◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈後編〉
取調室はCIQ棟の自動ドアに一番近い場所に全部で五部屋あり、一番取調室はドアの一番近くにある広さ十畳のもっとも大きな取調室だ。中には検査室と同じ検査台と洗面台、取調用の机とイス二脚、さらに予備の机もある。
閉められた引き戸を重田がノックしてから開ける。男はすでに部屋の最奥の被疑者席に腰掛けていた。向かいには住田審理官が着席している。
取調室にはイスが二種類ある。一つは取調を行う審理官用で、キャスターと肘掛けの付いたクッション座面の物だ。対して被疑者用のイスには肘掛けはない。座面も背もたれもメッシュの布張りのシンプルな物だ。警察の取調室のイスはどちらも同じ物だ。警察の場合、被疑者は逮捕後に取調室内に入るのですでに身体検査済みだ。証拠物を隠される恐れはない。けれど税関はこの段階ではあくまで私人逮捕となる。だから証拠を隠したり捨てたりされないためにイスにも工夫がある。
検査台の上に男のスーツケースが置かれ、石井と機動班の検査官二名が中身を取り出していた。トレイを置いた重田がすぐさま手伝い始める。
「それでは」
トレイを置いた川相はぺこりと頭を下げる。税関職員それぞれが感謝の言葉を言い終える前に、川相は退室する。室内にいるのは自分も含めて、おそらく全員が川相よりも年長者だ。その態度はいかがなものだろうと思う。けれど、そんなことを言おうものなら、口を開けたとたんに、あの少し高い声で「失礼とかじゃないんですよ」と言い返されそうだ。
とは言え、カメの知識は本物だし、本業外のことなのに協力してくれている。だから一風変わってはいるが良い奴なのだろうと、心の中で決着をつける。
「話を伺います」
住田の声が聞こえた。取調の経験者だけに、いよいよだと、気分が高揚する。男のやり方は悪質だ。正規の許可を得ずにカメを密輸したのはもちろんだが、検査で誤魔化そうとダミーの石を入れていた。そのうえ、検査で見つかった場合に備えて、Ⅱ類のカメの偽造書類も持っていた。密輸のために二重の備えをしていたのだ。まず初犯ではないだろう。あとは単独犯か、複数犯か。複数の場合、組織と繋がっている可能性もある。そんなことを考えていると、英の小さな声が聞こえる。
「ここからは時間との勝負です」
見ると、その顔は真顔だった。
取調の時間には上限がある。警察は逮捕後、四十八時間以内に検察へ身柄送検しなければならない。余裕があるとは言い切れないが、だとしても英の表情ほどの切迫感を持つことはない。訝しく思っていると、肩をちょんと突かれた。外に出ようと目顔で促される。外に出て、完全にドアが閉まってから英は口を開いた。
「取調開始から九十分以内に摘発報告書を作り、犯人と一緒に警察に引き渡します」
疑問を口に出す前に、英が話し出す。
「税関はあくまで税に関する法のみを」
言わんとしたことが分かった。
「ワシントン条約違反の逮捕は警察」
英が頷いた。関税法違反の場合は犯人のみを引き渡して物は税関が管理するが、それ以外は物も犯人も警察にすべて引き渡すことになっている。慣習などではない。法の下の決定事項だ。
「九十分は短いですよね」
「そんな法律あるんですか?」
「いや、ないですよ」
平然と英が答える。
「なぜ九十分になったのか、今となっては誰も知らないんですよ。そもそも現時点ではまだ警察に連絡は入れていません」
ならば九十分が過ぎたかどうか、警察が知る由もない。それで非難されることもない。
「単純に、取調はそれくらいで終わらせろという被疑者への配慮なのかもしれません」
逮捕後は警察で取調を受ける。その厳しさを槌田は知っている。
「誰がどういう違法行為をしたのかを確定するために行います。何をどれだけどういう手段で持ち込もうとしたのか。本人の自覚の下なのか、誰かに依頼されたのか。証言と荷物からそれらを調べ上げて摘発報告書を作る、それが税関審理官の取調です。そこから先は警察の手に渡ります」
もちろんそこで終わりでない。事件の真相を明確にして嫌疑者を特定し、最終的に嫌疑者を処分したり検察に告発するまでが審理官の仕事だ。けれどすべては関税法に基づく犯罪のみだ。
手応えがないな、と槌田は思う。
「取調に同席しますか?」と訊ねられ、同意する。けれどさきほどまでの高揚感は消え失せていた。
住田審理官は見事に九十分以内で取調を終わらせた。別室のパソコンで二種類のカメの外見を調べるだけでなく、写真を撮って協力を仰いでいる専門家にも確認を求めた。結果、川相の指摘通り、十三匹はインドホシガメ、二匹がホウシャガメと判明した。男の所持していた書類はインドホシガメについてのものだけで、十五匹と記載されていたので、偽造書類と確定した。二件のワシントン条約違反と外国為替及び外国貿易法違反で逮捕されることが決定したと告げられた男は、諦めたのか正直にすべてを話し出した。
都内でペットショップを経営している男──菅谷三郎(すがやさぶろう)・四十三歳は販売目的のために密輸を行ったと自供した。現時点では複数犯の証拠はなく、あくまで男の単独での犯行とみなされているが、これは今後の捜査で明らかになるだろう。取調を終えた男は逮捕されると分かって肩を落として俯いている。スーツケースはすでに閉じられ、カメのトレイも運びやすくするためにカートに載せてある。取調中に川相が水と餌を持ってやってきて、トレイの上に載せた。何匹かが反応して頭や手足を出し、水を飲み始めたときには室内にいた全員、それこそ密輸犯の菅谷すら安堵の声を上げた。だが未だにまったく動かないカメも数匹いる。恐らく、ダメなのだろう。餌を食べ、水を飲んでいるカメの姿は愛くるしい。けれど動かないカメを見るのは忍びない。そのとき、ふと気づいた。このカメたちは、このあとどうなるのだろうか? あとで聞いてみようと槌田は心に留める。
その後は連絡を受けた分室の警察官が男の身柄と荷物のすべてを引き受けにやってくるのを待つだけだった。
あっけなかったな、と槌田は思う。
取調室のドアが開いた。背広姿の男が三人入ってくる。そのうちの一人は警察学校の同期の大石だ。槌田に気づいた大石が驚いている。
「菅谷三郎、ワシントン条約違反と外為法違反で逮捕する。時刻は午後六時三十二分」
刑事の一人が宣言して、菅谷の両手に手錠をはめる。立ち上がらせた菅谷に大石が腰縄を着けた。そして大石は「あとでまた」とのみ言って、菅谷とすべての荷物を持って出ていった。この先は警視庁生活環境課環境第三係、通称警視庁生きもの係に引き継がれることになる。
「お疲れ様でした」
英が住田に頭を下げる。
「ギャラリーがいるから緊張しちゃったよ」
苦笑しながら住田が席を立った。二人もその後に続く。
「けっこうな時間になりましたね」
英が腕時計を見ながら言う。向こうから機動班の男性検査官が三名、小走りで近づいて来る。また応援要請が来たのだ。
一つの事案を取り調べている最中にも、飛行機は絶え間なく到着し、訪日客は途切れない。そのすべてに事件性が潜んでいる可能性がある。それぞれがきちんと役割を果たす。そうでなければ、最前線で国を守ることは出来ない。あっけないなどと思ったことを槌田は自省した。
「それにしても、お見事でした。槌田さんが気づかなければ、見落としていたかもしれません」
最初に指摘したのは確かに自分だ。英は褒めてくれたが、自省したばかりの槌田にはなんとも面映ゆい。「いえ」と歯切れ悪く返すことしか出来ない。
話題を変えようとして、思い出した。
「あのカメたちって、このあとどうなるんですか?」
「今回のような、出自が確認できない場合は、輸出された国や、本来の分布地に戻されることはまずありません」
出自が証明されない場合、純粋な種ではない恐れもあるため、種の保護のために分布地に戻すことはないと、英が説明する。
「動物園や水族館や研究施設に緊急保護という形で、収容されることになります」
知識のある人達のいる場所に引き取られると知って安心する。
「そのまま無事に成長して動物園や水族館で一般公開される場合もあります」
ならば今回出会ったカメたちに、いずれどこかで出会える可能性もあるということだ。「引取先は警察が捜すんですよね?」
ならばあとで問いあわせてみよう。そして、いずれ結実を連れて会いに行けるだろうか。そのときには、今日のことを話そう。その日を期待して、ちょっと気持ちが上向きになる。
「今回はそうですね。でも、税関でも捜します。関税法違反の場合、権利放棄する人がいるので。けっこうな数の爬虫類を静岡のiZooに引き取って貰っています」
利益を得ようと密輸したあげく、見つかって権利放棄する輩がいる。しかもけっこうな数と聞いて、また槌田の気持ちは沈んで行く。
「酷い話だな」
気持ちが口からこぼれた。
「動物は生まれ育った良い環境で仲間と一緒に暮らすのが一番なのに、人間の欲で勝手に連れてこられて、それもあんな酷い状態で」
最後まで動かなかったカメの姿が頭の中に甦る。
「助かっても、その先は水族館や動物園で生きて行くんだろう? 仲間に出会うこともなく、寿命を迎えるのだっているんじゃないか?」
希少種ならば十分にありえる。
「あげく、権利放棄する奴もいるって。マジでけったくそ悪い」
本音を言い続けているうちに、それまで英に合わせて使っていた丁寧語が吹っ飛んでしまった。「すみません、つい」と謝罪する。
「いいんですよ、同じ年ですし、いつもの通りに話して下さい」
にこやかに言われるが、英が馬鹿丁寧な態度をとり続けている限りは、やはりそれは良くないだろうと思う。
「すべての人、いや人に限りませんね、生き物、物、とにかく来日するすべてに、法律を守って正しく来日して貰いたい。税関職員として、私はそう願っています」
それは本来なされていなければならないことだ。だが英は願いだと言った。それが実情だということを、今日半日で槌田は体感していた。
「笑顔で言って迎えたいんですよ、『Welcome to Japan』って」
そこで英は言葉を切った。そして「ことにカメには」と続けると、探るように槌田を見ている。
──ことにカメ。Welcome。
「もしかして、だじゃれですか?」
「添乗員時代、けっこうこれで救われていたというか、受けていたんですけれど。どうですか?」
照れたように英が訊ねる。どうと言われてもだった。そもそもカメは Turtle だ。とりあえず、いいんじゃないんですか? と返そうとして思いとどまる。そして反応を期待している様子の英に「いいんじゃないか? カメだけにウェルカメ」と答えた。
「ですよねぇ」と英は嬉しそうだ。
人、生き物、物、すべてのものを、「Welcome to Japan」と笑顔で迎えたい。ことにカメには Welcome だ。
出向して八日、東京国際空港に来て半日だが、槌田は心底からそう思っていた。
(第2話へつづく)
〈「STORY BOX」2019年5月号掲載〉