芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第49回】小説とは時代を写す鏡

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義! 連載第49回目は、田辺聖子『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』について。恋愛小説の名手による初期の名作を解説します。

【今回の作品】
田辺聖子感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』 恋愛小説の名手による初期の名作

恋愛小説の名手による初期の名作、田辺聖子『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』について

田辺聖子は軽いエッセーを書く大阪のおばさん、といったキャラクターで、人気のある書き手です。ご主人のことを「カモカのおっちゃん」と呼ぶ身辺雑記がおもしろく、NHKの朝ドラにもなりましたので、多くのファンがいます。でも、「カモカのおっちゃん」の話では、芥川賞はとれないですね。田辺さん自身は、純文学を書くつもりはなかったと、どこかで語っておられますが、これは同人誌に掲載された作品です。昔の同人誌は純文学を志向する書き手が多かったと思われます。田辺さんも思わず力が入ってしまったのでしょう。

エッセーにならないようにという配慮からか、男性を語り手にしています。語られているのは、同僚の女性で、これがヒロインといってもいいのですが、いつも恋をしているという、積極的な女性です。昔の東京オリンピックの少し前くらいの時代ですから、当時としては、こういう女性は少数派だったのではないかと思われます。ただ人数が少ないだけでなく、生意気でいやな女という印象をもたれたり、少々困った人という感じで受け止められたりしていたようですね。そういう批評性が、この作品にはやや突き放したユーモアとして表現されています。

そこがまず及第点ですね。ひところ流行ったケータイ小説には、かわいそうな女がひたすらモノローグするだけの作品が多かったのですが、それだと単なる愚痴といった感じになってしまい、読者は引いてしまいます。この作品では、少し困った女性が、安定した文体できっちりと対象化されているので、文学としての安定感をもっています。

「少し困った人」を批評的に描く

語り手もヒロインは、放送作家という設定になっています。当時としては珍しい職業だったのではないでしょうか。藤本義一青島幸男景山民夫など、放送作家出身の直木賞作家は少なくないのですが、田辺さんは草分けでしょうね。放送作家の仕事は、番組スタッフとの共同作業のようなところがあり、ある意味で最先端の職業ともいえるので、時代というものがよく見える位置にいる人たちといっていいでしょう。書斎に閉じこもって暗い文学を書く純文学作家の対極にある書き手です。その放送作家の日常性が出てくるので、それだけでも「時代」というものを感じます。小説は「時代を写す鏡」といってもいいのですが、とくにこの作品は時代の雰囲気がよく出ているように思います。

というのも、この少し困った女性が、いま追いかけている男性が、「共産党員の労働者」ということになっているのですね。終戦直後には、労働運動が盛んだった時期がありました。戦争に負けて民主主義の時代になったものの、物価の高騰で人々の生活はなかなか楽にならないということで、労働組合は頻繁に抗議デモやストライキをやっていました。ですから「党員」というのも、時代の最先端を行く立場だったのです。共産党員は、もちろん共産主義を理念としていました。観念的な理念をもっている人というのも、ふつうの生活をしている人々から見れば、「少し困った人」という感じがします。その「少し困った人」に熱を上げている「少し困った女性」の姿が、批評的に描かれているのですね。

大阪弁を効果的に使う

観念的な理念といっても、いまの若い人にはわからないかもしれませんが、1970年くらいまでの時期は、日本も貧しい発展途上国でしたので、共産主義や社会主義へのあこがれをもった人も多かったのです。そういう人は、絵に描いたモチみたいな美しい理念を語ります。そこが、ちょっと困ってしまうところなのですが、それを大阪弁のセリフで語ると、途端に批評的になります。大阪弁というのは、そもそも批評的な言語なのですね。「共産主義てなんやねん」と大阪弁の強いイントネーションで言うだけで、美しい理念が木っ端微塵になってしまうようなところがあります。この作品はそういう批評性があるという点で、文学としての鋭さを秘めています。大阪弁のやわらかさと、即物性(それは毒みたいなものです)が、効果的に使われています。ぼくも大阪出身なので、大阪弁のもっている一種の暴力性に、困ってしまうところと、すごいと思ってしまう、両面を感じています。

それにしても、この作品を読むと、わあ、昔の話だな、と思ってしまいます。この作品を、選考委員のほぼ全員が褒めているところも、昔の選考委員はのんびりしていたのだなと感じます。よくもわるくも、文学作品は時代を写す鏡です。田辺聖子のエッセーのファンにとっては、物足りないかもしれません。エッセーの方が、もっと強烈な批評性をもっているからです。そういう意味では、純文学に近い小説というのはどうしても、少し上品ぶってしまうところがあります。芥川賞をとって、すぐに大衆小説やエッセーの方に行ってしまう作家がいますが、田辺さんはもともと、批評性に優れた作家なので、純文学にこだわらなかったのは正解だと思います。

それからふと思ったのですが、この作品の時代性と批評性は、綿矢りささんの『蹴りたい背中』にも通じるところがありますね。綿矢さんは京都の出身ですが、関西女性には独特の批評性があるように思います。

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初出:P+D MAGAZINE(2018/08/09)

【著者インタビュー】原 尞『それまでの明日』
◎編集者コラム◎『いつも私で生きていく』草笛光子