夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!

「定住する狩猟採集生活、ですか」

「敢えて説明するような内容でもないが、君の知的能力にかんがみて付け加えておこう」

 不必要な毒舌を前置きとして、古屋は続ける。

「一般的に、縄文時代は狩猟採集生活で、弥生時代は稲作生活というのが古代日本社会の理解の仕方だ。そして同時に、前者は移動生活で、後者は定住生活というのが通説だったが、相馬さんは、豊かな森と海に囲まれた津軽から渡島半島にかけての一帯は、『定住する狩猟採集生活』が可能だったと考えたのだ。炯眼というほかはない」

 古屋の口調は淡々としているが、言葉には重みがある。

 千佳は黙って、その刺激的な講義に耳を傾ける。

「相馬さんは、そこから豊かな縄文時代の生活風景を描き出し、さらに巨木信仰という文化的理解を持ち込んだ。数千年前の古代人の生活に、文化という視点を持ち込んだというだけでも、相馬さんが非凡な研究者であることは明らかだろう。彼の考察は、あのにこやかな笑顔とは対照的に奇抜で斬新だ。三内丸山の巨大木造建築を、祭祀場や砦などの実用施設ではなく、信仰の対象そのものとして捉えようという発想も興味深い。同じ大木だからといって、縄文の遺跡を、津軽の市神にまで結びつけようとする態度は、さすがに牽強付会と感じるがね」

 全面的に賛意を示しているわけではない。しかしそれも含めて、相手に対する信頼と敬意が溢れている。

 古屋がこんな風に人を褒めることは珍しいし、なにより、この偏屈で寡黙な学者の口から、これだけ熱のこもった言葉を聞くのは稀なことであった。

「考古学は民俗学とならんで地味な学問だが、ああいう賢才が東北の田舎町でがんばっているというのは、喜ばしい事実だ。これも学者を大切にする弘前の風土のひとつかもしれん」

「先生って……」

 千佳は、一瞬言葉を切ってから、なんとなく心の中に浮かんでいたものを、そのまま吐き出していた。

「弘前には詳しいんですか?」

 わずかに古屋が眉を動かす。

「また唐突だな」

「だって、単にフィールドワークに来た町にしては、なんだか弘前のことをよく知っているように見えます。相馬さんとはただの研究仲間という以上に親しそうでしたし、弘前駅を降りてから津島家まで、地図もほとんど見ずに歩いていました。この喫茶店だって、結構わかりにくい場所にあるのに、最初から予定していたみたいに真っ直ぐ来たじゃないですか」

「ここは太宰治も通ったと言われる弘前の名店だ。格別詳しくなくても名は知られている」

「太宰治?」

「知らんのか」

「知っています。作家ですよね。『人間失格』とかって」

「読んだことは?」

「ありません」

 軽やかな千佳の返事に、古屋は大げさに首を左右に振る。

「残念なことだな。昭和を代表する文豪の名作たちも、消えゆく定めにあるらしいぞ、マスター」

 そんな古屋の声は、千佳ではなく、その背後に向けられたものだった。

 振り返ると、ちょうどカウンターの向こうから蝶ネクタイのマスターが盆を片手に出てくるところである。

「時代の流れなのかもしれませんね」

 穏やかにそう告げたマスターが、クッキーを載せた皿を「どうぞ」とすすめながら微笑を向けた。

 慌てて会釈する千佳に、マスターは控え目な笑顔のまま、

「太宰治は津軽出身の作家で、弘前に住んでいたこともありましたから、よくここに足を運んでくれたといいます。もう何十年も前の、先々代の話ですが」

「そんな特別なお店だったんですか」

「特別なのはお店ではなく作家の方ですよ。よい作品が多くあります。『走れメロス』はもちろん、『津軽』や『晩年』などとても味わい深い作品です」

 読んでいないと答えたばかりの千佳には、肩身の狭い話であるが、マスターは格別気に留めた様子も見せない。空になっていたコップに水を足しながら続けた。

「太宰が亡くなってずいぶん経ちますし、ファンも少しずつ減ってきていますが、それでもときどき訪ねてきてくださる方がいます。何より古屋先生のような高名な人が、年に一回は必ず来てくださる。まったく有難いことですよ」

 急な話題の転換に、千佳は軽く目を見張った。

 そのまま視線を転ずれば、古屋の方は眉をわずかも動かさず、黙ってまたカップを傾けるばかりだ。ゆえに千佳は、眼前の学者ではなく、マスターの方に目を向けた。

「先生が毎年ここへ?」

「だいたいこの時期に来てくださいます」

 もっとも、とマスターは少し声音を抑えて、楽しげに頬を動かした。

「いつも一人旅で、お連れさんがいるのは今回が初めてです。しかもこんなチャーミングな女性を連れてくるなんて……」

「マスター」

 にわかに低い声を響かせた古屋に、マスターが軽く首を傾げる。

「タクシーを呼んでくれたまえ」

「おや、急なお立ちですね。お急ぎですか?」

「そうでもない。もう少しゆっくりするつもりだったがね」

 古屋はそばに置いていたジャケットを手に取りながら続ける。

「せっかく客も少なくて静かな店だと喜んでいたが、マスターの口が騒がしくなったようだ。来年来る頃には、客もマスターもいない静かな店であってほしいものだな」

 冷然と告げながら、ジャケットのポケットから財布を取り出す学者に、マスターは慌てる様子も見せない。

「またお待ちしています。お気をつけて」

 穏やかな微笑のまま優雅に一礼して見せた。

 いつもと少し違う旅。

 そんな予感を、千佳は東京を出発する前から、かすかに感じていた。

 古屋が、弘前行きを千佳に告げたのは、ほんの一週間ほど前のことだった。

 そういう唐突さはいつものことであったから、千佳は別に驚きもしなかったが、むしろ彼女が戸惑ったのは、古屋の決まり文句が出なかったことの方だ。

「藤崎、旅の準備をしたまえ」

 この半年間、何度も聞かされてきたその言葉が、この日は出なかった。その時の古屋には、どこか妙な落ち着きのなさがあった。

 折しも九月の東京は近年でも稀に見るほどの残暑で、東々大学の文学部民俗学科などというマイナー中のマイナー研究室は、学問を行うにはあまりに不向きな蒸し暑さにさいなまれていた。

 ただでさえ天井ちかくまで書籍でうずめられ、窓がふさがれている風通しの悪い研究室である。ほとんど壊れかけた一台のクーラーがため息をつくように気休めの冷気を吐き出しているが、焼け石に水であった。

 おまけにその狭い空間に、千佳ともうひとりの院生のほか、古屋も大きな机を構えているから手狭なことこの上ない。本来、古屋の部屋である隣の准教授室は、膨大な古書類、資料類で倉庫状態となっていて、とても作業ができる状態ではないのである。古屋に言わせれば、自前の図書室を持てない零細研究室のやむを得ざる現状だ、ということになるのだが、一番しわ寄せを受けているのは、この剣呑な教官と同じ部屋で過ごさなければいけない千佳たちの方であろう。

「仁藤はどうした?」

 丁度不在になっているもうひとりの院生の名をきっかけとして、古屋が口を開いた。

 千佳は、うずたかく積まれた書類と書籍でいまにも倒壊寸前になっている向かいの机に目を向けて答えた。

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