仕事の引き継ぎをするため、上司・頼子の病室を訪れた七菜が見たものとは……!? 【連載お仕事小説・第17回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評連載、第17回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 激しく咳き込み病院へ向かった尊敬する上司・頼子。その代わりを務めるべく臨時チーフを任された七菜は仕事を的確にこなすため走り回っていた。そんなとき、上司・耕平から引き継ぎのため中抜けするように言われ、頼子の病室へと急ぐ七菜だったが……。

 

【前回までのあらすじ】

七菜の仕事への熱意が朱音に伝わり、「原作引き上げ」を撤回してもらうことに成功。後半のシナリオ変更も滞りなく行われ、仕事は順調に進んでいた。喧嘩していた恋人・拓とも和解の兆しが見え、何もかもがうまくいくかと思った矢先、尊敬する上司・頼子の様子が……。

 

【今回のあらすじ】

激しく咳き込んだあと、その場にうずくまった頼子はタクシーに乗り込み、行きつけの病院に入院することになった。仕事の引き継ぎをするため、七菜は頼子の病室を訪れるが、そこで見たのはすっかり変わり果てた頼子の姿だった。

 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP(アシスタントプロデューサー)、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。

 

【本編はこちらから!】

 

 第二東病棟312号室、第二東病棟312号室はどこだ。
 迷路のようにあちこちへ分岐する巨大病院をさ迷いながら、七菜は必死で頼子の病室を探す。
 病院はさながらアジアのハブ空港のように、どこまでも広い通路が繋がっては行き止まりになり、そのたび七菜は最初に戻ってやり直す羽目になる。
 行き交うひとの顔はみな険しく、そのあいだを看護師たちが足早に縫ってゆく。
「七時半になりました。面会時間終了まであと三十分です」
 館内アナウンスが流れ、七菜は泣きそうな気持ちで何度も確認した院内案内図を再度指で辿る。

 七菜の呼んだタクシーは、幸いにもロケバスが戻ってくる前に公民館に到着した。
 肩を貸して頼子を立たせ、後部座席に座らせる。
 ドアが閉まる直前「このことは誰にも言わないでね。心配かけたくないから」と頼子に言われた七菜は、だいはもちろん李生にも「頼子さんは急に別の現場に行くことになった」とだけ告げ、矢口監督やほかのスタッフにもそう説明した。
 頼子のいない午後を、七菜はいても立ってもいられない気持ちで過ごした。とはいえ頼子がいない以上、制作のチーフは臨時に七菜が務めなければならない。あちこちから飛んでくる疑問や指示を、なるたけ手早くかつ的確に処理するために七菜は走り回った。
耕平こうへいから電話が入ったのは七時になる直前だったろうか。
板倉いたくらはしばらく入院することになった。引き継ぎしなきゃなんねぇから、時崎ときざき、中抜けして病院に行ってくれ」
 つづけて耕平は病院名と病室番号を事務的な口調で七菜に告げた。頼子の病状やようすを知りたかったけれども、例によって必要なことだけを伝えると耕平は一方的に電話を切ってしまった。
 じぶんで確かめるしかない。
 七菜は李生に理由は告げず、二時間ほど抜けるとだけ伝えてタクシーに飛び乗り、教えられた病院に向かったのだった。

 あった、ここだ312号室。弾む息を整えながら七菜は病室のドアを見つめる。
 看護師に道を尋ね、何度もエレベーターを乗り換えたすえようやく辿り着いた頼子の病室はひとり部屋で、ネームプレートには頼子の名前と年齢、性別が記されている。七菜はノックすら忘れ、ドアを開けて病室に飛び込んだ。
「頼子」さん、と言いかけて七菜の全身が硬直する。
 頼子がいた。上半身を立てられたベッドに預けて頼子が座っていた。
 けれどそれは、七菜の見慣れた頼子ではなかった。
 髪が、ない。
 頼子のトレードマークとも言えるさらりと美しく流れる長い髪。その髪がない。
 尼僧のように頼子の頭には毛の一本も生えてなく、青白い地肌が剥き出しになっていた。
 頼子がゆっくりとこちらを向いた。
「……ノックくらいするものよ、七菜ちゃん」
 軽くしかめられた眉、澄んだ瞳。穏やかな顔にはうっすらと薄い笑みが漂っている。髪がないことを除けば、それはいつもの、七菜のよく見知った頼子そのものだった。
 なにか言わねば。七菜は口を開く。だがなんのことばも浮かんでは来ない。ただぱくぱくと無意味に開けたり閉じたりを繰り返すしかなかった。
「突っ立っていないで、こっちにいらっしゃい」
 七菜をまっすぐ見つめたまま、頼子が静かに言う。吸い寄せられるように七菜はベッドの脇へと歩いてゆく。反対側に置かれた小ぶりなテーブルの上に、ロングのウィッグが載っているのが見えた。頼子が目で傍らの丸椅子を指し示す。放心した状態で七菜は椅子に腰かけた。
「……せめてこの撮影が終わるまでは、隠しておこうと思っていたんだけどね」
 じぶんに言い聞かせるように頼子がつぶやいた。ようやく、ほんとうにようやく七菜の頭が動き出す。ごくりと唾を飲み込んで、七菜はことばを押し出した。
「……頼子さん。もしかして、あの、あの……」
 喉の奥でことばが絡み合う。絡み合ったことばは大きく重すぎて、どうしても口から吐き出すことができない。頼子が七菜から視線を外した。細い手でシーツのしわをたんねんに伸ばす。やや間を置いてから、頼子が静かに話し出した。
「……がんよ。乳がん。見つかったのは半年くらい前。そのときはもう肺と肝臓に転移していた。ステージⅣ、手術は無理。いまは抗がん剤で治療をつづけてる」
 天気の話でもするような、ごく軽い口調だった。内容とのあまりの落差に、七菜は現実感を失ってしまう。
「でもあの、治るんですよね。だって頼子さん、ずっと元気で」
「完治することはないわ。ここまで進んでしまうと。試せる抗がん剤が幾つかあるから、いまはそれを使って抑え込んでいる状態よ」
 完治することはない。耳で捉えてはいるものの、頭が追いついていかない。
「え、でも、え、じゃあ」
「余命は半年ごとに区切って考えましょうと主治医からは言われているの。だから半年以内に死んじゃうかもしれないし、十年生きられるかもしれない」
「そんな……そんなことって……」
 膝の上で拳を固く握りしめる。食い込んだ爪の痛みがかろうじて七菜を現実世界に繋ぎ止める。淡々とした口調で頼子がつづける。
「病気のことを知っているのはいわさんだけ。ほかのスタッフには言ってないわ。心配をかけてしまうから。でもこうなった以上、佐野さのくん、それにたいらくんには伝えるわ」
「はい……」
 大基はともかく李生には話しておいたほうがいい。直感的にそう感じた。
「それでね七菜ちゃん、ここからが本題なんだけど。たぶん数日間は入院して、そのあともしばらくは自宅療養しなくちゃならないと思うの。現場に復帰できるのがいつになるか、いまはまだわからない。だからわたしがいないあいだ、七菜ちゃんにチーフとして現場の責任者を務めてもらわないといけないの。こんな大変なときにほんとうに申し訳ないけど――どうか現場をよろしくお願いします」
 シーツの上に両手をつき、頼子が深々と頭を下げた。やせ細ったうなじに血管が青く透けて見える。
 あたしがチーフに? 七菜の胸に、どっと不安が押し寄せる。
 務まるだろうか、こんな未熟なじぶんに。失敗ばかりして、いつもみんなに迷惑をかけているあたしに――
 でもやるしかないんだ。
 頼子の薄い肩、痛々しいほど剥き出しの頭部を見つめて、七菜は必死で弱気の虫を封じ込める。
 がんばらなくては。頼子さんに安心して療養してもらうためには、あたしががんばらなくては。
「顔を上げてください、頼子さん。あたし、がんばります。未熟者ですけど精いっぱいやります。頼子さんが戻ってくるまで、現場を絶対に守ってみせますから」
 頼子がゆっくりと面を上げた。表情だけではなく全身から、ほっと安堵する空気が伝わってくる。
「ありがとう七菜ちゃん。ほんとうにありがとうね」
 頼子がふわりとほほ笑んだ。その笑みを受け止めようと、七菜はしっかりと頷く。
 チャイムが鳴り、スピーカーからアナウンスが流れてきた。
「ご面会のみなさまへ。まもなく面会終了のお時間です。お帰りのお支度をお願いします」
「もうそんな時間に」七菜は腰を浮かせる。「すみません、全然引き継ぎができなくて」
「いいのよ、細かいことはメールで伝えるわ。とりあえず七菜ちゃんに事情を話せてよかった」
 言い終えるや、頼子が激しく咳き込み始めた。あわてて七菜はその背をさする。肉の落ちた薄い背中、背骨の一本いっぽんがごつごつと手にあたる。
 どうしてもっと早く気づいてあげられなかったんだろう。自責の念が七菜のこころをさいなむ。この五年というもの、毎日この背を追いかけ、見つめてきたというのに。なにかもっとあたしにできることはないだろうか。頼子の重荷を軽くするようなことがなにか。
 そうだ。七菜にひらめきが訪れる。頼子の咳が治まるのを待って、七菜は口を開いた。
「頼子さん、ロケ飯ですけど、あれ、明日からあたしが作りますから」
「え」
 頼子の動きが止まる。
「毎日のロケ飯作り、さぞ大変だったと思います。でもだいじょうぶ、あとはあたしが」
 言いかけた七菜を頼子が遮る。
「いいのよ、七菜ちゃん。入院中は無理だけど、自宅に戻ったらうちで作って、タクシーかなにかで運んでもらうようにするから」
「だめですよ、頼子さんはちゃんと寝てないと」
「平気よ、ロケ飯作るくらい」
「いえ、あたしがやります。頼子さんはじぶんのからだを最優先に考えてください」
「わがままを言って悪いけど、ロケ飯作りだけはつづけさせて、お願い」
「作れますって、ロケ飯くらいあたしにも。何年頼子さんを手伝ってきたと思ってるんですか」
 胸を張って七菜は言う。
 すこしでも頼子の負担を取り除きたかった。じぶんにできることなら、なんだってしてあげたかった。頼子のためなら。いままでずっと七菜を導き、守ってきてくれた頼子のためなら。
 だが意に反して、返ってきた頼子の声は冷たく硬いものだった。
「――ロケ飯くらい、か」
「え?」
 驚いて七菜は頼子の顔を見上げる。声と同様に表情は硬く、先ほどまでの明るさは消えていた。
「……今日話したわよね、わたしに本物の家族はいない、だからチームが家族そのものだって。家族に健康でいてほしい、毎日元気で笑って過ごしてほしい。その思いからわたしはずっとこころを込めてロケ飯を作ってきたの。たかがロケ飯に大げさなって笑われるかもしれない。だけどわたしにはその気持ちが支えだった。生きる意味でもあったの」
 いったんことばを切り、呼吸を整えるように頼子はおおきく息を吸った。そんな頼子をぼう然と七菜は見つめる。
「七菜ちゃんが純粋な厚意から言ってくれたことはよくわかるわ。わたしが駄々をこねていることも。でもね七菜ちゃん、ロケ飯を軽く扱わないで。わたしから生きがいを奪わないで。『ロケ飯くらいあたしが』っていうのはね――いままで必死にやってきたことを否定されたと同じなのよ……」
 頼子が手で顔を覆う。肩が小刻みに上下する。はっはっという荒い息遣いが聞こえてくる。
 そんなつもりじゃなかった。頼子を苦しめるつもりなんて毛頭なかった。混乱しきった頭で七菜は考える。どう説明すればいい、あたしはどうすれば――
「本日の面会時間は終了しました。すみやかにご退出をお願いいたします」
 チャイムとともにアナウンスが流れる。
「……帰って。お願い、ひとりにして」
 顔を覆ったまま、途切れとぎれに頼子が告げる。
「……ごめん、なさい……」
 七菜は椅子からよろよろと立ち上がり、ドアに向かって一歩、踏み出した。手も足もからだのなにもかもが、じぶんのものではないような気がする。
 病室から出たとたん、後悔が津波のように押し寄せる。揉みくちゃになったこころで、無意識に足を運ぶ。
 厚意から言ったことがあんなに頼子さんを傷つけてしまうなんて、考えもしなかった。想像すらできなかった。頼子さんのためにと、頼子さんによかれと思ってあたしは――
 そこまで考えて、七菜の足が止まる。
 これでは拓と一緒ではないか。
 厚意から「仕事を辞めたら」と言った拓に、あたしは傷つき、怒り、どん底まで落ち込んだ。あのときの拓と同じことをあたしは頼子さんにしてしまったんだ――
 動かない七菜の脇をすり抜けた中年の女性が、ちらりと同情に満ちた視線を投げてくる。
 帰らなければ。ここにいては迷惑なだけだ。
 出口を確かめないまま、迷路のように入り組んだ道を七菜は辿り始める。

 

【次回予告】

入院している頼子のもとを訪れた七菜だったが、うまく引き継ぎができないまま頼子と仲違いしてしまう。数日後からタクシーで届けられるようになった「ロケ飯」。頼子の代わりにチーフを務めることになった七菜だったが、またも新たな問題が……!

〈次回は5月15日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

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