【連載お仕事小説・第3回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第3回。主人公の七菜(なな)は、毎日仕事に全力投球! 緊張が走る現場の雰囲気も意に介さず、スナック菓子をむさぼる後輩に、七菜の怒りが爆発! 叱り飛ばそうとしたそのとき、レシーバーから頼子の声が……! ストレスにも負けず、切り替えて仕事を全うしようとする七菜の姿に、仕事へのやる気をもらえること間違いなしです。

 

小岩井あすかの空腹により緊張が走る、テレビドラマの制作現場。主人公の七菜(なな)は、テレビ局の下請け制作会社のAP(アシスタントプロデューサー)。息苦しい空気も意に介さず、スナック菓子をむさぼる大基に七菜の怒りは頂点に…! ストレスと戦いながら働く七菜も、頼子が作る「ロケ飯」でリフレッシュ。束の間の休息もあっという間に過ぎ去り、気持ちを切り替え、次の仕事に奔走する七菜だった……。

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

 

【本編はこちらから!】

 

階段を上がった先はスタッフであふれていた。
撮影現場の会議室が狭いため、なかには矢口監督始め数名のメインスタッフしか入れない。それぞれのチームの助手は、廊下に設置されたモニタを囲んで待機している。囲みの外側に立つ李生を見つけ、七菜は音を立てぬよう近づいて囁きかける。
「いまは?」
「シーン8、テスト中」
モニタから目を離さずに李生がこたえる。頷いて七菜もひとびとの頭越しにちいさなモニタを見つめる。
画面には並んで座るあすかと一輝が映っている。ふたりと対面するように女性と男性の中年俳優がひとりずつ、神妙な面持ちで座っていた。その後ろ、壁際に沿って数人のエキストラが立っている。
女性俳優が口を開く。
「ほんとうにありがとうございました、新藤(しんどう)先生、環子先生。先生方の助けがなかったらうちの子は……」
一樹がゆっくりと手を振る。
「いえ、ぼくらはなにも。ぜんぶ(ふう)()くんの実力ですよ」
「ここに、このさくら塾に出会えて……あの子は幸せです」
男性俳優がそっと傍らの共演者の肩を抱く。女性俳優が目頭を押さえた。背後に並んだエキストラが次つぎに頷く。
カメラが動き、あすかと一輝の顔がアップで映る。ふたりが目線を合わせる。穏やかにほほ笑む一輝。その笑顔を受けて、すこし恥ずかしげに、けれど晴れやかな笑みを顔じゅうに浮かべるあすか――のはずだった。少なくともト書きでは。
だがカメラの向こうのあすかに笑顔はない。
いや本人は笑っているつもりなのだろう。口角が上がり、真っ白できれいな歯がくちびるのあいだから覗いている。けれども眉間に浮かぶ(しわ)が、なにより尖った目もとが、あすかの本心を如実に表していた。
「カット。テストOK」矢口監督が告げる。「ちょっと明かり、こっち寄せよう」
「あいよ」
照明監督の諸星(もろぼし)(やす)()が、巨大な腹を押さえながらわずかなすき間にからだを捻じ込み、機材の位置を変える。ヘアメイクの愛理がすかさずあすかに走り寄り、前髪を整え、頬に白粉(おしろい)をはたく。
その間、ずっとあすかは無言だった。
あすかの「()(はく)」に押されるように、ほかの出演者たちの顔も硬い。あるものは(うつむ)き、あるものは台本に目を落とすふりをしている。大先輩である一輝すらも両目を固く閉じ、腕を組んで、この息苦しさから逃れようと試みていた。その緊張感はスタッフにまで伝染し、みな息すら殺して必要最低限の作業をこなしている。
まずい。これはまずい。七菜は焦る。このまま本番を迎えてはならない。頼子さん、がんばって、お願い。
と、がりっぼりっ、なにかをかじる派手な音がし、同時に焼きそばのソースの匂いがあたり一面に漂う。
あすかの目が、かっと見開かれた。
誰!? こんなときに!?
七菜を始め全員が匂いの出どころへさっと視線を向ける。
大基だった。モニタの真ん前に立った大基が、包装を()いた棒状のスナック菓子を無造作に噛み砕いていた。集まった視線を気にすることなく、大基は菓子をかじりつづける。
「ちょっと平くん!」
七菜はスタッフを掻き分けてモニタに近づき、大基の腕を掴んで輪のなかから引きずり出した。
「なんですかぁ」
菓子を手に持ったまま、(のん)()に大基がこたえる。
「なにやってんの、こんなときに」押し殺した声で質すと、
「腹、空いちゃって。あ、時崎さんも食べます?」
悪びれたようすもなく、大基がポケットに手を突っ込んだ。あわててその手を押さえる。
「場をわきまえなさいよ、場を」
「は? 場?」
きょとんとした顔で大基が復唱した。七菜は天を仰いだ。どうやらなんの他意も疑問も持っていないらしい。
スタッフの視線がふたりに突き刺さる。モニタ越しに、あすかの顔がどんどん険悪になってゆくのが見える。ふだん温厚な矢口監督までが、会議室からすがたをあらわし、(とが)めるようなきつい目でこちらを睨んでいた。
「いいからちょっとこっちに」
焦った七菜は掴んだ腕にちからを込め、大基を廊下の端へと引っ張る。
「痛い、痛いですよ時崎さん」
「静かに! あのねぇあんたねぇ」
抑えようとしてもどんどん口調がきつくなってしまう。揉み合うふたりのもとに李生が走り寄ってきた。
「時崎さん落ち着いて。怒っちゃだめっすよ」
「そうですよ、たかがお菓子ひとつで大人げないですよ」
ぶちん。大基のひと言で七菜の理性が音を立てて切れる。叱り飛ばそうとしたそのとき、
「お待たせ! お昼の用意ができました」
装着したレシーバーから頼子の明るい声が響いた。その場にいたスタッフ全員の顔がぱっと明るくなる。すかさず助監督が会議室のなかに駆け込んだ。
「お昼できました! このシーン終わったら昼食休憩に入ります」
あすかの表情が見る見る和らいでゆく。救助船を見つけた漂流者のように、キャストに、そしてスタッフのあいだにほっとした空気が流れた。会議室に駆け戻った矢口監督がすかさず叫ぶ。
「シーン8、本番!」
「本番行きます!」
各スタッフが復唱し、間に髪を入れずカチンコが切られた。
先ほどまでの険悪な表情が一変し、あすかが生きいきとした顔を取り戻す。
シーンラスト、あすかの輝くようなとびきりの笑顔がアップでモニタに映し出され――
「はいカット! シーン8OK」
矢口監督の、満足そうな声が響いた。

「お、今日は牡蠣のチャウダーですか。美味そうですねぇ」
プラスチックカップに注がれた熱々のチャウダーを見て、諸星照明監督がまん丸い顔をほころばせる。
「げ。おれ牡蠣だめなんだよ、一度あたっちゃってからさ」
後ろに並んだチーフカメラマンの田村が、いかつい古武士のような顔に似合わない気弱な声を出した。
「そういうひともいるかと思って、あさりも用意しました」
柔らかい笑みを浮かべた頼子が、七菜の受け持つ鍋を指す。
「ありがたいね。あさりは大好きだ。あ、けどもしかしてこっちは七菜坊が作ったとか」
頬を緩めかけた田村が、警戒心の混じった声を出す。
「だいじょぶですよ、どっちも頼子さんの手作りだから」むっとして言い返すと、
「そりゃよかった。頼子さんと七菜坊じゃ天と地ほども味が違うからな」
悪戯っ子のような顔で笑い、カップを受け取った。
弁当とカップを持ち、控え室である和室に歩いていく田村の背中を目で追いながら、七菜は口を尖らせる。
「ったくもう、田村さんは……」
「いいじゃないの。七菜ちゃんを可愛がってるしるしよ」
頼子が穏やかな声でなだめた。
「可愛がってるんだか、遊ばれてるんだか……」
不満顔のまま、七菜はカップにチャウダーを注いでゆく。
この()(ぐみ)最年長の六十八歳であり、照明の諸星とともに矢口監督の女房役でもある田村は、確かに口は悪いし態度もぞんざいだが、まだ新人だったころからなにくれとなく七菜の面倒を見てくれている、いわば大恩人だ。それにしても七菜だってもう五年選手だ。七菜坊はないだろうとどうしたって思ってしまう。
七菜の隣では、次から次へとやってくるスタッフに李生と大基がロケ弁当を配っていた。休憩時間は短い。七菜もとりあえず給仕に専念する。
ようやく列が途切れたのを見計らい、七菜は頼子に声をかける。
「ちょっと控え室のようす、見てきていいですか」
「うん、お願い。佐野くん、七菜ちゃんと代わって」
「ういっす」
おたまを李生に手渡してから、七菜は廊下を横切り、和室へと向かった。
八畳の和室は、座り込んで弁当を使うスタッフでいっぱいだ。七菜はぐるりと部屋を見渡す。
押し入れの前に一台だけ置かれた長机で、あすかがひとりで食事をしていた。一輝のすがたはない。すでに食べ終わり、煙草でも吸いに外へ出たのだろう。
あすかの横には空になった弁当箱がふたつ。どうやら早くも三つめに取りかかっているようだ。七菜はスタッフのあいだを縫うようにして、あすかに近づいてゆく。
「いかがですか、今日のチャウダーは」
「まじやばい。いくらでも食べられそう」
弁当から顔を上げたあすかが、上気した顔でこたえた。
「お代わりありますから。もう好きなだけ食べてくださいね」そうして夜までなんとか持ちこたえてね。後半はこころのなかだけでつぶやく。
給湯室に戻ると、頼子がひとりで鍋の番をしていた。
「佐野くんと平くんは?」
「おおかた片づいたから、さきに食べてくるよう言ったの。わたしたちも食べちゃおうか」
「はい」
弁当を流しの脇に置き、立ったまま七菜はまず頼子お手製のチャウダーにスプーンを差し入れ、熱々のそれを口に含んだ。
野菜や牡蠣の旨みをぞんぶんに吸ったクリームは滑らかで、とろりとした食感を残しつつ喉を滑り落ちてゆく。溶ける寸前の玉ねぎやじゃがいもが、けれどちゃんと歯ごたえを残していて、噛むと野菜の甘さが口のなかいっぱいに広がった。挽きたての黒胡椒に生の葉を刻んだバジルが優しい味にアクセントをつけてくれる。
ああ。なんて美味しいんだろう。
七菜は夢中でチャウダーを(すす)る。あまりに急いで飲み込んだため、舌先をちょっと火傷してしまった。
隣では頼子がチャウダーだけを抱えて床に座り込み、七菜の食べるようすを嬉しそうに見つめていた。
「あれ。頼子さん、お弁当は」ひと息ついた七菜が尋ねると、
「いい。ダイエット中だから」頼子がこたえる。
「ええー必要ないでしょー」
長身でほっそりした頼子を見下ろす。
「最近歳のせいかお腹が出てきちゃって。ジムでも行ければいいんだけどね」
顔を(しか)めた頼子が下腹を摘まんでみせる。
「ないですよね、そんな時間」
七菜もため息をついた。
若いころはどんなに食べても飲んでもちょっと節制すれば簡単に落ちた体重が、三十を過ぎたあたりからまったく落ちなくなっている。自他ともに認める童顔で小柄、ややぽっちゃり体型の七菜にとってもダイエットは死活問題だ。
「そういえばさっき、上でなんだか騒いでたけど、どうしたの」
チャウダーを掬いながら頼子が尋ねる。
「それがですね」
かいつまんで先ほどの大基の行動を伝える。話し終えると、頼子が眉間に皺を寄せ、こめかみを指で押さえた。
「困ったものね、平くんには」
「ほんとですよ。あと少しで怒鳴りつけちゃうとこでした」
大基の捨てぜりふが脳裏によみがえり、思い出し怒りがふつふつとわいてくる。
「だめよ、叱ったり怒ったりしちゃ。まだ研修中なんだし、すぐに『辞める』って言い出すからね、いまの子は」
「はい……」
そうなのだ。去年バイトで入った若い男子も、ちょっと叱っただけですぐに辞めてしまった。しかも「辞めます」のメールたった一本で。
「いわゆるさとり世代、なんですかねえ」
「叱られ慣れていないんでしょうね。根気よく育てていくしかないわね」
育てていく。あの大基を。考えただけで気が遠くなる。
「小岩井さんの胃袋にもちょっと参っちゃうけどね」
頼子がつぶやく。七菜は大きく頷いた。
「まさかあんなに大食いで、しかもお腹が空くと人格変わっちゃう子だとは思いませんでした」
小岩井あすかは超人気アイドルグループ出身の若手女優だ。小顔で、折れちゃうんじゃないかと思うくらい細いからだをしているのに、食べる量ときたら成人男性の三倍、いや四倍はあるだろう。今回のドラマで組むまで、さすがの頼子も七菜も想像だにしていなかった。
「基本、いい子なんだけどね。明るいし素直だし、プロ意識もしっかり持っているし」
取りなすように頼子が言う。
明るくて素直。それは確かだ。けれども。
「ちょっと天然ですけどね」七菜はぼやいた。
「そう?」
「だって顔合わせのとき『時崎さん、七菜って言うんだ。うちのわんちゃんと同じ名前だあ』って言われたんですよ。犬と一緒にしないでくれっつーの」
七菜のことばに頼子が大きな声で笑う。と、愛理が給湯室にひょいと顔を覗かせた。
「ロケバス来たよ。悪いけど七菜ちゃん、手伝ってくれる?」
「あ、はい」
弁当の残りをチャウダーで流し込むと、七菜は給湯室を出、愛理のあとを小走りでついていく。公民館の正面玄関につけたロケバスから、子役の小中学生と、付き添いである母親たちががわらわらと降りてくるところだった。
「まず中学生からやっちゃおう。七菜ちゃん、ちびちゃんたちに顔洗わせて、化粧水だけ塗っといてくれる?」
「了解です」
七菜が頷くと、愛理は中学生数人を連れて奥の六畳間に先導していく。残った小学生たちは、すでに子犬のようにじゃれ合い、廊下ではしゃぎ回っている。
食事を終えたスタッフが動き出す。あちらこちらで打ち合わせの輪ができる。子どもたちの話し声に母親たちの甲高い笑い声、負けじと大声で段取りを確認し合うスタッフの声が重なり、公民館一階はもはやカオス状態だ。
大きなうねりのように現場が立ち上がっていく感覚を七菜は全身で感じ取る。
今日は夜までみっちり撮影が詰まっている。がんばらなくちゃ。
ぱんぱんと両手で軽く頬を叩き、七菜は気合いを入れ直した。

 

【次回予告】

長い1日を終えてやっと訪れた束の間の休息。自宅に帰ると無造作に置かれた男物の革靴が……?

〈次回は2月7日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

<中澤日菜子の「ブラックどんまい!」連載記事一覧はこちらから>

初出:P+D MAGAZINE(2020/01/31)

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