夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!

 青年は、古屋に向かって丁寧に頭を下げてから微笑んだ。

「お待ちしていました、神寺郎さん」

 親しげなその声に、古屋の抑揚のない声が返る。

「待つことはない。押しかけているのは私の方だ」

「それでも待っていたんです」

 にこやかな笑みを崩さず答えた青年は、背後の千佳に気づいて、驚いたように眉を動かした。

「学生だ」

 古屋の返答は端的である。

「希望にあふれた未来をことごとくドブに捨てたいらしい。今年から私の研究室に学びに来ている」

「ああ、神寺郎さんが以前におっしゃっていた方ですね。まさか女性だとは思っていませんでした」

 広々とした宿のフロントに、穏やかな声が響いた。その声を聞きつけて、奥から仲居らしき中年の女性が出てきたが、青年は、短く指示を出したあと、「このお客様は、私が案内します」と答えて下がらせた。そういう動作のひとつひとつに、不思議と品がある。

 なかば見惚れるような千佳の視線に気づいて、青年はゆるりと一礼した。

「自己紹介が遅れました。はじめまして。『嶽の宿』の主人をつとめる皆瀬です。こんな変人の神寺郎さんに付き合って、はるばるお越しいただいてありがとうございます」

 しかめっ面の古屋を前にして、こんな応答ができる人も珍しい。千佳は戸惑いつつも慌てて会釈した。

「藤崎千佳です。民俗学科の院生をやっています」

「噂は神寺郎さんから聞いていますよ、フットワークが軽くて忍耐力もあって、今時珍しく有望な学生さんだとか……」

「真一君、根も葉もないことを言ってもらっては困る。藤崎が使えるのは足だけだ。頭は話にならん」

 身も蓋もないことを言う古屋の声が、しかしここではいつもの切れ味を発揮しない。つまり青年は一向に萎縮しない。

「あんなことを言っていますが、どういう理由であれ、神寺郎さんが人を褒めるのは極めつきに珍しいことですから……」

「真一君、私は立ち話をするためにわざわざこんな所まで出てきたわけではない。長旅でくたびれているし、休ませてもらってもいいかな?」

「はいはい、すぐ部屋に案内しますね」

 皆瀬は微笑とともに軽く頭をさげると、雑談を中断し、奥へと立って歩き出した。

 見送る古屋の顔に渋面がある。なんとなく違和感があるのは、そこにいくらかの困惑が混じっているからだ。千佳にしてみれば、とにかく新鮮で面白い。

「ここって、先生の定宿ってことですか?」

「そんな立派なものではない」

 投げ捨てるような返事が飛んでくる。

「でもすごく親しげに話していたじゃないですか?」

「彼は遠慮というものを知らんのだ。君と同類だな」

「でも、素敵な感じの人ですね」

「素敵?」

 いよいよ苦虫をかみつぶしたような顔をして古屋が答える。

「目が悪いのか、日本語の意味を間違えているのか、どっちだ?」

「目がいくらか悪いのは自覚していますし、日本語が特別得意だとも言いませんけど、素敵っていう言葉の意味くらいはよくわかっています。先生には一番縁のない言葉ですね」

 手厳しい応答に、さすがの古屋もわずかにたじろいだ。

「だいぶ性格が悪くなっていないか、藤崎」

「師を見て学んだ成果です」

 言うなり千佳は、鼻唄まじりにスーツケースを引きながら皆瀬を追って廊下を歩き出した。

 皆瀬の案内で千佳が通された部屋は、八畳の広々とした和室で、窓際には囲炉裏まで切られた贅沢な造りであった。窓は南向きで、今しも夜の闇に沈みつつある白神山地が見渡せる眺望を備えているし、間取りも敷地も非の打ちどころのない一室である。

「ここにひとりで泊まるんですか?」

 素っ頓狂な声をあげる千佳を見て、皆瀬の方は面白そうに、

「おや、神寺郎さんからそういう指示をもらっていたのですが、神寺郎さんと同じ部屋の方が良かったですか?」

「そういう意味じゃありません。ひとりで泊まるには立派すぎる部屋だって……」

「こんな九月の平日は、お客さんもほとんどいません。自由に使っていただいていいんですよ」

 千佳の反応をくすくす笑いながら受け流して、皆瀬は答えた。

 古屋と出掛けた時に泊まるのはだいたい駅前の安いビジネスホテルである。旅館に来たこと自体初めてである上、通された部屋がこれだけ豪勢だと、根が貧乏性の千佳はかえって落ち着かない。

「いつもは一泊三千円くらいの安いホテルを一部屋ずつ取るだけなんですよ。それだって研究費から出せない時は、自腹を切って泊まるんです。今日は先生もこんな立派な部屋なんですか?」

「まさか。神寺郎さんは自分の部屋ですよ」

 皆瀬の言葉に思わず千佳は、絶句する。背中のリュックサックをおろしかけたまま動きを止めてまじまじと相手を見返した。その視線に気づいて、青年は不思議そうな顔をしたのち、ふいに苦笑を浮かべた。

「その様子だと、神寺郎さんからは何も聞いていないんですね。相変わらず困ったお人だ」

「自分の部屋って……」

「より正確には、自分の妻の部屋と言えばいいでしょうか。十年前に亡くなった、神寺郎さんの奥さんの部屋です」

 静かな声で、とんでもない言葉が降ってくる。

 皆瀬は、座卓の上に、手際良く茶の支度をしながら、さらに静かに付け加えた。

「そして、私の姉の部屋ですよ」

 とぽとぽと、湯呑に茶を注ぐやわらかな音が聞こえる。

 千佳は時間が止まったように、しばし呆然としたまま身動きひとつできなかった。

「いろいろ聞きたいことがあるんですけど、先生」

 千佳の唐突な声に、古屋は伸ばしかけた箸を止めて、無闇と威圧的な一瞥を投げかけた。

 折しも夕食の席である。

 二十畳はあると思われる広々とした広間に、今は千佳と古屋が差し向かいで膳を挟んでいるだけだ。ほかに二組ほど食膳が用意されているが、すでに食事を終えたようで、なかばは片付けられ、人影ももちろんない。

 皆瀬の言うとおり、この時期の平日に泊まり客はほとんどいないようで、館内は静寂そのものであり、千佳が広々とした大浴場に行ったときも、ほかの客に出会うことはなかった。

 嶽の湯にたっぷりとつかり、疲れを落としてしまえば、あとは夕食である。この夕食も、千佳がこれまでの旅では見たこともないほど、豪勢なものであった。

 新鮮な刺身に箸を伸ばしながら、ふと千佳は空想する。

 他に客がいたとして、そういう人たちの目に自分たちはどう映るだろうかと。

 ステッキを突いた年齢不詳の男と、二十代の若い女が膳を挟んでいる姿の組み合わせは、どう考えても奇異である。

 不倫。

 そういう品のない言葉が浮かびつつも、千佳は心中で苦笑する。少なくとも、この目の前の変人学者にとっては、『素敵』と並んでもっとも縁遠い言葉であろう。だいたい湯上がりとはいえ、千佳はさすがに浴衣は遠慮して洋服姿だし、古屋はいつもの古びたジャケットであるから、そういう下世話なものより、一層得体の知れない二人組に見えるにちがいない。

巴特尓『内モンゴル近現代史研究 覚醒・啓蒙・混迷・統合』/民族の誇りと実存をかけた難しい選択に挑戦するモンゴル人
中村文則『土の中の子供』/芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第98回】怖い物見たさの極致