◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第3話 Good boy! Good girl!〈前編〉
使われていない作業台の上に取り出された物が並べられる。その前に立つ泉水の顔にはそれまでなかった眼鏡が掛けられていた。老眼鏡とか拡大鏡のような一般的な物ではない。レンズの部分には双眼鏡のように筒状レンズがついている。白髪頭にその眼鏡を掛けた泉水は、税関職員というよりも精密作業をする職人のように見える。
「あれって、職場の備品か?」
もちろん違うだろうと思いつつ、こそこそと英に訊ねる。
「いえ、あれは泉水さん個人のものです」
想像通りの答えが囁き声で返ってくる。
「中箱は白、布袋は」
白い布袋を手にした泉水は、自分の鼻に近付けた。そのまま静かに深く息を吸う。いったん息を止めてから、口を細く開けて細く長く息を吐く。臭いを嗅いでいるのだろう。
何かの儀式のような光景に、槌田はちょっと鼻白む。訓練された犬ならばともかく、人が正規品かそうでないかを臭いで嗅ぎ分けられるとはとても思えない。
そのとき泉水がこちらを向いた。考えていたことがことだけに、なんともばつが悪い。
「革製品はブランドごとに処理の仕方や、染料が違っていましてね。知的財産侵害物品は原価が安い方が利益が出る。見た目の粗さは一目瞭然で偽物と分かってしまうから、最近の知的財産侵害物品は、たとえば正規品が本革の場合、ナイロンやビニールなどは使わないし、縫製などの仕上げにも力を入れている。でも革の下処理や染料まではさすがに力を入れていない」
言いたいことは理解出来た。問題は、臭いの違いを嗅ぎ分けることが出来るかどうかだ。
筒状のレンズに隠れて泉水の目は見えないが、口元は微笑んで見える。わずかなことも見逃さず、そして態度はどこまでも優しい。優秀なベテラン教師のようだと槌田は思う。
「明らかに化学臭がするね」
本当に泉水が嗅ぎ分けたことに、槌田は恐れをなす。
「やはり、そうでしたか」
泉水の言葉に、英がすぐさま同意をした。泉水がベテランで腕の良い知的財産調査官で、犬レベルの嗅覚を持ち合わせているのも分かるが、さすがに臭いだけで断定は出来ないだろうと槌田は思う。
「では、虎の巻と比較してみようか。エイメイさん、取ってくれるかい?」
泉水が言い終える前に、英はキャビネットの前に移動していた。中から青いファイルを取り出して持ってくる。ブランドから提供されている資料だ。
机の上に広げると、泉水が慣れた手つきでファイルを捲る。バッグの内側の縫製、内張りの布の品質、さらには布目が正しく縫い合わされているか。泉水は一つ一つじっくりとレンズを近付けて確認していく。その様はやはり職人のようだ。
「布は似ているけれど、布目がずれている。それと、縫い目がね」
バッグの右上の端の縫い目を泉水が指す。槌田の視力は良い方だが、さすがに肉眼ではよく見えない。何かないかと見回すと、英がどこからか持ってきた拡大鏡を差し出した。
「ミシン縫いの場合、表は右上がりになる。でも、裏は並行な縫い目になるのが本物なんだよ。これは裏が右下がりになっている」
拡大鏡で見た縫い目は泉水の言う通りになっている。
「こちらの方が、もっと分かりやすいね」
今度はバッグの前面と側面の革を縫い合わせた角の部分を泉水が指さす。拡大鏡を向けて見る。黒糸の縫い目が真っ直ぐに走っている。何一つおかしな点はないと槌田は思う。
「正規品の内側部分の端は三、四針分、手作業で返し縫い──折り返して二重に同じ場所を縫っている。でもこれは」
三、四針分どころか六針くらい均等な縫い目が二重になっていた。
「ミシンだ」「ミシンですね」
槌田と英が答えたのは同時だった。
「やはりこれは違うね」
興奮などまったく感じられない静かな声で、泉水が断定する。
目の前にある知的財産侵害物品の出来の良さに槌田は驚いていた。このレベルの高さならば、専門家でなければまず贋物だとは気づけないに違いない。
「では、残り二つも拝見させていただきましょうか」
そう言うと、泉水はまずは財布を見始めた。
どこを重点的に見れば良いかは鞄で分かっていたので、財布とキーケースの鑑定の結論は早かった。
「三つとも正規品ではないよ、確定だ」
そう言って、泉水は掛けていた眼鏡を外した。
「ありがとうございました」
英が頭を下げたそのとき、ノックの音に続けて「泉水さん、これお願いします」と女性の声が聞こえた。
三十センチほどの段ボール箱を抱えて入ってきたのは、検査着姿のまだ若い女性職員だった。
「あ、エイメイさんだ。おとなりは出向してきた警察官の方ですよね? 私、通関検査官の横川(よこかわ)です」
元気な声で英をあだ名で呼ぶと、つづけて槌田に自己紹介した。
丸顔に垂れ目が可愛らしい横川に、「槌田です」とだけ返す。
「ちょうど一つ片付いたところだよ。退かすのを手伝ってくれるかい?」
「もっちろん!」
職場のかなり年上の先輩への返答とは思えない返事をする横川に、泉水は何一つ注意はしない。二人はそのまま作業台の上の物を片付ける。
二十代前半に見える横川と泉水は同じ検査着を着ている同僚だ。だが泉水の容貌や雰囲気と、横川の子供っぽい明るさから、まるで祖父と孫のように見える。
どこからか調達してきた手袋を英に差し出されて、槌田も手にはめる。鞄と財布とキーケースのそれぞれを入れた白い箱を渡されて段ボール箱の中にしまった。すると横川は、広く空いた作業台の上に梱包用のビニールシートに包まれた二十センチほどの棒状の物を五つ並べて置いた。
「これ、絶対に贋物だと思うんですけれど」
言いながら横川が梱包材を広げて中の物を出した。女性物の腕時計だ。
「オメガですね」
英がブランド名を教えてくれる。
「それでは、拝見させていただきましょうか」
そう言うと泉水は、またあの眼鏡を掛けた。
(後編へつづく)