夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!

「たしかにこれは年代物ですな」

「地元の骨董家の鑑定では、江戸末期のものではないかということですが、もう少し古いかもしれません」

 古屋は、鼻がつくほどの距離まで屏風ににじり寄って見つめている。

 自然、千佳もそばに寄った。

 物が古いだけに絵も古い。判別しがたいのは、色彩が落ちているためだけではなく、それが見慣れない昔の景色であるからだ。それでも目を凝らせば屏風には、たくさんの小さな人影が認められた。

 古い町の景色であろう。板葺きの平屋の並ぶ往来は多くの人でにぎわい、荷車や牛車が見え、道端には露店が並んでいる。

「お祭り、ですか?」

 思わず千佳が問いかけたとき、屏風に明るい光が差し込んだのは、相馬が縁側の障子を開けてくれたからだ。

「祭りといえば祭りかもしれん。だが正確には、市の景色というべきだ」

 微動だにしない古屋の声が聞こえた。

「イチ?」

「市場だ。露店に並んでいる品物は、鍋や皿などの日用品に見える。ほかにも家具らしきものから、日常の雑貨が目立つ。祭りというよりは、おそらく市の景色だろう」

 淡々とした口調ながら、その目には異様に鋭い光が宿っている。

「ただし、中世の日本の市には、祭り的な要素が多くある。そこには多くの人や物が集まって、一種の非日常の空間となる。実際、全国の朝市や日曜市には、しばしば恵比寿や大国主命といった祭神が守り神として祀られ、時に御輿が出る土地もある。京都の東寺にも弘法市があるように、市と祭事には密接なかかわりがある」

 言いながら古屋は、じっと見回していたその目を、屏風の一角で止めた。

「これですな?」

 古屋の短い問いかけに、相馬は大きくうなずいた。

 古屋が目を止めた場所には、大きな一本の木が描かれている。それも枝の払われた大きな丸太が、人の行きかう往来の中央に、どっしりと打ち立てられているのだ。高さはそばの民家の大きさと比べて、四、五メートルはあるように見える。それだけの巨木が、市場の中央に堂々とそびえ、その下を市井の人々が往来している。

「たしかに、市神と考えてよさそうですな」

 古屋が低くつぶやいた。

 千佳は、古屋の横顔を見る。

「市神?」

「先に述べた、恵比寿を始めとする市に祀られる神のことだ。全国的には、神像や仏像などの人工物を拝することが多いが、岩や石などの自然物を市神としている土地もある。なかでも津軽には、枝を払った自然木を通りに立てて神の憑代とする、古い形の神があったという。今となっては目にすることのできない風習だ」

 淡々とした古屋の声の底にかすかな熱がある。

 その目は屏風の一角を見つめたまままったく動かない。

「お役に立てましたか?」

「十分です。古い日本の神の在り方を理解するための貴重な資料です。もう少しじっくり見せてもらってよろしいですか?」

「もちろんです。私自身、自分の故郷にこんな風習があったことを知りませんでした。お役に立てれば幸いです」

 日に焼けた頬に明るい笑顔を浮かべた相馬は、実際嬉しそうである。

「津島婦人からは時間を頂いていますから、じっくり見ていってください。僕はお茶を淹れてきますよ」

 あっさりそう言って廊下に下がる相馬を、千佳は慌てて「手伝います」と追いかけたのである。

 座敷から小さな二間を抜けて、さらに奥の廊下を渡ると、小さな炊事場につながっていた。

 豪商の屋敷というだけあって、なにやら迷路のように入り組んだ造りだが、相馬はもう何度かこういう機会を持っているのであろう、迷う様子もなく、炊事場でも手際よく薬缶に水を入れて、火にかけ始めている。

「考古学者の相馬さんが、どうして古屋先生の研究を手伝っているんですか?」

 食器棚から湯呑を取り出しながら、千佳が問うと、相馬はにこやかに答えた。

「手伝っているというわけではありません。単純に、僕と古屋先生の研究は重なる部分が多いんですよ」

 意外な返答であった。

 相馬は穏やかに続ける。

「考古学と民俗学とでは、妙な組み合わせに見えるかもしれませんが、意外と近い部分があるんです。特に僕の研究のひとつは縄文文化の中の『巨木信仰』で、古屋先生は日本人の神をテーマとしていらっしゃる。信仰や神というキーワードを軸にすれば、自然に重なり合ってくる部分があります。それでも普通は畑が違えば互いに交流することはほとんどないんですが、古屋先生はあの通り、特別な行動力をお持ちだ。私の論文を読んで、自ら考古学会にも足を運んでくださったことがあって、親しくさせてもらっているのですよ」

 なるほど、と千佳は得心する。

 資料集めや取材のためには日本中を歩き回る古屋にとって、学会の壁を越えて足を運ぶくらい造作もないことなのかもしれない。

「博識な古屋先生からは、教わることがとても多いのです。代わりに、僕も古屋先生のお役に立ちそうな資料や情報があればお知らせしているというわけです」

「それで、今回も屏風の絵について連絡してくださったんですね」

 ちょうど湯が沸いたところを見計らって、相馬はコンロの火を消した。

「以前、津軽の市神について先生から教わったことがあったので、今回屏風の絵に気付いた時、これはもしかして、と思いましてね。念のため連絡したら、すぐさま飛んでこられたわけです。写真にしてお送りするとお伝えしても、直接自分の目で見たいとおっしゃいましてね。古屏風の絵ひとつのために、いかにも古屋先生らしい」

 相馬の声には率直な敬意が含まれている。

 古屋と年齢はさほど変わらない。いや、相馬の方が年配であるかもしれないというのに、衒いや卑屈さのないその態度は、相馬自身の人格というものかもしれない。

「しかし」と急須に茶葉を入れる千佳に目を向けながら、相馬が笑った。

「古屋先生についていく方は大変でしょう。歩きまわる距離が尋常ではありませんからね」

「距離は気になりません。大変なのは、暇さえあれば嫌味とか皮肉とかが飛んでくることです」

 千佳の遠慮のない返答に、相馬はおかしそうに笑う。

「たしかに古屋先生は少し風変わりなところがありますからね」

「少しどころじゃないですよ。まともに目的地も説明されずに引きずり回されるんですから。今回だって、青森一泊ってこと以外はほとんど何も聞かされずにここまで来たんです」

「それはひどい」

 相馬は微笑に苦笑を交えつつ、

「けれど、それだけ野放図に振る舞っていながら、お供をしてくれる学生さんがちゃんといるというのは、古屋先生という人の面白さですね」

 不思議な応答であった。

 日に焼けたその手が、薬缶を手に取って急須に湯を注ぎ始める。

「先生はたしかに風変わりで、敵も少ないとは言えませんが、敵ばかりではありません。先生の魅力というのは、学問に対する徹底した生真面目さ、とでもいうべきものでしょうか。あれに惹かれている人も意外と多いんですよ」

「相馬さんもそのひとりですね」

 千佳のそんな軽口に、ゆったりとうなずいた相馬は明るい目を向けて応じた。

「あなたもそうでしょう?」

 唐突な問いに、千佳の方が戸惑う。

 そんな千佳の様子を優しげに見守りながら、相馬は語を継いだ。

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