〈第14回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」

■連載小説■ 加藤実秋「警視庁レッドリスト」〈第14回〉
慎の異動に違和感を覚えるみひろ。
そこへ「内通者は僕です」と慎から出動を命じられた。


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 車が停まったのは、千葉(ちば)県浦安(うらやす)市の旧江戸川(きゅうえどがわ)に近い住宅街だった。

「あのアパートですか」

 シートベルトを外し、みひろはフロントガラス越しに通りの先の建物を見た。二階建ての木造アパートで、薄茶色の壁は所々黒ずみ、ヒビも走っている。築三十年以上経っているだろう。

「ええ。二階の左から二番目の部屋です」

 慎もシートベルトを外して答え、みひろは視線を動かした。アパートの二階にはベランダはなく、下に柵の付いた大きめの窓が等間隔で並んでいる。左から二番目の部屋の窓は開け放たれ、網戸の奥に明かりが点っているのがわかった。時刻は九時半過ぎ。八月も下旬になり、朝晩は少しずつ涼しくなってきた。

「賃貸契約の名義人は、堤。泉谷と会うための部屋です。浦安市を選んだのは、第二機動隊の本部と独身寮が江戸川区の臨海地区にあるのと、人目を避けるためでしょう。警視庁の職員が自宅以外に不動産を借りたり買ったりするのは禁止されていませんが、届出が義務づけられており、堤は無届けです」

「ははあ。で、『明確な規則違反』な訳ですね」

 窓に目を向けたまま、みひろは相づちを打った。

 部屋の間取りは、多分六畳の和室と二畳か三畳の台所。トイレは付いているかもしれないけど風呂なしで、室内もかなりボロいはずだけど、それが逆に「愛の巣」「忍ぶ恋」感をアップさせるのかも。ぐるぐる考えていると、左から二番目の部屋の網戸が開いた。顔を出したのは、面長で顎がしゃくれ気味の男。資料の写真よりぽっちゃりして見えるが、堤和馬だ。色の褪せたTシャツとハーフパンツという恰好で、窓の外に渡された洗濯ロープにタオルや靴下などを干し始めた。

「間もなく、泉谷が来るはずです。彼も今日は当番明けで非番なので」

 慎の声と、スマホのカメラのシャッターを切る音が重なる。堤の姿を撮影しているのだろう。振り向き、みひろは訊ねた。

「よく知ってますね。室長は、いつ堤さんと泉谷さんの関係を知ったんですか?」

「一年ほど前に、堤がいわゆるゲイタウンに通っているという噂を耳にしました。職員と職場に関する噂や目撃談、ネットの書き込みなどをチェックし、必要性が認められれば調査を行うのも監察係の職務です」

 滑舌よく語り、慎は撮影した写真を確認しながら中指でメガネのブリッジを押し上げた。

 監察係の話題になると慎の口調は自慢めいたものになり、異動になった今でも「職務です」のように現在形で話す。前からそれに気づいていたみひろだったが、なぜかイラッとし、胸に引っかかるものも覚えた。少し考え、さらに訊ねた。

「意外と下世話、じゃない、『実話ハッスル』的なこともしているんですね。監察係では、どんな案件を担当していたんですか? すごく印象的だったり、大変だったものは?」

「守秘義務。常識どころか、公務員法で定められた政令ですよ」

 冷ややかな声と眼差しで答え、慎はみひろを見た。落胆しつつもうんざりし、みひろが「はいはい。そうでした」と返した時、慎は言った。

「泉谷です」

 前を向いたみひろの目に、通りを浦安駅方向から歩いて来る男が映った。機動隊員なので大柄で筋骨隆々な姿をイメージしていたが、中肉中背。デイパックを背負い、半袖のポロシャツにジーンズ姿だ。

 泉谷はみひろたちの手前で通りを横切り、アパートの敷地に入った。それに気づいて堤が声をかけ、泉谷は片手を挙げて何か応える。二人とも笑顔だ。

「九時四十四分。送り込み。アパート、『むつみ荘』」

 泉谷が建物脇の階段を上り、二階の部屋に向かうのを見守るみひろの耳に、慎の声とシャッターの音が聞こえた。

 しばらくすると、堤と泉谷がアパートから出て来た。通りを浦安駅方向に歩いて行く。みひろと慎は車を降り、尾行を開始した。

 五分ほど歩き、堤たちは大通り沿いのコンビニに入った。十分ほどで出て来て、同じ道を戻る。店の脇で待っていたみひろたちは、距離を空けて尾行を再開した。

 堤たちは、静かに話しながら歩いた。堤は手に弁当や飲み物などが入っていると思しきエコバッグを提げ、泉谷は木製の柄のついたアイスキャンデーを持っている。

 一口囓(かじ)った後、泉谷はアイスキャンデーを堤の顔の前に差し出した。首を伸ばした堤が囓るとアイスキャンデーは割れ、水色の破片が地面に落ちた。

「おい!」

 アイスキャンデーを引っ込め、泉谷が声を上げた。憤慨とからかいが半々といった口調だが、顔は笑っている。堤も眉根を寄せて何かいい訳しながらも、白い歯を覗かせていた。

 いちゃついてるように見えるけど、友だち同士でもあれぐらいのじゃれ合いはするわよね。そう思い、みひろは二人が履いた、デザインは違うが色は同じ白のスニーカーを眺めた。

 ふと視線を上げると、泉谷が空いた方の手を隣に伸ばしていた。泉谷はエコバッグの持ち手を摑み、それに気づいた堤はエコバッグを泉谷に渡した。五秒足らずの出来事で、二人とも無言。それでもこなれた動作と穏やかだが親密な空気に、みひろは「ああ。この二人は恋人同士なんだ」と感じた。

「身近にいないからか、ゲイのカップルってBL(ボーイズラブ)のマンガやドラマに出てくるようなすごいイケメンか、バラエティー番組で見るオネエタレントみたいなイメージでした。でもごく普通の、カフェの席で隣り合ったり、職場で机を並べていたりしても何の違和感もない人たちなんですね」

 よく見れば泉谷は骨格がしっかりしていて、堤はやや小柄。並んで歩く背中を見ながら、みひろは言った。隣の慎がこちらを振り向いたのがわかったので、みひろは、

「これこそ偏見ですね。すみません」

 と付け足し、前を見たまま頭を下げた。すると、慎は言った。

「それは偏見ではなく、先入観ですね。謝罪には及びません」

「そうでしょうか」

「はい。常に自分を客観視して自戒ができるのは、三雲さんの長所ですね。これもまた、警察官として武器になります」

 顔を上げると、慎もみひろを見ていた。口元にはいつもの笑み。

 褒められるのは嬉しいけど、この笑顔がセットだと微妙だな。そう思いつつ、みひろも微笑んで「どうも」と返すと、慎はさらに言った。

「ところで、BLのマンガを読むんですか?」

「ええまあ。嗜(たしな)みとして」

「嗜み? なんの?」

 と怪訝そうに首を傾げた慎だが、それ以上は訊いてこない。振り向き、みひろは問うた。

「豆田係長から聞いたんですけど、室長のお兄さんってマンガ家の天津飯(てんしんはん)さんなんでしょう? 私、コミックスを持ってますよ」

「そうですか。ありがとうございます」

「高くて買えないけど、AX-TOKYO(アックストウキョウ)の服も好きです。あと、この間お目にかかった沢渡暁生(さわたりあきお)さん。室長のお父さんなんて、びっくり。すごいクリエーター一家ですね。しかも、セレブでリッチ。完璧じゃないですか」

「完璧な家族なんて、いませんよ」

 視線を前に戻し、慎はメガネに落ちた髪を搔き上げた。その横顔を見上げ、みひろは続けた。

「そうかなあ。ああでも、沢渡さんって意外とお茶目っていうか、独特のノリがありそうですね。この間の室長とのやり取りも──」

「完璧な家族がいないように、『ごく普通の人』もいません。カフェや職場で隣り合っても気にならない、風景の一部のような人間でも、きっかけさえあれば豹変する。普通だと思われている人間が、実は一番危うく油断ならない存在だということです」

 一般論、あるいは堤たちを指して言ったのか判断に迷う口調だった。しかし真顔で、言葉と眼差しにはいつになく熱が感じられる。

「はい」

 戸惑いながらみひろは応え、慎は黙った。アパートに到着し、堤たちは敷地の中に入って行った。

 


「警視庁レッドリスト」連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
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