滝口悠生『死んでいない者』/芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第67回】主人公のいない不思議なマルチドラマ

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義! 連載第67回目は、滝口悠生『死んでいない者』について。親類たちそれぞれの記憶と時間が広がっていく作品を解説します。

【今回の作品】
滝口悠生死んでいない者』 親類たちそれぞれの記憶と時間が広がっていく作品

親類たちそれぞれの記憶と時間が広がっていく、滝口悠生『死んでいない者』について

子どもの頃、時々、祖父の家で法事がありました。単なるお祭みたいなものだったのかもしれません。祖母がちらし寿司を作り、大人たちは酒を飲み、子どもはそれなりに遊んでいたような気がするのですが、細かい記憶はありません。ぼくにとってはあまりいい想い出ではなかったようです。父は六人兄弟でしたから、そこに集まる親戚の人数はやたらと多かった気がします。孫の数も多かったはずです。ふだんは顔を合わせない人たちですから、人見知りの強かった(と自分では思っています)ぼくは、部屋の隅でぽつんとしていた記憶があります。

そういう席に必ずいるおじさんやおばさん……顔は知っているのですが、その人がどういう親戚関係にあるのか、ついにわからなかった人もいます。自分にとってはどうでもいいことなので、とくに問いただすこともありませんでした。親戚というものは、謎が多い。ほんとにそう思います。ぼくは長男のいるスペインに時々行くのですが、そこには長男の嫁さんの親戚がいます。嫁さんは五人兄弟で、その子どもは数えきれないくらいで、行く度に全員集まってくるのですが、誰が誰なのか、いまだによくわからないのです。

頻繁に視点が変化する不思議な構成

そういう親戚というものの不思議さを描いたのが、滝口悠生の『死んでいない者』です。小説はこんな文章から始まります。
「押し寄せてきては引き、また押し寄せてくるそれぞれの悲しみも、一日繰り返されていくうち、どれも徐々に小さく、静まっていき、斎場で通夜の準備が進む頃には、その人を故人と呼び、また他人からその人が故人と呼ばれることに、誰も彼も慣れていた。」

誰かが語っている。それはわかるのですが、この冒頭の数行には、語りの主体となる人物の人称が示されていません。誰が語っているのかわからないのですね。ふつうこういう文章があると、これは登場人物の一人のモノローグであり、やがてその人物が中心となって物語が動き始めるのだろう、という予測のもとに、読者は読み進むことになります。そうすると「誰も彼も慣れていた」と判断をしているのは、その中心となる人物の主観ということになります。人称が一人称でも三人称でも同じことで、作品の世界はその中心人物の主観によって切り取られることになります。

すぐそのあとで、春寿という人物が出てきます。日本の小説の場合、苗字のない名前だけの人物が出てきたら、それが主人公だという約束事があります。それでほっとして、この春寿を中心に物語が展開するのだろうと期待していると、話はどんどん別の人物に移行していき、ころころと視点が変化していきます。主役が見えない、視点が定まらない、きわめて不安定な状態のままで、読者は春寿の属する親戚集団の全員と付き合わされることになります。

祖父が死んで、五人兄弟が葬儀に集まり、故人にとっては孫にあたる子どもたちもいるのですが、その孫ももう大人なので、曾孫も出てきます。それから、ダニエルという外国人も一人まざっている。これって誰かの夫なのでしょうが、人間関係を確認するいとまもなく、ころころと視点が移動して、まったく収拾がつかなくなってしまいます。

親戚という人間集団の奇妙さ

ふつうこういう支離滅裂な展開になると、ストーリーが読めなくなって、読者は退屈してくるのですが、けっこう楽しく読んでいけます。結局のところ、最後まで中心となる人物は出てこないので、最初に「誰も彼も慣れていた」などと判断しているのは、誰ともわからない語り手ということになり、神の視点に立って物語を展開する仮想上の作者ということになるのでしょうか。でもこれは書き手の滝口さんというわけではなくて、仮の語り手といったものが設定されて、かなり軽薄なおしゃべりをしている、といった二重構造の設定になっているようです。

この仕組みが目新しく、親戚のすべてを俯瞰して描ききってしまおうという、主人公のいないドラマ、あえていえば膨大な人数の登場人物のすべてが主役であるようなマルチドラマが、おもしろおかしく展開されて、読み終えると、親戚という不思議な人間集団の奇妙さが強く印象に残りますし、こんな奇妙な状態で親戚という過去の遺物みたいなものが、いまにも壊れそうでいて、でも壊れるわけでもないというところに、現代というもののリアルな様相が浮き彫りにされる感じがします。

あの震災以後、家族の絆といったものが、宗教染みていると思われるほど強調される風潮が続いたあと、今度は『家族という病』という本がベストセラーになるなど、家族とか親戚といったもののイメージが大きく揺れ動いています。その時期に、何だかヘンテコで、でも確かにこんな感じが現状なのかなと感じさせる、この親戚のメンバー全員が主役となってあたふたと動き回る、コメディーともいえずトラジェディーともいえない、ふつうにふつうの感じのマルチドラマは、まさに現代社会の縮図のようなものを読者に提示しているのではないでしょうか。

芥川賞は、その時代の鏡であり、社会の縮図を描いてきました。その意味では、まさに芥川賞にふさわしい受賞作だといっていいでしょう。

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初出:P+D MAGAZINE(2019/05/09)

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