主人公・七菜を襲う大ハプニング! その対応は吉と出るか、凶と出るか!? 恋人・拓との関係とブラックな仕事との間で七菜の悩みは尽きない……。【連載お仕事小説・第8回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第8回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 絶対的存在の原作者・上条朱音の登場でピリピリした空気が張り詰める撮影現場。その緊張感をさらに煽るかのように、突如起こった大ハプニング! 七菜は切り抜けることができるのか……!?

 

【前回までのあらすじ】

怪訝な顔で主演女優の小岩井あすかに対する不満を並べ立てる、ドラマ原作者・上条朱音の姿に、その興味をあすかから逸らせようと必死になる七菜。特製の生姜湯でもてなすと、幸い朱音は上機嫌になるが、なんとその時、七菜の目に止まったのは……!? 

 

【今回のあらすじ】

ドラマ原作者・上条朱音に、最大限の気を遣い、もてなす七菜たちスタッフ。そんな時に、朱音のコートの肩に鳥のフンが……! 甲高い悲鳴を上げ動転する朱音。七菜は咄嗟にじぶんのダウンジャケットを脱ぎ、朱音に渡す。ヘアメイクの愛理の力も借りながら、窮状を乗り切ろうと奮闘する七菜だが……。
 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

 

【本編はこちらから!】

 
 勇気を振り絞って七菜は朱音に声をかけた。
「あの先生、お召しものの左肩になにか……」
「え?」
 ひょいと左に顔を向けた朱音が、甲高い悲鳴を発した。その場にいるスタッフ全員がさっとこちらを見る。
「なに、なにこれ!?」
 反射的に朱音が汚れに触ろうとする。七菜はあわててその手を掴んだ。
「触っちゃだめです。たぶん鳥のフンかと」
「鳥の!?」
「先生、とりあえずコートをお脱ぎください。すぐになんとかいたします」
 言いながら七菜はじぶんのダウンジャケットを脱ぐ。朱音の脱いだコートを受け取り、かわりにダウンを渡した。
「こんなもので申し訳ありませんが、ないよりはましかと思います。お羽織りになってください」
 さすがの朱音も動転したのだろう、素直にダウンの袖に手を通した。
「すこしお借りしますね」
 コートを手に持ち、七菜はスマホに「鳥 フン 洋服 処理」と打ち込んだ。出てきた検索結果のひとつをタップする。ざっと目を通してから、七菜は公園のトイレ目指して駆け出した。
 手洗い場に駆け込むと、スマホの指示に従い、まず乾いたティッシュでフンを摘まむようにして取り除く。これで固形状の汚れは取れたが、生地に広がったシミがまだまだ残っている。七菜はスマホをスワイプした。
『つぎに液体せっけんなどでシミの周辺から中心に向かって叩くように拭きます』
 液体せっけん。手洗い場を見回すが、公園のトイレにそんな気の利いたものなど備えられてはいない。
 せっけん。洗顔料――七菜はぱっと顔を上げた。
 愛理さん! ヘアメイクの愛理さんならきっと持ってる!
 トイレを飛び出し、愛理のすがたを探す。すぐに心配そうな顔でこちらを見ている愛理と目が合った。
「愛理さん!」叫んで、愛理のもとへ走る。
「どうしたの七菜ちゃん」
「先生のコートに鳥のフンが。愛理さん、洗顔料、持ってない?」
 すぐに事情を察したのだろう、愛理がメイク道具の入った小箱をひっかきまわし、ポンプ型の洗顔料を手渡してくれる。礼を言い、ミネラルウォーターで湿したティッシュペーパーに洗顔料を数滴、垂らす。シミを叩き取るあいだ、作業しやすいように愛理がコートを広げて持っていてくれる。根気よく叩いていくと、広がっていたシミがじょじょに抜けていった。数回、同じ作業を繰り返してから、今度は水だけを含ませたティッシュで洗顔料を吸い取ってゆく。最後に乾いたティッシュで水分を拭き取ると、コートに変色した部分は残ったものの、なんとかフンは取り除くことができた。
「ありがと、愛理さん」
「いいから、早く先生のところへ」
 愛理に急かされ、駆け足で朱音のところへ向かう。そんな七菜を周囲のスタッフが気づかわしげに見ていた。
「先生、なんとか応急処置はできました」
 息を弾ませながら、赤いコートの左肩を朱音に見せる。朱音が目を見張った。
「すごいじゃない。よくこんなすぐに取れたわね」
「あくまでも応急処置ですから。お帰りになられたら必ずクリーニングにお出しください」
 念を押してから、朱音にコートを差し出す。
 朱音はひとつ頷くと、七菜の顔をまっすぐに見上げた。
「わかった、ありがとう。助かったわ。あなた、なんてお名前だっけ」
「時崎です」
「時崎さん、ね。機転の利く素晴らしいひとだわ、あなた。よく覚えておくわね」 
 朱音がゆったりとした笑みを七菜に向ける。
 よかった。なんとか切り抜けられた。
 安堵とともに、誰かの役に立てたという深い喜びが七菜のこころを満たしてゆく。

「乾杯!」
 愛理が持ち上げたビールのジョッキに、七菜もじぶんのジョッキをかちんとあて、黄金色の液体を勢いよく喉に流し込んだ。
 夜十時過ぎの和風居酒屋。周囲は仕事帰りのサラリーマンや学生でいっぱいだ。
 撮影のあとのビールって、なんでこんなに美味しいんだろう。毎回思うことだが、今夜のビールはいつもよりさらに美味しく感じられた。
 あのあと三十分ほどで、朱音は帰っていった。あすかの事務所の人間が到着したのはその五分後で、結局朱音に会うことはできなかった。
 朱音は上機嫌極まりなく、見送る頼子やスタッフ、俳優たちに対し、いかに七菜が頭の回転が早く、有能な人材であるか、聞いている七菜が気恥ずかしくなるくらい褒め称えた。だがおかげであすかや子役に対する不満はどこかに消し飛んでしまったらしい。それがなにより七菜には嬉しかった。
「落ちてきたのってなんのフンだったの?」
 突き出しのなめこおろしを箸で摘まみながら愛理が問う。
「たぶん鳩だと思う。カラスならもっとおっきいでしょ」
「なんだ。カラスならよかったのに」毒づいて、愛理がジョッキを持ち上げる。「そのくらいの天罰があたっても当然なのにさ」
「そんなに厄介なの、あの先生」
 七菜もぐっとビールをあおる。愛理が顔を顰めた。
「厄介も厄介、いわば現場を荒らす害獣だよあのひとは」
「愛理さんはけっこう現場行ってるんだっけ、上条先生の」
「四回くらいかなぁ。まあひどいもんよ。決まってるシーンに口挟むわ、スタッフを怒鳴りつけるわ、ちょっとでも気に入らないとすぐ俳優を替えたがるわ……」
 危なかった。七菜はこころのなかでほっと息をつく。今日も一歩間違えれば最悪の状態を招いてしまったかもしれない。
「とにかくもう現場には来て欲しくないね」
「そうはいかないでしょ。なんたって原作の先生だもの」
「ほーんとやんなっちゃうよね、わがままな作家は……」
 愛理がつぶやき、ビールの残りを一気に干した。
「とにかくお疲れさま。七菜ちゃんに感謝だよ」
「こちらこそありがとう。愛理さんがいてくれたおかげだよ」
 七菜が頭を下げると、愛理が綺麗に整った眉を緩ませてほほ笑む。
「飲もう! 今夜はとことん飲もう。すいません、ビールお代わり! 七菜ちゃんは?」
「え、でも愛理さん、愛結(あゆ)ちゃんは」
 愛理は七菜の四つ上の三十五歳だ。同い年で雑誌編集者の夫とのあいだに、愛結という一歳になる女の子がいる。
「いいの。今夜は実家の母に寝かしつけまで頼んできたから」
「そっか。実家の隣だもんね、愛理さんち」
 フリーランスである愛理も編集者の夫も、時間が不規則で、時には長い出張が入るような仕事ぶりだ。なので結婚する際、将来子どもができることを見越して、愛理の実家を取り壊し、二世帯住宅を作ったと聞いている。
「いいなあ、実家のお母さんに頼れる育児」
 セロリの浅漬けを頬張る愛理の顔を、羨ましい思いで眺めながら七菜はつぶやいた。愛理がちらりと七菜を見やる。
「もしかして決まったの? (たく)ちゃんとの結婚」
「あ、ううん、まだ全然」
 七菜はあわてて右手を振った。
 愛理は拓の存在を知っている数少ない仕事仲間のひとりだ。三人で二回ほど飲んだこともある。
「そっかあ」
 ぽりぽり。愛理の口もとからセロリをかじる小気味よい音が響く。七菜は視線を落とし、テーブルの上で頬杖をついた。
「でもさ、やっぱ考えちゃうんだよ。もしいまの状態で拓ちゃんとのあいだに子どもができたら、とかさ」
「広島のお母さんは? 頼れないの?」
「無理むり。上京するだけでも、お母さんを説得するの、すごい大変だったんだよ。子どもできたら『仕事なんか辞めて専業主婦になれ。子どもは母親が育てるものだ』って言い出すに決まってるよ」
「じゃあ拓ちゃんのお母さんは? 確か都内に住んでるんだよね」
「うん、成城」
「なら近いじゃん」
 視線を落としたまま、七菜は数回会った拓の母の、いかにも成城マダムといった風貌を思い浮かべる。
「うーん……望み薄、かなぁ」
「なんで」
「拓ちゃんのお母さん、ずっと専業主婦なんだよ。前に会ったとき、手もとで拓ちゃんとお兄さんお姉さんを育て上げたって言ってた。だからきっと働く女、しかもこんな不安定な仕事をしてるあたしに好意的とはとても思えないんだ」
「そんなの、話してみなけりゃわかんないじゃん」
 愛理がもっともなことを言う。
「そりゃあそうだけどさ……」
 七菜は、テーブルに垂れた水の粒を右の人差し指で丸くなぞる。
「いちばんいいのは、拓ちゃんが家事や育児を分担してくれることなんだけどね」
「そうだよ。拓ちゃんの会社、でっかいところじゃん。育休とか、育児時短とかしっかりしてそう」
 愛理が上半身を乗り出した。七菜はちからなく首を振る。
「いや制度の問題じゃなくてさ。拓ちゃん、家事、なーんもできないんだよ。ぜんぶお母さんにやってきてもらっったから。そんなひとが、いきなり赤ちゃんの面倒見られると思う?」
 憂鬱な気分が暗雲のように湧いてくる。
 愛理が両腕を組み、低い声で唸った。
「とはいえ……いつまでもこのまんまってわけにもいかんでしょ。出ないの? ふたりのあいだで将来の話とか」
「そりゃあ……出ないことはないけど」
「なんてこたえてんのよ」
「まあ……『また今度ね』とか『いま忙しいから』とか……」
 語尾がどんどん小さくなる。愛理が大げさにため息をついた。
「なにそれ。逃げてるだけじゃない」
「わかってるよ。だけどさ、うちらの仕事ってかなりブラックじゃん?」
「まあね。残業多いし、休みの日でもいきなり呼び出されたりするしね」
「でしょ。だからなかなか先の予定、立てづらいんだよ」
「言えてる。ほんと古い体質の業界だよねー」
「まじでもうちょっとうちらのこと考えて欲しいよね」
 ふたりして大いに日ごろの不満を愚痴っていると、愛理のビールが運ばれてきた。礼を言って受け取った愛理は、そのままジョッキに口をつけ、ひと息に三分の一ほど干した。ふう、息をひとつついてから、愛理がまっすぐ七菜を見る。
「とはいえさぁ、七菜ちゃん、今いくつだっけ」
「三十一。今年の秋で三十二」
「子どもは作らないって決めてるの?」
「そんなことはないよ。欲しいなって思ってる。いつかは」
「なら、そろそろ本気で取り組まないと。仕事がたいへんなのはもちろんわかってるけどさ、子どもなんて簡単にできるって思ってると痛い目を見るよ」
 本気で取り組む。七菜は愛理のことばを胸のうちで繰り返す。それはすなわち、いまの仕事をいまと同じようにはつづけられなくなるということだろう。
 アッシュに子どものいる女性社員はいない。頼子もずっと独身で通してきた。せっかく今回のように、微力ではあってもチームに貢献できるようになってきたというのに。ドラマ撮影の仕事がどんどん面白くなってきたというのに――
「ごめん、七菜ちゃん」
 暗い顔になった七菜を見て、言い過ぎたと思ったのだろう、愛理がぺこりと頭を下げた。
「せっかくふたりで飲む時間が作れたのにね。この話は終わり。なんか別のこと話そ」
 愛理が左手を伸ばし、テーブルの上に置いた七菜の右手に重ねた。そのまま、とんとんと二度、軽く叩く。
「うん、ありがと。心配してくれて」
 七菜は愛理の左手を、右手でぎゅっと握りしめる。考えても仕方がない。せめていまはこの時間をせいいっぱい楽しもう。
「あたしも飲も。すいません、ビールください」
 近くを歩く店員に声をかける。
「かしこまり! ビールひとつ!」
 店員が元気のよい声で、カウンターに向かって叫んだ。
 スタッフの愚痴、俳優への不満、早朝から深夜に及ぶ仕事の厳しさ――気心の知れた愛理との会話は弾みにはずみ、空のジョッキやグラスがどんどん増えてゆく。
 と、七菜のスマホがぶるりと震えた。愛理に断って、スマホのロックを解除する。
 届いていたのは頼子からのLINEで、大基の作った明日のエキストラ表を再度確認するようにとの指示が書いてあった。
 いまは無理だな。家に帰ったらやろう。
 七菜は「了解です」と打ち込み、スマホをポケットに戻した。
「だいじょうぶ?」
 ほっけの身をほぐしながら愛理が聞く。
「だいじょぶ、だいじょぶ」
 笑顔で愛理にこたえる。
 だいじょうぶ、まだ十一時過ぎだもの。家に帰って熱いシャワー浴びて、頭をすっきりさせてからやれば全然だいじょうぶ。
 酔った頭のなかで繰り返しながら、七菜は何杯めになるかわからないハイボールを飲み干した。

 

【次回予告】

なんとかトラブルを乗り切った七菜。朱音も幸い上機嫌となり、事なきを得たかと思いきや……!? 開放感からついつい飲み過ぎてしまった七菜を襲ったのは……?

〈次回は3月13日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

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初出:P+D MAGAZINE(2020/03/06)

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