モーリー・ロバートソンのBOOK JOCKEY【第8回】丸裸の魂とダイヤモンド
万雷の拍手
緊張が冷めやらないまま、翌朝、金浦空港から北京へと飛び立った。共産圏である中国の表玄関から入るのは初めてだ。観光ビザは取ってある。芸能ビザは、もちろん取っていない。空港で逮捕されるだろうか? それも、いいだろう。そんな気分で3人は和気あいあいと飛行機の中でビールを飲んだりチョコレートを食べたりした。連日の演奏や目まぐるしく動きまわる状況で疲労していたが、なんだかこの疲労自体が楽しい。「パニック・スマイル」のトリイと東京で別れたのが1カ月も前に感じられるほど遠い。次は何が起きるのか、誰も予測できない。
北京空港はさすが共産圏、というほど通関が遅かった。だが耐えられないほどでもない。赤いモヒカンのドラマーは通関の係員の興味をそそり、係員が仲間を呼んできて笑いながらしげしげと見つめていった。逮捕はされない。民主主義の韓国でさえあそこまで過酷だったので、中国では入国できなくても文句が言えない、と覚悟していた。だがあっけなく入国できて、米ドルを人民元に両替した後、タクシーで日航ホテルにすんなり向かうことができた。先進国じゃないか。
北京にはまったくツテがない。まずは天安門広場に向かう。3人とも初めてだ。広い。本当に広い。ただひたすら広がる空間に打ちのめされる。大陸的な夏の暑さだ。曇天の下、湿気も暑さも重くのしかかる。天安門広場に何万という市民が行楽のために集まり、雑談し、子供を遊ばせる。日焼けした顔は汗をかき、それぞれに逞しい。ファッションはまったく洗練されていない。いや、ファッションの概念がない。人々の声が大きい。やたらと元気がいい。いや、ギンギンだと言ったほうが正確だ。誰一人、英語は通じない。赤いモヒカンのドラマーが注意をひく。すぐに興味を持った人たちに取り囲まれ、一緒に記念撮影をしてくれ、と手招きで求められる。南北に縦断するには距離が遠すぎたので、東西に横断してみた。座れるところに座って、ビデオカメラで2人をインタビューしていると、携帯電話を持った黒髪にサングラスの若い女性が2人の間にちょこんと座った。カメラを向けていても平気で向こうの誰かと会話している。人見知りせず、やたらと明るい。
その夜、日航ホテルの中にある高級レストランで英語付きのメニューから注文した。日本の中華料理屋で見たことのないアイテムばかりだった。「鳩の丸焼き」があったので、迷わずに注文する。本当に頭もついた鳩が運ばれてきた。しかも、うまい。頭の部分を記念撮影して、頬張った。カリカリに焼けていたので違和感なく食べられた。ぐっすり眠れた。
翌日の夜、北京の「ホリデイ・イン」ホテルに楽器を持って参上した。誰も知らず、アポイントメントもなかった。共産国の中国で事前にライブ演奏の手配をしようとすると、必ず政府の監視役が付く、などの情報を東京で中国人タレントから仕入れていたので、これは完全にゲリラ、場当たりで行くしかない。
アメリカ人にとってホリデイ・インほどアメリカンなものはない。そこには中国に滞在するアメリカ人も宿泊する。したがって、ぶっつけで演奏許可を申し出ても実現する可能性が高い場所であると思われた。ホリデイ・インのレストランにはライブ演奏があり、レストランの端に小さなステージが設けられている。演奏する中国人のバンドが一息ついた頃合いを見計らって、ギタリストと2人で話をしに行った。英語が通じる上、1時間後に演奏をしても良いことになった。なんでもやってみないことには、わからない。3人で大いに盛り上がり、客席に座ってドキドキしながら飲み物を注文した。テキーラ・サンライズを頼んだ。アメリカに近い味だった。
とうとうその時が来た。と思ったらベースアンプが、ない。キーボードとギターを1つのアンプに繋ぎ、ベース音はキーボードの低音の鍵盤から打ち出していたのだ。でも、手はあった。「DI」と呼ばれるダイレクト・ボックスを持っていたからだ。DIを通せば、そこからラインをミキサーに引いて、直接PAのスピーカーからベースを鳴らすことができる。一定の音量が出せるPAなら、ベースもそこから出力できる。DIから長いケーブルでミキサーの卓につなぎ、サウンドチェックをした。要領を得ない。何かの接触が悪いのか、あるいは担当者がミキサーの使い方をよくわかっていないのか。ベースのない状態でロックを演奏する訳にはいかない。ホリデイ・インのレストラン専属と思われるミキシング担当者がとうにモチベーションを失っている中、ギタリストと手分けして根気よく接続を試み続けた。
レストランの客の中国人が英語で抗議をしに来た。
「私たちは家族で、あなた達の美しい音楽が聞きたい。なのになぜ演奏が始まらないのか?」
「いや、こっちも演奏がしたいんです。ベースの音が出ないんですよ」
「さっきまでは音楽が鳴っていたではないですか?」
「さっきまではベースが鳴っていなくて、キーボードだけだったんです」
「いつ音楽が鳴るのですか?」
「ええと、もうすぐです」
その客の英語のアクセントは、中国から外へ出たことのなさそうな人工的なものだった。しかし流暢だった。国の予算で特別に訓練された役人かもしれない。というか、この国ではベースアンプを作るなり欧米から輸入するなりして、ドラム、ベースアンプ、ギターアンプ、キーボードアンプ、マイクとPAという手順でステージを組んでいないのか。そのちぐはぐさもさるものながら、
「美しい演奏が聞きたいのです」
と英語で懇願されているのも妙だ。いや、でたらめ過ぎて感動する。
音のことやミキサーのことも何もわからない、だが英語が話せる中国人の客が心配そうに横に立って傍観する中、接続チェックを続ける。その客の娘と思われるかわいい女の子がやってきて覗き込み、中国語で父親と盛り上がる。女の子は中学生だろうか。髪の毛を白いクシュクシュで後ろに束ねている。ドレスも白い。
ベースの音が鳴った。ミキサーの裏の配線が適当だったようで、つなぎ変えたら鳴った。暗がりの中でいじっているうちに鳴るのだから、ミキサーの設計は偉大だと思う。ステージに上り、暗がりの客に挨拶をする。ソウルで警察に踏み込まれた時の、あの日本語のカントリーを1曲歌った。真心を込めて歌った。拍手をもらった。そして、警察は来なかった。共産国の中国では文化も言論も厳しく取り締まられているはずだ。それなのに、日本語に規制はない。2度目に感動した。そのままワンセット、福岡でも小倉でも演奏した曲順で通した。英語は多分、一言も通じていない。我々も中国語を一言もわからない。ホテルの専属バンドは休みが取れて嬉しそうにしている。なんかもう、最高である。
翌日の夜、外交官が集まる高級バーやレストランが密集する「三里屯」という地域に行った。ギタリストが英語のパンフレットで見つけた情報だけを手がかりに。ホテルのフロントで紙に書いてもらった道順をタクシーに見せて連れて行ってもらった。西洋人と身なりの良い中国人が座るバーが数10メートルおきに並んでいる。北京の夜の空気は乾いているため、いい汗が流れる。それぞれにギターやベースをケースで持って歩いているのだが、しんどくない。バンドの音が鳴っているバーがあれば、突撃でアポイントメントを試みる。数件目でフィリピン人のバンドに交渉したら、ステージに上がらせてもらえることになった。
人間関係も大雑把で、交渉も素朴で、店員も客もリラックスしている。いや、だらっとしている。英会話が通じ、外国人に優しい。まったく想像だにしない中国がそこにあった。中国は今でも「鉄のカーテン」の向こうにあるはずだった。それなのにタイムカプセルのように「ホテル・カリフォルニア」をフィリピン人バンドが演奏し、ギターソロの部分は割愛してコード進行だけで強引に最後まで曲を進める。高校時代に富山県でタブ譜を見ながら懸命に練習したジョー・ウォルシュのあのソロが「ホテル・カリフォルニア」の生命なのに、そっくり、ない。それでも中国人客は西洋文化に接し、自由を感じ、酒に楽しく酔える。どんな手付かずの楽園なのだろう、ここは。
本当は「ホテル・カリフォルニア」の本チャン・バージョンをこの場で演奏して、客の度肝を抜いてやりたかった。しかし残念ながらその曲はレパートリーに無く、コード進行も複雑だったので放棄した。かわりにヤード・バーズの「トレイン・ケプト・ア・ローリン」を演奏した。これは日本では1980年代にシーナ・アンド・ロケッツが「レモンティー」という曲にアレンジしたナンバーだ。アルバム「スネークマン・ショー」に収録されており、何十万人の日本人が聴いている。ジミヘンの曲もオリジナルも次々と演奏し、ネタ切れとなる。ギタリストが別のバンドでやっていたオリジナルもおまけでやる。客はどの曲も、初めて聴く。というか、ここにはロックの文化が根を下ろしていない。カントリーにアレンジしたロックの曲であっても、ロックにアレンジしたカントリーの曲であっても、そもそもの元ネタを知らない以上、われわれ3人が演奏するのが初聴きのオリジナルということになる。拍手をもらい続け、エルヴィスにでもなったような気分だった。
万里の長城に行った。中国の漢字が何一つ読めず、言葉は勿論通じない。英語が話せるフロントに相談し、タクシーに交渉してもらって長距離料金を決め、何時間もかけて行った。北京の街の至る所を走る日本のダイハツ製タクシーより一回り大きな、汚くて黄色い車に乗る。ラジオが流れ、中国語のニュースやトーク番組の合間に、聴いたことのない節回しの音楽がはさまれる。助手席で移り変わる景色を見ながら、理解できない中国語の音だけを壁紙のように感じ取った。そのうち、3人とも寝ていた。
万里の長城に着く。夜店のような土産物屋が並んでいる。それ以外には喫茶店も食堂もない。石の階段をひたすら登る。長城はごっつい。中国人観光客ばかりだ。見晴らしはいい。でも、ただ壁が延々と続いているだけだ。これが中華世界の境界線だったのか。ここを匈奴が乗り越えて侵入し、中華帝国を駆逐したのか。史実を解説する中国語のパンフレットを物売りから買ったが、何も理解できない。印刷技術や紙の質が、清々しいほどにお粗末だった。
長城の麓でビデオカメラを回しながら、アメリカにいる友人たちにメッセージを録画した。このツアーに誘ったのに「都合がつかない」と断った奴がいる。そいつに向けたものだった。
「やーい、ばーか。地球の裏側だぞ。悔しかったらここまで来てみろー。おまえ、そもそも才能も根性もないんだよ! ファック・オフ!」
と悪態をつきながら、ふざけた。360度が中国の状態で何も分からない自分たち3人はカプセルの中で旅行をしているかのようだった。電気も220ボルトで変圧器を通さないと何も動かない。今撮影しているビデオも、おそらく中国のテレビにつなぐと画像がちゃんと見えない。日本や北米で使用されるNTSCというビデオの規格とも異なる。デジタル録音機もない。だが、名前も覚えられない料理は、めちゃうまい。ドトールのようなコーヒーチェーンもない。西洋風のホテルでコーヒーを注文するとネスカフェが出てくる。中国人たちはガラスの瓶にお湯を入れ、そこに茶葉をひたして中国茶を飲み続ける。長城のごつごつした道のりを歩くと、思い切り汗が流れる。しかし風が吹いてTシャツが乾くと、また喉が渇く。中国茶が体を循環して、細胞の一つ一つが掃除されていくようだ。
中国民航という航空会社のチケットで上海に移動した。席が空いたためという理由でいきなりファーストクラスに案内された。本物のファーストクラスだ。アメリカでも日本でも乗ったことがない。おれたちはひょっとしてロックスターなのではないか? アナウンスも接客もことごとく中国語で、わからない。身振り手振りで飲み物を注文した。スチュワーデス2名が興味を持って話しかけてきたが、中国語しか話せない。かわいい。相手の目をじっと見て、この言葉が通じないほのかな感情が永遠に続けばいいのに、と思った。おれの白人の父親はこうやって東洋人の母親に惚れたのかもしれない。あっという間に上海に着いた。
上海のチェックイン先は「太平洋大飯店」。タイピンヤンという発音で、それを言えばタクシーで通じるとフロントで言われる。日本から彼女を呼び寄せていたのだが、チェックインを拒否された。結婚許可証がなくてはならない、と譲らない。さすが共産国。ええいままよ、ともう一つホテルの部屋を取り、即金の人民元で支払う。夕方、彼女が空港からホテルに到着した時、自分だけの部屋に案内されて目を白黒させていた。モーリーは3人部屋から抜け出して彼女の部屋に移り、この国では非合法な非婚姻者同士のセックスを思い切り楽しんだ。彼女に覆いかぶさり、正常位だったが本当に気持ちよかった。ロックとセックスは相性が良い。
夜、バンドメンバー3人とモーリーの彼女はホテル・タイピンヤンの近くを散策し、勇気を出して言葉が通じないレストランに入る。北京で食べた「丸焼きの鳩」を追体験したくて、紙に「鳩」と書いて問い合わせる。店員は意味がわからない。もう一人の店員が出てきて相談したあげく、こちらのペンを手にとって「鸽子」と紙に書いた。日本の当用漢字にはない。メニューには「醉鸽」という項目があり、ずれた英語の印字で「Drunken Pigeon」とある。それを頼んでみた。
出てきたのは丸焼きではなく、冷たい蒸し肉の鳩。酒に浸してあり、苦いような、まずいような、なんとも言えない味がする。紹興酒でマリネになった肉を「酔っ払った鳩」と呼んでいるらしい。インスタントカメラで写真に撮る。一口食べて、その先は誰も手を付けない。注文した者の責任として、炒飯と共に残りを全部食べた。変な食感だった。中国産ビールを4人でどんどん飲んだ。
翌日の夜、上海のどこかにあるカラオケ・ステージのあるバーでブッキングされていた。日本で掛け合った中国人のツテだった。想像を絶するお粗末さだった。また、ベースアンプがない。ドラムセットのキックが壊れている。ギターアンプにベースを通し、マイクで拾い、ドラムはとりあえずそのまま使った。ショー・パブを見に集まった中国人のオヤジたちしか観客にいなかった。拍手は起こらない。こんなスペースを借りるために10万円以上を手数料で前渡ししていたことが、二重に悔しかった。悪い夢のような2時間を忘れるため、急いでホテルに戻る。
上海の3日目。日系資本の「ヤオハン」デパートに向かった。なぜかヤオハンの和田社長をモーリーの母がよく知っていたので、ぶっつけのお願いをしてもらい、演奏スペースをデパートの中に確保したのだった。グループ社長から直々の命令とあって、現地の日本人スタッフはうやうやしく出迎えてくれ、会場に案内してくれた。あらかじめ指定した通り、アンプやドラムセットが調達されていた。ベースアンプもちゃんとあった。ただし、会場は大型食堂の中だった。椅子をどけて食堂の中央にスペースを作ってくれていたのだ。日本に置き換えるなら、仮面ライダーショーをちびっこ向けに開催するぐらいの規模。しかし、日本人スタッフもバイリンガルな中国人スタッフも、やたら優秀で完璧な仕事ぶりだった。ありがたかった。
店内アナウンスを盛大に中国語で流してくれたおかげで、ものの10分ほどで家族連れの買い物客がどっと押し寄せ、階段も人で埋まる。バンドに人を近づけないようにする専用の警察官も数名いた。ローリング・ストーンズじゃないか。赤ちゃんを抱えたお母さんもいる観衆に向かって、どう考えてもオルタナでアンダーグラウンドなロックのサウンドを力いっぱいぶつける。万雷の拍手が起こる。演奏している3人で顔を見合わせた。何か、おれたちは今とてつもなく大切な歴史の瞬間に立ち会っている。そう思えてならない。モーリーの彼女はつけっぱなしのビデオカメラを客やバンドへと、交互に向け続けた。ディーヴォのファースト・アルバムのパンクな曲やレナード・スキナードの「スウィート・ホーム・アラバマ」を脈絡なく演奏し、親にも子供にも拍手を受け、アメリカを代表し、東西文化の交流史に誰も知らない1頁をここで書き添えているのだった。このヤオハンの奇跡は、3人の魂に刻印された。
この日、追っかけファンの女性が1名、東京から上海入りしていた。だが初めての海外旅行で中国語も英語もわからず、パスポートを紛失し、そもそもモーリーのライブ日程や会場さえ知らずに渡航していた。上海からJ-WAVEに国際電話で問い合わせればいいと思っていたらしい。地元の警察の助けを借りてパスポートを回収し、観光だけして日本に帰る。