夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!

 それにしても、と千佳は眼前の学者に目を向ける。

 古屋に結婚歴があるとは知らなかったし、ましてその奥さんが亡くなっているとなると、事情は複雑だ。それを単刀直入に聞くのははばかられるが、何も教えられないままついて来た千佳としては、嫌味のひとつも言いたくなる。

「皆瀬さんって、先生の義理の弟さんだったんですね」

 千佳の声にはいくらかの険がある。

 味噌汁をすすっていた古屋は、片眉を上げてから短くつぶやいた。

「真一君も口が軽くなったようだな」

「なんで、奥さんの実家に私を連れてきたんですか?」

「連れてきたわけではない。ついて来ると言ったのは君の方だ。野暮用もある旅だと最初に言っただろう」

「亡くなった奥さんの実家に立ち寄ると聞いていればついて来ませんでした。だいたいただの学生だと言っても、実家に女性を連れて来られたら、奥さんだって気分はよくないと思いますよ」

「そうか、君は女だったな。すっかり忘れていた」

 いつのまにか、古屋の毒舌は普段の調子を取り戻している。

「しかし問題ない。妻は君のように了見の狭い女性ではない」

 にべもない応答である。

 箸を置いた古屋は、湯呑から茶をすすると、膳の上から色艶あざやかなとうもろこしを手に取った。

「嶽きみを知っているか?」

 また唐突である。話をそらすにしても露骨に過ぎて反発する気にもなれない。

「知っています」

「食べたことは?」

「……ありません」

「岩木山の水と空気をすって育った極上の唐黍だ。唐黍と言えば茹でて食べるのが一般的だが、嶽きみはこうして生のまま食べることもできる。味わいはもとより香りが豊かで、ひときわの逸品だな」

 言うなり、そのままもろこしをがぶりとやる。千佳はなかば呆れた顔で、

「それがどうしたんですか。嶽きみがいくらおいしくても、先生の配慮にかける振る舞いの理由にはなりません」

「どうせ食べるなら、麓まで来て食べるのが最高なんだ」

 古屋は勢いよくがぶりがぶりとやりながら続けた。

「君も食べてみたまえ」

 言われてなかばやけになって千佳もほおばる。しかし食べてみればこれがまた、予想をはるかに越えて美味である。

 芳醇な甘い香りに思わず千佳は頬をほころばせる。

「おいしい!」

「相変わらず単純な奴だ」

 笑ったばかりの千佳の頬がたちまち引きつる。もろこしにかじりついたまま睨みつけると、古屋の方は、食べ終えた残骸を皿に戻し、悠然と茶をすすっている。

「私は少し辺りを歩いてくる。あとはひとりで好きにやりたまえ」

 一方的にそう言うなり返事も聞かず、杖を突いて広間を出ていった。

「おや、いつのまにかおひとりですか?」

 ふいにそんな言葉が千佳の耳に響いたのは、古屋が立ち去って、数分が過ぎた頃である。

 茶碗を握ったまま肩越しに振り返ると、広間の入り口に、盆を持った皆瀬が立っている。

「女性をひとり食卓に残して立ち去るなんて、神寺郎さんも困った人ですね」

 にこやかな笑みとともに千佳の傍までやってきた。千佳は敢えて平然と箸を運んで山菜の天ぷらを咀嚼している。

「いつものことです。いつだって人のことなんて関係なく、自分のペースで物事を進める先生ですから」

「なるほど、そうかもしれません」

 笑顔のまま頷きつつ、そのまま傍らに腰をおろし、

「せっかくおいしいお酒を持ってきたのに、残念ですね」

 お酒ですか、と千佳が見返すと、皆瀬は細い腕でそっと盆の上の四合瓶を取り上げた。

『陸奥八仙』という銘柄が見えるが、それがどういう酒かはわからない。千佳は人並みに酒は飲めるが、格別こだわりを持ったことはない。

「八戸の酒ですよ。神寺郎さんの好きな一本なんですが……」

「先生ってお酒飲むんですか?」

「ここに来たときはいつもこの四合瓶を飲むんですが、その様子では、ほかではあまり飲みませんか」

 皆瀬も軽く首を傾げている。

「昔は神寺郎さんと姉さんと三人でよく飲んだんですが……」

「先生、ちょっと散歩に行ってくるって言っていましたから、そこらへんにいるはずです。私、探してきますね」

 立ち上がりかけた千佳を、皆瀬はやんわりと制した。

「いいですよ。どうせ見つけたところで気が向かなければ戻ってはきません。それよりせっかくですから二人で始めていましょう。じき帰ってきます」

 言っているそばからすでに酒杯に瓶を傾けている。

 そのまま自分の酒杯も取り上げて、乾杯、と皆瀬はおだやかに告げた。一連の動作は優美といってもよいほどで、千佳も思わずつられて傾ける。甘味と酸味のバランスのとれた味わいが広がって、千佳は軽く目を見張った。

「おいしいですね」

「でしょう。神寺郎さんはああ見えて、意外にグルメですからね」

 答えながら皆瀬は自らも二杯目を注いだ。

「お仕事はいいんですか、皆瀬さん」

「今日はほかに二組の宿泊客がいるだけです。もう食事も終わりましたし、あとは任せてありますから心配はいりませんよ」

 にこりと微笑むと、まるで歌舞伎役者のようにあでやかだ。

「先生の奥さんってきっと綺麗な人だったんでしょうね」

 思わずつぶやく千佳に、皆瀬は不思議そうな顔をする。

「だって皆瀬さんのお姉さんって、いかにも美人な感じがしますから」

「美人かどうかはわかりませんが、健脚の人でしたよ、姉は。あの頃は神寺郎さん以上に、よく歩く民俗学者でしたから」

「奥さんも同じ職業だったんですか?」

 千佳の声に皆瀬はうなずきながら、すっと手をのばして、空になった千佳の酒杯に四合瓶を傾けた。

「仕事のことまでは私もよく知りませんが、神寺郎さんと出会ったのも学会でのことときいています。結婚してからも二人そろってあちこち飛び回っていました。姉の健脚だと、岩木山だってここから片道三時間で登ってしまいます。それでいて息も乱れないんですから。一緒に登る神寺郎さんの方がいつもふらふらになっていたくらいです」

 そこまで言って、ふいに皆瀬は口をつぐんだ。眼前の千佳が、困惑顔をしていることに気付いたからだ。

 やがて皆瀬は得心したように苦笑した。

「神寺郎さんが今のように足を病む前の話ですよ」

「先生が普通に歩いていた頃?」

「そうです。そのころは、古屋先生は毎年姉と二人で、ここから岩木山に登っていたんです。姉が亡くなるまではね」

「奥さんはどうして……」

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