夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!
「違いましたか?」
「違うことにしておきます」
力をこめて返事をした千佳に、相馬は声を上げて笑った。
千佳が古屋神寺郎という人物に初めて出会ったのは、文学部の二年生の夏であった。
時候は、梅雨のまだ明けきらない初夏。
その日、学内の図書館で、ようやくレポートを済ませた千佳が腕時計を見ると、すでに夕刻であった。日暮れにはまだ時間があったが、窓外はいつになく暗い。慌てて資料やレポートを小脇にかかえて外に出てきた千佳を迎えたのは、稀に見るほどの大雨であった。
傘はない。やむをえず、図書館の軒先で空を見上げて立ちつくしているときに、あとから出てきたのが古屋だったのだ。
右手には傷だらけの細いステッキを持ち、左手にはいかにもたくさんの書籍が入っていそうな大きい鞄をさげた痩身の男が出てきたときには、さすがに千佳も戸惑ったものである。白いものの混じった頭髪と仏頂面を見れば、五十は過ぎているようにも見えるが、眼光の鋭さは三十代の若々しさを秘めている。いずれにしても年齢不詳で、見るからに近づきがたい雰囲気をまとった男だった。
男は大雨の降る空と、傍らに立つ女学生とを無遠慮に見比べると、おもむろに鞄を足もとに置き、その中から折りたたみ傘を出して千佳に差し出したのだ。初対面であるが、そのどぎつい眼光に圧倒されて思わず受け取ったものの、あっさりと雨の中へと歩き出した男を見て、千佳は驚いて駆けだした。
「受け取れません、あなたが差してください」
告げる千佳に、いきなり彼は怒鳴り返した。
「右手に杖、左手に鞄を持っている。どの手で傘をさせというのかね!」
今思い出してみても、これほど理不尽な怒り方もない。
どの手で傘を、などと言うくらいなら、なぜ鞄の中に傘が入っていたのか、という話である。
あっけにとられる千佳の前を、男はステッキを鳴らしながら悠然と去って行った。むろん雨に濡れながら、である。
この誰が見ても奇異な人物が、学内でも知られた変わり者で、民俗学研究室の准教授、古屋神寺郎だと知ったのは後日のことである。
古屋の名を知った千佳は、借りた傘を返すべく、文学部の建物の一番奥にあるその研究室を訪ねた。
突然のこの珍客を迎えた古屋は、礼を述べる千佳の声を遮って短く答えたのだ。
「遠野を持っていただろう」
怪訝な顔をする千佳を見て、あからさまに苛立った口調で続ける。
「あの時、君が抱えていた本の中に柳田國男の『遠野物語』が見えたのだ。あの名著が雨に濡れるのは忍びなかった。君のために傘を貸したわけではない」
たとえそれが真実であっても、黙って受け取ればよいだけの話であって、わざわざ言うべき必要のある言葉ではなかった。それでもなお「遠野のためだ」と言う古屋の言動が、千佳にはなぜかおかしかった。そのおかしさが、二十歳の少女の頬にほのかな笑みとなって浮かんだとき、古屋はわずかに困惑したように目を細めた。
「私も好きな本なんです。先生のおかげで濡れずにすみました。ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、そのまま部屋を出ようとしたとき、古屋が低い声で呼びとめた。
「興味があるなら聴きにきたまえ」
おもむろに告げて、机の上に投げ出したのは一冊の薄い手製のテキストだ。
『民俗学と遠野』
講師の欄に、古屋神寺郎の名がある。
「毎週水曜日の二時限目だ」
その言葉が、千佳が民俗学の世界に足を踏み入れる、最初の一歩を与えることとなった。
初めて古屋の講義を聴いたときの空気を、千佳は今もよく覚えている。
体系的な民俗学の解釈やフィールドワークについて、千佳はもちろん無知であった。その意味では、講義の具体的な内容が理解できたわけではなかった。けれども、教壇に立って静かに『遠野物語』を読みあげる古屋の姿に、千佳は不思議な胸の高鳴りを覚えたのである。
欠席している学生も多く、出席者の大半も机に突っ伏して居眠りをしている中で、しかし古屋は悠然と朗読を進めながら、ときおり民俗学について解説を加えた。日本人は日本人についてもっと学ばなければならない。遠く高く跳躍するためには確固たる足場がなければならぬように、世界を知ろうとするならば、我々はまず足下の日本について知らなければならない。民俗学はそのための学問である、と。
神、人、森、海、さまざまなキーワードを口にする中で、古屋は深みのある声を響かせて言った。
〝我々は、ただ単純に古書の中の干からびた知識や、失われた風俗や慣習を記録しているわけではない。未来のために過去を調べる。それが民俗学である〟
細かな文脈を、千佳はもう覚えてはいない。しかしステッキを片手に超然と教壇に立ってそう告げる古屋に、千佳は強く惹かれるものを感じたのである。
大学に入ったものの、具体的な将来設計も持たず漫然と時間を過ごしていた千佳にとって、それは十分に衝撃的な出来事であった。
空席の目立つ講義室の最後列で、千佳は講義が終わるまで、じっと古屋の声に耳を傾け続けていた。
初夏の雨と『遠野物語』が導いた、不思議な縁であった。
津島家の座敷に一時間ばかり滞在した古屋は、その後屋敷を辞し、相馬ともあっさり別れて町中を歩き出した。
再び石畳の道を歩き、小道を抜け、十分ほど歩いて、車一台がかろうじて入ってこられるような細い路地に面したクラシックな装いの喫茶店にたどりついた。
いかにも老舗といった様子の店は、扉をくぐってみれば、おもいのほかに広く、カウンターの他にも四人掛けのテーブルが五つばかり置いてある。著名人も訪れる場所なのか、壁には色紙や写真が何枚か張ってあるが、いずれもずいぶん年季の入った古いもののようで、千佳に判別できるものはひとつもない。二人が入ったときにはほかに客の姿はなく、カウンターの奥に立っていた小柄なマスターが無言で小さく頭を下げただけだった。
古屋は席につくなりリキュール入り珈琲という、千佳が聞いたこともないものを頼み、あとは津島家で譲り受けた資料や、自ら鉛筆を走らせた屏風絵のスケッチなどを黙々と見返している。
千佳はすぐに届いたアイスコーヒーで喉を潤し、一息ついてから小さくつぶやいていた。
「先生って意外に愛されていますよね」
唐突な言葉に対して、古屋はいかにも面倒そうに書類から目を上げた。
「なんの話だ?」
「相馬さんの話です。ずいぶん先生のことを褒めていました」
「彼は人を見る目があるからな。君も少しは見習うといい」
臆面もなくそんな返答をする。
千佳は呆れ顔でストローをくわえたまま、
「先生こそ、笑顔の素敵な相馬さんを見習ってもいいんじゃないですか。社交性とか笑顔とかって結構大切ですよ」
「社交性や笑顔がときに重要な役割を果たすという考察については、異論はない。しかし彼は、君と違って、ただ無闇と間の抜けた笑顔をぶらさげているだけの凡人ではない。あの屈託のない風貌とは異なり、洞察は鋭く、頭は切れる」
意外な人物評が飛び出してきて、千佳は思わず口をつぐむ。
「彼はもともと北東大学にいたが、縄文の遺跡に魅せられて青森にやってきた。この地で縄文人の衣食住に関する多彩な研究を拡張し、『定住する狩猟採集生活』という新たな枠組みを提唱した気鋭の考古学者のひとりだ」
聞き慣れない言葉を、千佳は思わず繰り返していた。