夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!
「ジン先輩なら、ここだとあんまり暑くて論文なんて書いていられないから、図書館に行ってくるって言っていました」
「妥当な選択だな」
無駄を嫌う古屋が、めずらしく意味のない返答をしている。
千佳が手元の資料整理を再開すると、すぐに次の言葉が降ってきた。
「来週弘前に行く予定だ」
あとに続く言葉はない。一瞬間をおいてから顔をあげ、それから古屋に視線を向けた。
「ついて来るかね?」
旅に出掛けるときの言葉としては、聞き慣れないフレーズであった。
かつてない問答に、千佳の方が面食らう。
「私に選択権があるんですか?」
思わずこぼれた言葉に、古屋は露骨に眉をゆがめた。
千佳としては、嫌味のつもりで言ったわけでは全くない。ごく素直に驚いただけだ。足の悪い古屋にとって、ひとりで旅に出ることは容易でない。その点、院生ひとりが荷物運びを手伝うだけで行動範囲は大きく広がるし、千佳自身もそんなものだと思っていたからである。
もちろん今の時代、男性教官が女学生を連れてフィールドワークに出かけることには、少なからず問題があるのだが、この点は古屋自身が「足の不自由な障碍者への介助」という点を臆面もなく強調して反論を退けている。要するに、今さら古屋が千佳に気を使う話でもないのである。
なんとなくそんな感想を口にすると、古屋は常にないほど不機嫌な顔で応じた。
「君が荷物持ちとして貢献していることは認めるが、それはあくまでも、非力な障碍者より、力の有り余った院生に荷物を任せる方が、速やかに事が運ぶという常識的判断の結果に過ぎない。君が来るまでは仁藤が付いていたが、彼が多忙なときは私ひとりで出かけていたんだ」
いつも以上に乱暴な調子で滔々と語ると、さらに付け加えた。
「今回はいささか野暮用がある。フィールドワークは大切だが、それだけではないから、無理に君がついてくる必要はない」
なら声などかけずに一人でいけばいいのに、と千佳は思ったが、師弟の立場であることは確かであるし、なにより古屋と出掛けることが、嫌いではない。
だから、
「行きますよ」
いつもの調子で応じたのである。
喫茶店の前まで迎えに来たタクシーに乗り込みながら、古屋は短く告げた。
「嶽温泉へ行ってくれ」
もちろん千佳の知らない地名である。しかし運転手はよく心得ているようで、狭い小道を抜けると、タクシーは迷う様子もなく大通りを走り始めた。
すぐに前方に見えてきたのは、満々と水を湛えた堀とその先の石垣上に鬱蒼と茂る森である。午後の陽光を受けて、水と緑とが鮮やかな晩夏の色彩を乱舞させている。
「弘前城ですね」
千佳の声に、古屋はわずかに首を縦に動かしただけだ。
タクシーはゆるやかに堀端を走りぬけて、それとともに水と緑の明るいきらめきが窓外を背後へと流れていく。
「城というのは、文化の塊だ」
ふいに古屋が低い声で告げた。
「たとえば地形だ。城の縄張りというのは、築城時の土地の形状にそって計画される。残された堀を見れば、今では埋め立てられてしまった川の流れがわかり、出丸の位置をさぐればすでに削られた山や丘の位置を推し量ることができる」
豊かな言葉もある、と古屋は続ける。
「今ではどんな建物でも『造る』か『建てる』という言葉しか用いられない。だが城は多様な言葉を含んでいる。堀はうがつ、柵はかける、櫓はあげる、今では失われつつある言葉だ。それらの語感というものは、自ら足を運んで、堀を見下ろし、櫓を見上げなければ身にはつかない」
「だから歩かなければいけないんですね」
千佳の声に、古屋はまたかすかにうなずいた。
「でも今日はタクシーに乗っていますけど?」
いくらか軽薄な調子を含んだ千佳の声に、しかし古屋は応じない。のみならず、じっと窓外を見つめている。
しばしの沈黙ののち、古屋は静かに告げた。
「出発前にも言ったはずだ。今回は野暮用があるのだ、と」
ふいに車内が明るくなったように感じられたのは、タクシーが市街地を抜け、広々とした田園地帯に入ったからだ。
千佳は、あっと小さく声を上げた。広大なリンゴ畑のかなたに見事な裾野を広げた美しい山を見たのだ。それが津軽富士の名で親しまれる岩木山であることは、彼女にもすぐにわかった。
日は徐々に傾きつつある。
ゆっくりと暮色に染まる空と、ゆるぎなくそびえる大山。それら自然の織りなす静と動の見事なコントラストが、青森の空と大地に刻まれつつあった。
超然として眺めつつ、古屋は小さくつぶやいた。
「ただの墓参りだ」
ふいに行き過ぎたトラックの音のために、その声は、千佳の耳にまでは届かなかった。
岩木山の南麓に、嶽温泉という小さな温泉街がある。
有名な温泉地とは言えないかもしれないが、歴史は浅くない。津軽藩の歴史の中でも名君との誉れ高い津軽信政によって開かれたのが始まりとされているから、四百年に近い時の流れがある。
よほど繁華な土地ではない。むしろ十軒に満たない温泉宿とそれを取り囲む小さな集落が、岩木山の斜面に並んでやわらかな夕日に照らされている。
夕暮れ時にタクシーから降り立った千佳は、澄み渡った空気の中で大きく伸びをした。そのまま何気なくタクシーで登ってきた背後を振り返って、感嘆の声をあげた。
嶽温泉があるのは岩木山の山麓である。そこから下方には、広大な森林地帯が見渡せる。いくつもの嶺が折り重なるように連なっているが、険しさや激しさはなく、風のない大海原のようにゆったりとした起伏が、夕空の下に広がっている。
茜色に染められた、広大な白神山地の眺望が広がっていた。
「すっごーい、綺麗ですね、先生!」
千佳が額に手をかざしたまま告げると、タクシーから降りて来たばかりの古屋はいつもの仏頂面で応じた。
「豊かな日本語の話をしたばかりというのに、貧相な感想しか出てこないものだな」
「すごいものはすごい、綺麗なものは綺麗。いいじゃないですか」
そのあっけらかんとした声に、古屋は深々とため息をつきながら、それでも背後を顧みて、山下の眺望をまぶしげに眺めやる。
つかの間そうして立っていた古屋は、やがてまたゆっくりとステッキを動かして夕日に染まる坂を上り始めた。
ゆるやかな坂の先にあるのが、閑静な温泉街の中でもひときわ堂々たる造りの大きな建物だ。『嶽の宿』と記された一枚板の古びた看板とともに、岩木山の斜面にどっしりと構えたそれは、旅館というより堅牢な兵舎のような印象さえある。
「立派な建物ですね」
千佳がそんな感嘆の吐息をもらしている間にも、古屋はステッキを鳴らして正面の木の階段を登っていく。あとを追いかけた千佳が、玄関口で追いついたところで、ちょうど出迎えの人影が見えた。
出てきたのは、頑健そのものの建物とは対照的な、和服姿の華奢な青年であった。あまり日に焼けていない白い肌と撫で肩の体格が、より和服と溶け合って、一時代前の書生のような佇まいである。