夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!
指折り数えながら、
「ようするに土を掘るのが仕事です」
にこやかにそんな返答をしてから、古屋に向きなおった。
「さて、行きましょうか。準備はしてありますから」
さらりと告げると、相馬は先に立って門をくぐった。
明るい日差しの下、玄関へと続く大きな飛び石の上を、相馬は軽い足取りでたどっていく。相馬の背を見送った千佳は、そのまま傍らの指導教官に目を向けた。
「先生って、考古学もやっていましたっけ?」
「私は純然たる民俗学者だ」
短く答えた古屋は、ステッキを持ち上げて門をくぐった。
古屋神寺郎という人物について、千佳はまだ多くを知らない。
学生時代にはゼミに通い、院生になってすでに半年が経過しようとしているが、偏屈さが筋金入りだということはわかっても、それ以外のことは謎が多いままだ。
なぜこれほど変わり者なのか、いつから足を悪くしているのか。いや、そういう細かいこと以前に、彼の正確な年齢さえ千佳は知らなかった。噂に聞く四十代後半という年齢にしては若く見えるのだが、その割に頭髪には白いものが混じり、深い思索の最中には老人のような陰を帯びることもある。
学者としては間違いなく一流に属する人物で、民俗学会の全国規模のシンポジウムでもしばしばパネリストや講演者として登壇しており、執筆論文も数多い。
つまり確かな実績があるということなのだが、いまだに准教授の地位に甘んじているのは、彼の奇異な性格が災いしているためであるのは疑いない。その強烈な言動にあまり苦痛を感じず、好んで旅に従う千佳の方が例外なのである。実際、古屋の容赦ない言動は、学内学外を問わず多くの敵を作ってきた。
例えばこんな話がある。
ある地方の民俗学の学会で、若手の研究者が最新のソフトを用いて、特定の山林の植生を統計処理した発表を行ったとき、にわかに立ち上がって、ひとこと、
「君はその山を歩いたのかね?」
と古屋は大声で問いかけた。
不思議そうな顔をしている学者に対し、
「行ったことも見たこともない土地の情報を、単純に数値化して数式に放りこむだけなら統計屋にまかせておけばいい。いやしくも民俗学者のはしくれなら、自分の足で土を踏んでくるべきではないかね」
〝民俗学の研究は足で積み上げる〟
とは古屋のゆるがない哲学ではあるが、彼の独創ではない。
さかのぼれば、かの『遠野物語』の作者柳田國男に至り、柳田國男はこれを江戸期の博物学者、菅江真澄の技法として紹介している。民俗学の方法論としては重要である。しかし、重要な事柄を述べる者が必ずしも好かれるとは限らない。まして、相手の立場やプライドといったものに対して、まったく配慮を欠く発言であればなおさらだ。おかげで彼に対する評価は、その実績の批評よりも感情論に終始し、心ない人などは、杖姿の彼を評して『三本足の古屋』などと陰口を言っているくらいなのである。
そんな状況だから、彼のいる東々大学においては、民俗学科に入ってくる学生などよほどの変人か物好きしかいない。それでも学部生は何人かいるが、大学院に至っては、千佳のほかにもうひとり、博士課程の院生がいるだけである。
だが千佳にもわかっていることがあった。
性格はどうあれ、古屋神寺郎は口先だけの学者ではない。必要とあれば、日本中どこにでも出かけていく。どれほど足が悪くとも、階段を登るのにさえ苦労をする身であったとしても、彼は書斎の学者ではなく、歩く学者であった。
千佳が狭い研究室で資料整理に没頭していると、古屋はしばしば突然、この快活な女学生に向かって言うのだ。
「藤崎、旅の準備をしたまえ」と。
千佳の旅は、いつもそうして始まるのである。
相馬の案内のもと屋敷の中に入った古屋たちは、広々とした廊下を歩んでその奥へと進んだ。磨き上げられて黒光りをした廊下を歩き、少し曲がるとふいに明るい縁側に出る。
庭先にはきっちりと刈り込まれた躑躅が並んでいる。
「見事な屋敷です」
古屋の簡潔な論評に、案内をする相馬が応じる。
「津軽きっての豪商、津島家の屋敷です。とはいっても、実際に威勢を誇っていたのは江戸末期までですがね。いまは末流の老婦人がおひとりで暮らしているだけですよ」
その老婦人とは、さきほど玄関先で軽く挨拶をしたばかりだ。
〝遠いところからようこそ〟
玄関をくぐった古屋たちをそう言って、小柄な婦人が迎えたのである。
薄暗い土間の奥の上がり框の上に、小さく丸くなって座っていたその姿を見て、千佳は一瞬、古屋敷に住みついた老猫のような印象を受けたが、そっと手をつく挙措には品があり、上げた顔には涼しげな微笑がある。
外が明るいおかげで、玄関の中はより薄暗く見えたが、婦人の周りだけはなんとなく華やいだ空気さえ漂っており、旧家の麗人の面影がそこはかとなくにじみ出ているようであった。実際、玄関周りには古びた小道具が並べられているが、手桶や箒、神棚に至るまで、手入れが行き届いて、零落や陰鬱の気配は微塵もない。
そのまま、
〝あとはご自由に〟
静かに告げた老婦人は、音もなくするりと奥へ引っ込んでしまった。
なにかひとつひとつの景色が昔話の一場面のようで、千佳は古い物語の中に足を踏み入れていくような心地である。
「津軽の女性は、愛想がいいとは言えませんが、こだわりのないさっぱりした性格の人が多いんです。今日も、自由に出入りしてくれてよいとのことでした」
相馬の説明に千佳は戸惑いがちに応じた。
「相馬さんはよくここに来られるんですか?」
「よく、というほどではないですが、月に一、二度は来ています。蔵の整理をお願いされていましてね」
「蔵の整理?」
「ここは、津軽一の豪商と言われた人の屋敷ですから、実にいろいろなものが埋もれていて、ここ数年のうちにも、縄文期の土器や装飾品のたぐいが、損傷や欠落もない貴重な保存状態で見つかっているんです」
先を行く相馬が振り返る。
古屋は板の間にカバーをつけたステッキをそっと突きながら歩いているから、相馬はそのゆっくりした歩調に合わせてくれている。
「文化財として価値の高い物がいくつも蔵から出ているというお話をしたところ、御婦人も高齢で、ひとりで蔵の管理はできないから、文化財センターの方で少しずつ整理してほしいと依頼してくれました。私がその窓口になっているんですよ」
「その整理の過程で、例のものが見つかったというわけですな」
古屋の声に、相馬がうなずいた。
「座敷に出しておいてもらうようにお願いしておきました。好きに見ていってくれて良いということです」
三人は、小さな坪庭をめぐる廊下を渡り、六畳間を一つ抜けて、やがて日当たりのよい二十畳ほどの広々とした座敷に至った。
「ここです」
そう言って相馬が示したのが、座敷の上座に置かれていた二曲一双の古びた屏風であった。
大きな広間の奥に、ゆったりと開かれたそれは、けして巨大なものではない。のみならず、いかにも古色を帯びた品物で、枠は一部がこわれ、屏風の絵もなかばが剥落している状態だが、不思議な存在感がある。積み重ねてきた年月の重みということか。
古屋は板の間にステッキを置き、畳の上を左足を引きずりながら歩いて、古屏風の正面に腰をおろした。