モーリー・ロバートソンのBOOK JOCKEY【第8回】丸裸の魂とダイヤモンド

自分一人の革命

決定的な瞬間がやってきた。「STUDIO VOICE」だか「SWITCH」だかの自称おしゃれ系カルチャー誌に出入りしているアート・ディレクターに紹介され、
「モーリーさんの大ファンなんです」
から会話が始まった。
「モーリーさんの番組は全部聴いています。ぼくにとってモーリーさんは映画『いまを生きる』に出てくるロビン・ウィリアムスなんです」
モーリーは顔が火照るほどの怒りに固まりつつ、穏やかな笑顔でその文化職人の礼賛に応対した。
「いまを生きる」は原題が「Dead Poets Society=死んだ詩人の会」であり、1950年代の保守的な時代のアメリカで起きる物語だ。田舎の全寮制エリート校にロビン・ウィリアムス扮する文学の教師が赴任し、型破りの授業で生徒たちの固定観念を打ち砕いて、古典文学の奥に潜む情熱や生きることへの渇望、冒険心を教える。そこから話は悲劇的な方向に向かうが、映画の結末には感動が用意されている。

「ジャック・ケルアックのような」「ロビン・ウィリアムスのような」「坂本龍一のような」「ジョン・ゾーンのような」…本当に信じられない。なんで、何か「のような」存在であることが褒め言葉になるのか? それは相手が自分自身でよって立っていないとでも言わんばかりではないか? そこにはなんの幅も逆転の可能性もなく、変化はあり得ない。自然界に生きている鳥獣をわざわざ射殺し、剥製にしてあげくの果てには口元を人間のように笑った表情にして、ロナルド・マクドナルドのプラスチック人形と一緒に踊っているかのように加工するぐらい、グロテスクなことではないか? いっそ「チャールズ・マンソンのような」あるいは「アドルフ・ヒトラーのような」とでも自分の活動を形容された方が、褒め言葉として受け止めていたことだろう。ロビン・ウィリアムス扮する理想的で悲しい結末を迎える学校の先生が、芸術や知恵、あるいは生きる意味を授ける生きた教科書としてそこにいるんでしょうか? 「コカ・コーラ」と発言することすら許されず、「清涼飲料水」と言い換えさせられるNHK-BSの画面の中に?

やはりマスメディアは全部が全部、木っ端微塵にふっとばされた方がいい。原子爆弾のきのこ雲が代々木公園の上空に広がる光景と、爆風とガンマ線で瞬間的に黒焦げになったテレビ局員の被爆者たちが水を求めながら息途絶える地獄絵図を思い浮かべては、定刻通りにNHKの西口に入るのだった。ヒロシマ、ナガサキ、エヌエイチケイ。

彎曲わんきょくし 火傷かしょうし 爆心地ばくしんちのテレビ。

もう、続けられなかった。

あの明るく晴れ渡った夏の日の朝。空から死が舞い降り、世界は一変した。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示された。モーリーは空から「死」を降らせるのではなく、自分自身を見えない輝きにして降り注がせたかった。空からモーリーが降ってくる。それでこの間違いのすべてを終わりにしたかった。

1996年の3月をもって、芸能プロとの契約を解除。NHK-BS「エンターテインメント・ニュース」もクール終わりで辞めた。民放各局からも撤退。J-WAVEだけが残った。そのJ-WAVEは傷を負っていて、消極的にしか輝いていなかった。だが皮肉なことに世間はまだJ-WAVEのブランドに信ぴょう性を置いており、サテライト・スタジオや野外イベントには人が集まる。スタジオの防音ガラスの中から見るJ-WAVEは、ひどく色あせていたが。

テレビ出演をしたギャラが最後にまとめて振り込まれた。金200万円。バブル崩壊中の当時としても大きな金だ。銀行の普通口座に合計で350万円。そうだ、この金を一夜にして使ってしまおう。

最初の構想は吉祥寺のライブハウス「曼荼羅2」、そこと両隣の駅にあるライブハウスを深夜から明け方まで借り切ること。全部の会場を強烈なサウンドのバンドで埋め、入場無料で誰もが巡回できるカーニバルをやることだった。1件のライブハウスに経費とギャラで50万円払ったとしても、同時に4件オールナイトでやれる。ビールの瓶を片手に一つの箱から次の箱へと散歩できる。仮装行列も加わったら、一夜だけ中央線沿いを解放区にできる。半日ほど、こんな光景を思い浮かべて興奮した。

次に考えたのが、三日三晩、高級な録音スタジオに篭り、腕の立つミュージシャンたちを呼んで大セッションをすることだった。最先端の録音機材で即興演奏を収録し、カセットにダビングしてそこら中にばらまく。著作権も放棄する。著名なプレイヤーがいても、誰がどこで演奏したかクレジットは表記しない。

一巡して、かつてないアルバムを録音する案に達した。サンフランシスコに旅行した1週間の間、ホテルの部屋から電話帳を元にいくつかの録音スタジオに電話し、訪問もした。日本に比べてべらぼうに安い相場だった。サンフランシスコ郊外の大学の街、バークレーでアルバムを収録する、と即決した。おれが音楽を変えてやる。

J-WAVEに対して、
「どうしても5月に1カ月間の休暇が必要だ。番組を事前収録していきたい」
とねじ込み、押し通した。小さなスタジオで昼間に2本番組を収録し、深夜に生放送でしゃべる。続けてたくさんしゃべり過ぎてトークの味が落ちたのが、自分でもわかった。でも気にせず、大急ぎでアルバム収録の準備を進めた。

モーリーは大学生の時代からベースやギターを弾いていた。バンドで弾くこともあったし、一回限りのセッションで演奏することもあった。ライブでも即興性を重んじ、究極の即興についてこられるミュージシャン達とだけ親交を持った。ジャズでさえ、モーリーにとっては規則に呪縛された音楽だった。メロディー、和音構造、不協和音、リズムそれぞれが一斉に空中分解と集合を繰り返すような「呼吸」、つまりエントロピーがあってこそ、本当に音楽と呼べるものだ。作曲家ジョン・ケージから、音楽のアナーキズムを直伝されていた。「Across The View」のギャランティーで特注のモジュラー・シンセサイザーも作らせていた。とにかく、誰も思いつかないような音楽を志し、世界に数人しか演奏できない型番のモジュラー・シンセを操って、芸術的な不協和音を奏でていたのだった。

本当に無理をしてギター、ベース、リズムマシン、ギター・シンセサイザー、モジュラー・シンセを東京からカリフォルニア州のバークレー市へと一人で運んだ。4週間、朝から晩まで借りきったスタジオ「Digisonic」に入り浸る。1980年代を通して共に音を出し続けたドラマーとギタリストが近くに住んでいたので、交互に呼んだ。昼食時には付近のベジタリアン系レストランやカフェを巡回し、とにかく録音しまくった。日本で40万円出して買ったばかりのアップル製「Mac IIci」や新品のパワーブックも持参。インターネットはまだ普及していなかったが、リズムマシンの音をどうにか「Mac IIci」に取り込んで最先端のソフトウエアで加工し、その不思議な音を曲に流し込んだ。この全過程が手作業だった。

東京でラジオ番組をやっていたことも忘れかけるほどに没頭していたある日の午後、いつも温暖なバークレーの空に黒雲がにわかに立ち込め、バラバラと砂利を落とすような大きな音が聞こえた。ひょうだった。ほんの2分間ほどだったがモーリーはスタジオから庭へと飛び出し、芝生の上に跪いて空に向かって両手を挙げ、その様子をエンジニアにインスタントカメラで撮影してもらった。写真それ自体はあまり良い出来ではなかったが、にわかに発生した異常気象に心の底から喜んでいる表情が写っている。空からモーリーが降ってきたのだった。

どの曲も通常のポップスやロックとは全く異なる、その場限りのオリジナルな手法で収録した。古い体育館を使ったスタジオでドラムを録音した時、キックドラムは異常に低くチューニングされ、しかもキックから録音マイクが離れすぎていた。通常なら「使いものにならない」失敗作のテイクだが、モーリーはこのテイクを素材として加工してもらい、どこか物足りないがどこか凄まじさを帯びたドラムトラックが入った曲へと磨いていく。

歌も歌った。元々歌手ではないが、気合いと真心で「あっちの世界」から聴こえてくるような、裸の歌声になった。やってやって、やりまくれ。歌詞も録音テイクの合間に書き換え、同じ曲でいくつものバージョンを録音。こうして4週間、バークレーのスタジオで録り続けた自主制作は、期日ぴったりで完成した。このアルバムは徳間ジャパンからのリリースが決まっていた。

達成感に胸を高鳴らせ、サンフランシスコからの直行便で成田に降り立つ。東京に向かう成田エクスプレスも新鮮に感じられ、J-WAVEで初めて番組をやり始めた頃を思い出していた。やり直せる。そう思って東池袋に戻る。次の日の夜、まだ時差ボケが治らないまま、再びJ-WAVEのスタジオに戻った。モーリーはスタジオのブースの中で、いきいきとトークした。だが防音ガラスの向こうに目をやると、ディレクターもADもエンジニアも疲れた表情だった。深夜の労働に疲れ、上からの歪んだ商業主義的な指令に疲弊している。誰も上に「ノー」と言えない。彼らの頭上に雹が降ることはない。このスタジオから新しいものが生まれることは望めない。

ならば自分一人で革命を起こそう。なんだってできるし、不可能なんてない。最初に「全部使ってしまえ」と思った汚れたテレビの金は200万円余り。すでに300万円ほどの出費に達していた。だがJ-WAVEの金はいいし、日常生活ではほとんど買い物をしない。テレビに出なくなったので、毎日がTシャツとジーンズの着回しで足りる。声と選曲でしか勝負していない。またすぐに取り返せる金額だ。もっともっと行ける。そうだ、アメリカからバンドのメンバーを呼び寄せてツアーをやろう。

何もかもがマニュアル通りにしか進まないのが日本人の弱点だ。「反エントロピー文化」と呼んでもいい。前もってサプライズを排除しすぎるため、最終的にまったくおもしろくない結果がもたらされる。それでいてそのつまらない結果は、そつがない。そつがないのでスポンサーに褒められる。結果、すでに売れたことがある何かに類似したものを最初から目指せばいいことになり、何もかもが似通ってくる。哀しいことに、そんな「もどき」の結果にスポンサーが安心し、「もどき」こそが金銭的にも社会的にも成功する。その環境の中でクリエイトを試みる人間は、魂が死ぬ。思っているよりも早く、死ぬ。だが自分はまだ生きているつもりなので魂だけが体を半分抜けだした状態でそのへんをさまよい歩く。絶対にそうなりたくはない。

全部をサプライズにする。思いつきでブッキングをする。知り合いと知り合いの知り合いに電話をした。渋る相手に対しては、長電話でくどいた。ちゃんとした音が出せるライブハウス、アンプやPAを外から持ち込まなくてはならないコンクリート打ちっぱなしのスペース、行ったことのない街のライブハウス、ほか。行けば、なんとかなる。

東京、大阪、広島、福岡、北九州、長崎。ツアー日程が埋まる。アメリカからまる1カ月間、ドラマーとギタリストを呼び寄せる手配をする。ホテル、航空券、鉄道チケット、1カ月分のギャラの準備。少し金額を上乗せすれば日本全国をグリーン車で移動できる外国人向けのチケットが販売されていたので、そっちにした。すでに毎日が遠足のようだった。さらに思いつきで、韓国のソウルでもライブを入れることにした。日本まで来てソウルに行かないのは、おかしいからだ。
自分で想像できる限界を超えなくては、本物じゃない。業界で知り合った中国人に頼んで、上海でもブッキングをしてもらった。本来なら韓国でも中国でも、演奏するためには正式な芸能ビザを申請する必要がある。そんなことをするつもりはない。人脈とアドリブでぶつけてみて、乗り切れればいいということにした。何十本かの電話をかけ、いろんなミーティングへと飛び回った。全部、自費でやる。その合間に「Across The View」にも出演し続け、ツアーをやる話を自己宣伝した。現状のJ-WAVEでは以前のような品位の高い番組に戻ることは望めない。番組を私物化してでも、新たな方向性を打ち出せばいい。この番組から生まれたプロジェクトで中国まで行って演奏したら、万々歳ではないか。

ドラマーとギタリストが東京に来た。ドラマーはニュージャージー州の工業地帯の出身。いつもの仕事はコピー屋店員。全身にタトゥーを入れ、耳にもベロにも乳首にもピアスを入れたモヒカン頭だ。しかもモヒカンは赤く染めてある。ドラミングはワイルド。酒が好きで、成田空港についてすぐに日本産の缶ビールを開け始めた。ギタリストは医療機関に勤務するハーバード卒のメキシコ人ハーフ。テキサスで生まれたが、兄弟が4人だか5人いる。その全員を離婚した母がシングル・マザーとして育てた。同居する母は白人で、別れた父はメキシコ系アメリカ人の歯科医。独り身になった父親の女遊びが激しいことをギタリストは心底軽蔑していた。そのくせ、行く先々でなぜか自分も初々しい女性たちと出会っては、短い恋愛を繰り返すのだった。カントリーサウンドのギターもパンクも両方弾ける、マジックを持ったプレイヤーだ。顔にはニキビの痕があちこち残っているが、いたずらっぽく知性をたたえた目によってチャームポイントへとすり替わっていた。ろくでなしが2名アメリカから到着し、合わせてろくでなしが3名。翌日から練習スタジオに入り、ツアーのための音作りを始めた。もう、乗り乗りだ。

昼間はバンドで音出し。夜はJ-WAVEで番組を私物化。もちろん、このバンドのツアーの話ばかりをしていてはリスナーに飽きられるので、とびきり面白い番組になるよう心がけた。深夜の生放送なので、スタジオまで同行したメンバー2人は来て出番がない間、退屈する。ドラマーはひたすらアサヒ、エビス、サッポロとビールの缶を順繰りに開け続け、日によってはギタリストもそこにジョインする。あまり酔っ払わないうちに喋らせないと、ろれつが回らなくなる。リスナーは英語ネイティブではないが、おそらく声のトーンなどでバレるだろう。番組の前半に出てもらうように気を使う。終わった頃には2人ともソファで寝ていたりした。

いよいよ初回のライブで広島に行く。前の日の夜に入り、ホテルに宿泊。チェックインをした直後、どういう偶然か、高校の時に付き合っていた女性が通りかかって、声をかけられた。ぎょっとした。この子に関する描写は自叙伝にも盛り込んだ。二股をかけた相手だ。着物を着て赤いスポーツカーを運転している。これから水商売のアルバイトに向かうと言う。店が終わった後で話さないか、と誘った。断られた。電話番号ももらえなかった。

かつて自分が不良とされた頃、ひっきりなしに歩いて往来した広島市の中心街に「本通り」がある。その本通りの一番端にライブハウスがあった。靴を脱いで上がる店だったのでパンクでもロックでもなかったが、PAやアンプは新しかった。夕方にサウンドチェックをし、近くで天丼だかカツ丼だかを食べた。このライブの噂を聞きつけて、昨日通り過ぎたあの子や地元の若者が来るだろうか? いろいろ想像した。

演奏時間が来た。20人ぐらいだろうか? いや、それ以下だろうか? 福岡から応援で出てきてくれた知り合いもいるが、なんかえらく物足りない。国際ツアーで、しかも広島出身のこのおれは東京ではかなりの有名人で、今、故郷に錦を飾っていて、輝かしいオルタナティブなロックなんですけど。イメージしていたのと、違う。高校時代に付き合っていたあの子も、いない。

とにかく演奏した。アガっていた。頭の中では、自由自在に即興するロックとパンクと前衛の混合体をイメージしていた。それなのに思ったよりも少ない観客で、しかも練習スタジオにいた時に比べて指が思うように動かない。即興を試みるが、どっちかというと進行通りに前に進んでしまい、曲がすぐ終わる。クリエイティヴィティーが金縛りにかかっているのだ。J-WAVEは確かに関東ローカルのリーチしか持っていない。関東地方でもドライブして山に入ると電波が途切れるという話は、聞いていた。山陽地方のここ、広島でモーリー・ロバートソンの伝説はすでに事切れているのだろうか。ステージの上で悩んでも、もう遅い。演奏し続けるのみだ。歌を歌いながらベースを弾く。息が切れるのがいつもより早い。どうなっているんだ? もがいてもがいて、セットの終わりに近づく。客が少ないので、拍手をもらっても「少ない」ということしか意識できない。

ずっと、スタジオの中にいた。バークレーの録音スタジオ、J-WAVEのスタジオ、東池袋の練習スタジオで密室を渡り歩き、無意識にその空間に自分自身をチューニングしてしまったらしい。実際の観客と向き合った時に、間合いがつかめない。「ベシャリ」のスキルと演奏のスキルは種類が違う。そんなことに今頃、ステージの上で気づく。モーリーのアガった気配がまずギタリストに、次いでドラマーに伝染する。全体にぎごちない。なんだこりゃ、というままに最後の曲に来てしまった。生温かい拍手に包まれて終わる。期待していた熱狂ではない。ステージの上にいる自分たち自身が熱狂できていない。何が間違っているんだ。考えても仕方ない。

演奏が終わった後、初対面のファンと話すのが苦しかった。J-WAVEが届かないこの地方都市で、とても高いハードルを越えて来てくれたことはありがたいし、嬉しい。ただ、本領を発揮できなかったライブの直後にファンサービスで世間話をするのだけは、まじで辛い。知り合いを含め数人で打ち上げをした。ドラマーは日本酒をとっくりで飲んだ。ギタリストもドラマーも、モーリーの焦りには無頓着だった。

翌日、福岡に移動した。地元のバンド「パニック・スマイル」と合流するためだ。広島と九州全般のブッキングはこのバンドにお願いというのか、丸投げをしていた。以前、別のバンドで熊本に行った時に一緒にライブをやって以来、意気投合していた。形のある謝礼を約束しているわけでもないのに、兄弟杯を交わしたぐらい慇懃に面倒を見てくれる。九州の人間はこんなに律儀で情が厚いのだろうか? それを考える暇もないほどに一つのライブ会場から次のライブ会場へと一緒に飛び回った。

天神、小倉、長崎…広島で出鼻をくじかれたモーリーは、何かを取り返そうと焦っており、それが日本人的な出方をして、やたらと時間通りに進めることにこだわり始めた。ギターの弦が切れると、すぐに楽器店に行かなくては気がすまない。2度続けてライブで同じミスを犯すと、ミーティングをしなくてはいけない。どんどん神経過敏の境地に向かっていく。一方、ギタリストもドラマーものんびり楽しんでいる。英語がまったく話せない「パニック・スマイル」のメンバーと仲良しになり、移動する車の名でふざけっこをする。でも、こんなにだらだらやっていたら、ステージの上でも締まりがなくなってしまうんじゃないのか…

とうとうモーリーはテンパッて爆発した。ドラマーが退屈して、アサヒ・スーパードライの2リットル入りのミニ樽を片手でぶらぶら持ちながら小倉市の商店街を練り歩き、下校中の女子中学生の集団に近づいてちょっかいを出したからだ。ピアスの入ったベロを見せて、
「アイ・ラブ・ユー!」
と近寄る。女子中学生たちは身を寄せあって逃げる。
「ばか! だめだ、それは! 相手は未成年なんだぞ!」
「そんなこと知るか、何歳だってファックしてやるぜ」
「ばか! やめろ!」
ふざけるドラマーを引き止めながら、驚嘆する女子中学生たちに向かってすみません、すみません、と頭を下げた。その後、怒りのあまりにドラマーに口も聞けなくなってしまい、数時間、目を合わせることがなかった。夕方になってドラマーが、
「なあ、せっかくのツアーなんだから、楽しくやろう。おれが求めているのはそれだけだよ」
とモーリーをハグした。するとモーリーはとめどなく涙が溢れ、向こうを見つめながら、
「うん…」
とだけ返事をした。その夜から音が良くなった。

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