モーリー・ロバートソンが語る、「ぼくたちは何を読んできたか」①その青春の軌跡 モーリーのBOOK JOCKEY【第2回】
国際ジャーナリストからミュージシャンまで、幅広く活躍中の「モーリー・ロバートソン」が、その青春時代を振り返る!何を読み、何を経験してきたのか…赤裸々なエピソードに注目!
ぼくたちは何を読んできたか①
ぼくは1981年の3月に東京大学に合格した。その直前にハーバード大学を含むアメリカのいくつかの大学にも合格していたので、同時合格がメディアに報道され、数日間「時の人」になることができた。週刊誌にグラビア写真が乗り、日テレの「ルックルックこんにちは」という朝の番組にゲスト出演した。目の前にチカチカとネオンがまたたくような一瞬だった。
その後、東大の始業式に合わせて上京し、下宿先から登校した。山手線で渋谷まで出て、渋谷から井の頭線に乗り換える。駅を端から端まで歩く時、渋谷の交差点が一望できた。富山県高岡市とはまったく違う。高岡では日々、高校に通学するために単線の氷見線に乗った。列車の窓からはひたすら、田んぼが見えていた。渋谷は見ているだけで目が回りそうなほど垂直に高く、立体的だった。忙しく、人が密集して速度感があり、通行人の表情も険しく、緑色の電話機がずらりと並んでいて正直、怖いものがあった。渋谷は銅器の町、高岡市にはない極彩色に彩られ、空気中にもぴりぴりとした電圧がみなぎっていた。
その渋谷から井の頭線に乗り継ぎ、二駅行くと、とても静かな住宅地の駒場東大前があり、駒場キャンパスの緑の匂いが駅のホームにも漂ってきた。駒場の銀杏並木をはさむ木造モルタルの校舎はどれも古く、手を洗うために水道の蛇口をひねったら茶色い水でも出てくるのではないかというほど老朽化していた。講義室には扇状の木造ベンチが並び、これも古かった。シャーペンやボールペンで突き刺した跡や10年前の落書きでいっぱいの机は、のべ何十万人に触られた結果、角が丸まっていて、不潔なものさえ感じた。講義の直前には白いマスクをつけた左翼団体の学生たちが教室に入ってきてワラバン紙のプリントを配り、それが端から端へと回される。「粉砕」「決起」といった言葉が独特の書体で書かれた文面は「東大生諸君!」で始まっていた。誰も読まないが、プリントを拒む学生もおらず、配りたいのだから配りきったらいなくなるという打算のもと、渡されるプリントを受け取って隣に回すのだった。駒場東大キャンパスにはほとんど色が感じられなかった。セピア色一色ですらないグレーだった。空気中に電圧はなかった。
渋谷で極彩色と高電圧を味わい、駒場で灰色と低電圧を味わう。この反復はすぐに耐え難いものになった。結局駒場キャンパスにはほとんど通わず、数ヶ月の間バンド活動に身も心も没頭して、ハーバード大の新学期に転入する手はずを親にやらせ、夏の終わりにアメリカへと渡った。