府軍に対し圧倒的な勝利を得、軍中央からも一目置かれる存在となった。
翌年、東条は板垣征四郎陸軍大臣のもとで陸軍次官となり、1940年(昭和15)には第2次近衛内閣の陸軍大臣に就任する。高まる強硬路線への批判に対抗できる陸相として、東条は陸軍の「切り札」となっていたのだ。
日本が南部仏印に進駐すると、日米関係は緊迫化し、第3次近衛内閣でも陸相となった東条は、戦争回避に動く内閣と海軍を向こうに回し、強硬に開戦を主張した。
そして、「戦争には自信がない、自信のある人でおやりなさい」と政権を投げだした近衛に代わり、東条が内閣を率いることとなったのである。
●「敗戦の責任は私が負う」
太平洋戦争の緒戦では勝利が続いたが、ミッドウェー海戦の大敗以後、戦況は徐々に悪化し、1944年(昭和19)7月18日、東条内閣はついに総辞職に追いこまれた。
退任後の東条は用賀の自宅にこもり、人もしだいに寄りつかなくなった。外出は月1回の重臣会議と陸軍省の大将会のみとなった。
重臣会議では、東条が発言すれば紛糾するので煙たがられた。海軍出身の鈴木貫太郎が次期総理に推挙されると、東条は「陸軍がそっぽを向く恐れがある」と発言し、出席者から「大命を拝した者にそっぽを向くとは何ごとか」とたしなめられる場面もあった。
天皇への奏上では、ただひとり徹底抗戦を訴えたが、ポツダム宣言受諾が正式に決まると、聖断としてこれを受けとめた。
終戦1か月後の9月11日、アメリカ占領軍は東条の自宅を取り囲んだ。戦犯容疑で逮捕されることになったのである。
すると、東条は拳銃で自殺をはかった。だが、弾が心臓をそれて一命を取りとめ、翌年4月、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として起訴されることとなった。
「日本が起こした戦争は自衛戦争だ。国際法には違反していない。しかし、敗戦の責任は私自身が負う」と東条は表明した。そして、天皇には責任がないことを強く訴えた。
戦勝国が戦敗国を裁いた東京裁判については、その正当性、公平性を疑問視する声も多いが、東条は思うところを堂々と主張した。しかし、自己弁護をすることは一切なかった。
1948年(昭和23)11月12日、東条は絞首刑の判決を言いわたされた。
収監後は仏教に親しみ、心の平安を得ていたという。処刑の前日には「今は心が洗われるような心境です」と語った。開戦に導いた責任者として、犠牲者やその家族への思いもめぐらせつづけた。
12月23日、巣鴨拘置所内で、他の戦犯6人とともに、東条の死刑が執行された。64年の生涯だった。
胸いっぱいに勲章をつけた東条英機。1944年(昭和19)2月6日撮影。写真/国立国会図書館ホームページ
衆議院で開催された大東亜会議
1943年(昭和18)11月5日~6日、東条は日本の影響下にあった中国南京政府・タイ・フィリピン・ビルマ・満州国などアジア諸国・諸地域の国政最高責任者を東京に招聘して大東亜会議を開催し、大東亜共栄圏の綱領ともいえる大東亜共同宣言を採択した。写真/毎日新聞社
掃除する少女をねぎらう東条
1941年(昭和16)11月16日、
(「池上彰と学ぶ日本の総理29」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/06/01)