モーリー・ロバートソンのBOOK JOCKEY【第7回】~ロックは必ずしも反アベではない~

「アベ政治にノー」はロックなのか?

あれから幾山河。2016年の夏、「フジロック」には学生活動家のSEALDsがスピーカーとして招かれ、政治とロックはどの程度の距離を保てばいいのかが一部で論争となっている。ぼくに言わせれば、フジロックというフェスがすでに本質的にロックとは呼べない。ノスタルジーや仲間意識に裏打ちされたロック風味のテーマパークである。黄昏ゆくロック・ビジネスに後からおまけとしてSEALDsや「アベ政治にノー」がトッピングとして追加されたところで、再びロックが黄金期を迎えるとは思えない。

こんな議論をそもそもしなくてはならないことに驚いているが、改憲に反対することは、果たしてロックなのだろうか? 逆算して考えてみよう。「アベ政治にノー」というメッセージを聴いて17歳の多感な少年は首筋の毛が逆立つような、言葉にならない興奮を覚えるだろうか? 吸い込まれそうな狂気を感じ、しばし躊躇した後に自分の意志で飛び込むだろうか? 「アベ政治」はむしろ繰り返し選挙で多数派の有権者から支持され続けてきた陳腐な存在だ。巨悪に仕立てあげるには、なんというのか、物分りが良すぎる相手だ。「アベ政治」と戦うことは、そもそも知的な怠慢である。

むしろ、今「ロック」と呼べる玉座に座っているのは世界のあちこちで同時進行している扇動政治(ポピュリズム)や原理主義やテロではないだろうか。そこを解説してみよう。

かつてロックがやったことを、今はさまざまな原理主義が代わりにやっている。右派のトランプ氏、左派のサンダース氏、英国のコービン労働党首、イスラム国、アルカイダ、その他のさまざまなイスラム原理主義、旧ユーゴのセルビア人地区に充満する排他的な民族主義、クルド人のテロを辞さない独立運動。それらには通底して「ロック」な狂気がある。若者たちは背中を押されるでもなく、そこに自分から飛び込んでいく。

とても大雑把で太い筆で輪郭を描くと、まず社会的、経済的なストレスが臨界点を超えると原理主義が発生する。かつてのアメリカだと白人と黒人の格差や核戦争の恐怖。昭和の日本では高度経済成長や大都市の急成長など。現在はグローバル経済による先進国の中産階級の没落と、先進国・途上国ともに急拡大する格差。それらの大きな力はどの時代でも個々の社会にストレスをかけ、既存の価値観が持つ求心力を弱める。環境が変わってしまうと、それまでの考え方や価値観では幸せになれない人が急増する。その心の隙間を埋めるように原理主義的な「世直し運動」がどこからともなく湧いて出てくる。

「世直し」の運動は、これまでの社会の流れを一度リセットしてしまい、新たな時代や新たな秩序を作ろうという機運だ。複雑であり、それゆえに行き詰まった現状を大胆な方法で破壊的に作り変えてしまいたい。世界秩序のリセット、大規模な「立て替え・立て直し」を叫ぶ運動は、本質的に原理主義的である。マイルドなリセットは起こりえない。アメリカの言い回し通り「半分妊娠することはできない」のだ。2016年の現在、排外主義、テロ、ポピュリズムという形で新たに噴出する原理主義の数々はソーシャルメディアを媒介に急成長し、投票行動や集団行動のムーブメントへと急成長する。上り調子の勢いがある時には既存のマスメディアも尻馬に乗り、ネットとマスの双方で扇動し合う。かつてはテレビが「はい、ここまで」とブレーキをかけることができた。だが今やテレビは先にソーシャルメディアで拡散する憤りの渦を後追い報道するため、むしろ尾ひれはひれを付け足す。そのテレビ報道を見て視聴者は「けしからん!」と再度ソーシャルメディアに投稿する。渦を巻く義憤はどこかに到達してエネルギーをリリースしなくてはならない。「世の中を変えろ」という切実な、それでいて方向性が定まらないシュプレヒコールが繰り返される。

ソーシャルメディア、テレビ、政治が入り乱れて後押しする大群衆の間では土俗的な乱声が乱れ飛び、参加者にも傍観者にも爽快感が提供される。ムーブメントの渦が大きくなること自体に「祭り」のような達成感がある。そして最初のピークへと上り詰め、多くの者は「許せないことに対して声を上げた」という一体感を味わえる。ここまではロックの急成長した道筋と類似している。しかし、問題はその後に来る。

正義の鉄槌を下そうとする群衆の勢いはいったんオーガズムを迎えてピークアウトする。すると、運動を運営維持していくためには、初期衝動を乗り越えて、より具体的で実務的な代替案が求められる。より大人になっていかなくてはならない。当初のムーブメントに加わった相当数のメンバーが「そろそろ妥協して実を取った方がいい」と思い始める。だが具体的で実務的な代替案は地味なのだ。自民党や民進党のように見通しが悪く、絶えず修正や微調整を必要とする。それに感動ができない。こうなるとそのムーブメントは前衛でも革命でもなくなり、よくある革新勢力の方向に落ち着き始める。春闘の決起集会と同じぐらい、つまらない。

だが、世の中から不正義を駆逐する目的でムーブメントに加わった人々、いや「村人たち」は盛り上がりたいのだ。運動を政治的な力、つまり組織票へと牽引するべく、革命を放棄した「執行部」にはハシゴを外されたことになる。そんな妥協する大人たちに不満が向けられる。このタイミングで、ムーブメントの中でより尖鋭な原理主勢力が優勢を占めるようになる。妥協は一切しない。妥協する執行部は内部から攻撃する。運動は尖鋭化し、選挙に負ける。負けるとますます「戦いははじまったばかりだ」と原理主義者たちの内向きな勢いが加速する。集会でまともなことを言うオヤジたちは野次と怒号に声がかき消され、黙ってしまう。

それぞれの原理主義的なムーブメントに共通しているのは「自分たちは本当の意味での社会の主流」「自分たちの声が体制によって妨害され、届かないようになっている」「自分たちは既得権益のエリートたちの被害者」などなどのマイルド陰謀論。投票して負けるのは、おかしい。正しいのに選挙で負けるはずはない。【本来なら】正しい自分たちの意見は議論を待つまでもない。修正などはしなくてもいい。妥協なき盛り上がり、それこそが最も純粋で正しい。正義のための正義なのだ。

これが国と状況に応じて、変数が多いアルゴリズムのように異なる解を算出する。表面的にはそれぞれ、まったく主義主張が異なる。それにもかかわらず、同時に強く類似している。アメリカの極右ミリシアと「アベ政治は恐ろしい」という日本の左派は、似ているのだ。銃規制に強く反対するアメリカのミリシアは世界観が閉じていて、内側から鍵がかかっている。幾つかのイスラム原理主義は信仰を人権に優先させ、近代的な民主主義も否定する。何が共通しているのか。それは「ロック」な狂気。それぞれの「Crazy Dream」が当事者に見えているのだ。

アベ政権にマイルドに反対、あるいは期待してない……ぐらいならわかる。まあ、そうだろうな、と。それは普通であり、よくある意見だ。だがこの普通でよくある意見はなぜかメディアの表舞台に出てこない。変わって「アベ」を悪魔化し、憲法改正、安保法制、沖縄の基地問題においていっさいネゴシエートの余地はない、とする人たちが日々スポットライトを浴びている。彼らは結局何が欲しいのか? という永遠の問いかけをしていくしかない。

要は「程度の問題」と自らの主義主張、美学を客観視できるか、相対化できるかどうか。そこが分かれ目なのだと思う。原理主義はその構造上、どんどんと渦を描いて純粋に煮詰まり、最終的に必ず現実の前で破綻する運命にある。現実の不正義を許せず、大いなるエネルギーを集め、騒ぎ、そして内側から崩壊するという繰り返しだ。だが一つの原理主義はライフサイクルを終えそうになると次の原理主義に飛び火するケースも多い。一回で終わらない。

(次ページヘ続く)

河谷史夫著『本に遇うⅢ 持つべき友はみな、本の中で出会った』は出会った本をめぐるキレのいいエッセイ。池内紀が解説!
【宮沢賢治に隠れた影響?】あなたが知らない「エスペラント」の世界