〈第15回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」
慎のかつての部下、監察係の本橋だった。
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同日同時刻。慎はまだ本庁にいた。本庁舎十一階の廊下の奥まった場所で、この先に人事一課監察係の取調室がある。午後八時を回り廊下はしんとしているが、二枚ある取調室のドアのガラス部分には、明かりが点っていた。警備部警備第一課課員への聞き取り調査が、まだ続いているのだ。
尻に火の点いた持井が警察庁に根回しして、監察を受け入れるように警備部に圧力をかけたな。そう思い、昼間簡単に自分の挑発に乗った持井の姿も蘇って、慎は口を歪めて笑った。手には監察係の誰かに見つかった場合、「庶務係に提出しに来た」と言い訳するための書類のファイルを持っている。
と、取調室のドアが開いた。「失礼します」と室内に一礼して出て来たのは、警備実施第一係の君島由香里(きみじまゆかり)。昼間伊丹と話している時にも見かけたが、髪を肩におろし、赤いメタルフレームのメガネをかけている。
廊下を歩きだした君島が、慎の前に差し掛かった。気配を感じて振り向いた君島の目と、慎の目が合う。新海弘務(しんかいひろむ)の件で何か言って来るかと身構えたが、君島は軽く会釈して慎の前を通り過ぎて行った。複数の監察官から一時間以上あれこれ訊かれたはずだが、平然として疲れた様子もない。
大したツラの皮だな。新海との関係もデータをコピーしたことも隠し通し、柳原の妻に収まるつもりか。冷ややかな気持ちを覚える一方感心し、慎はパンプスの靴音を響かせながら遠ざかっていく制服の背中を見送った。
続けて、もう一枚の取調室のドアが開いた。堤和馬が出て来て、一緒に出て来た監察係の若い男と短く言葉を交わしてから廊下を歩きだした。若い男は取調室に戻る。
「堤巡査部長」
自分の前に来た堤に、慎は声をかけた。足を止めて振り向いた堤に、さらに言う。
「警務部の職場環境改善推進室の阿久津です。少しよろしいですか?」
「はあ」
怪訝そうにしながらも、堤は頷いた。慎は目の端で取調室に動きがないのを確認してから、こう切り出した。
「折り入ってお話したいことがあります。あなたと、第二機動隊の泉谷太郎巡査長の私的な関係について」
堤は絶句し、顔を強ばらせた。すかさず慎が、「あちらで」と廊下の先を指して歩きだすと、黙って付いて来た。エレベーターホールまで行き、慎は堤に銀座の外れにあるカフェの名前を伝え、「先に行っています」と言って下りのエレベーターに乗った。
慎が入店して二十分後、堤がカフェに来た。半袖のボタンダウンシャツにチノパンという私服に着替え、デイパックを背負っている。
堤が向かいの席に座りデイパックを下ろし、店員にアイスコーヒーを注文するのを待って慎は話を始めた。
「僕は四月まで監察係にいて、その頃からあなたをマークしていました」
言いながら傍らのバッグからファイルを出し、十枚ほどの写真をテーブルに並べる。どれも堤と泉谷が写っており、今日浦安のアパートで撮影したものの他に、二人が手をつないでいたり、泉谷が堤の肩を抱いていたりするカットもあった。写真を見るなり、強ばったままの堤の顔はみるみる青ざめた。そこに店員がアイスコーヒーを運んで来て、堤は覆い被さるようにして写真を搔き集めた。その姿を見ながら、慎はさらに言った。
「千葉県浦安市に無届けでアパートを借りていますね。監察係に報告します。無論、あなたの規則違反を知りながら、同じアパートで宿泊を伴う居住を行った泉谷巡査長も同罪。懲戒処分の対象になります」
「待って下さい!」
堤は身を乗り出した。隣のテーブルの女性客に振り向かれ、堤は声を小さくして続けた。
「アパートはすぐに解約します。見逃してもらえませんか?」
「できません。あなたの問題は、もっと根本的なところにありますし」
慎がきっぱり返すと、堤は体を起こして強い口調で訊ねた。
「それは、僕がゲイだということですか?」
「規則違反がそれに起因するなら、答えはイエスですね」
注意深く言葉を選び、慎は答えた。堤が前に突き出し気味の顎を引いて口をきつく結び、俯く。先に注文しておいたコーヒーを一口飲んでカップをソーサーに戻し、慎は告げた。
「ただし、全く術(すべ)がない訳ではありません。僕の指示に従えば、今回の件には目をつぶりましょう」
「指示?」
堤が顔を上げ、慎は頷いた。
「監察係が、警備実施第一係のパソコンから抜き取られたデータを追っているのはご存じですね。その件で、あなたに動いてもらいたい。ただしデータの行方を追うのではなく、誰が何のためにデータを警備実施第一係に持ち込んだのかを調べて下さい」
「そんな。無理です。僕なんか下っ端で」
「下っ端だからこそ、目立たずに動ける。それにあなたの趣味はオンラインゲームで、IT全般に造詣が深いと聞いています……堤さん。これは僕の最大限の譲歩です。断るというなら、それでも構いませんが」
力関係を示しながら促す。
「……わかりました。やります」
堤は思い詰めた顔で応えた。「いいでしょう」と頷き、慎はもう一口コーヒーを飲んだ。
抜き取られたデータは、東京プロテクトではなく赤文字リストだった。知った時は混乱したが、取り戻せさえすれば、データの正体などどうでもいい。とはいえ、それが中森の行動と関係している可能性は高く、正体を明らかにすれば、データの在処も判明するかもしれない。何より、データの内容によっては持井を失墜させ、俺が返り咲くための取引材料になる。
俺の思惑は監察係に知られた。だが持井は、すぐに手は下さない。俺に中森とデータを追わせ、見つけ出した瞬間に奪い取るつもりだろう。しかし、そうはさせない。先を読み、狡猾(こうかつ)に立ち回ってやる。組織にとってより有益で忠実な人間が生き残るのが、警察だ。
カップを戻したソーサーをテーブルの脇に除け、慎は堤に今後の指示を与え始めた。
7
車のドアを開けて駐車場に降り立つと、湿気をはらんだ強い風が吹き付けてきた。みひろは顔にかかった髪を指で払い、慎に続いて駐車場を進んだ。警視庁警備部第二機動隊の本部は新左近川(しんさこんがわ)と荒川(あらかわ)、旧江戸川に囲まれた埋め立て地にあり、広い敷地に低層の建物がいくつか建っている。
今朝みひろが出勤すると、慎に「泉谷太郎に会いに行きます」と告げられ、二人で車に乗り本庁を出発した。
慎は正面の大きな建物に入り、受付に向かった。こちらの身分と目的を告げると、受付の女性職員は「泉谷の小隊は訓練中です」と応え、場所を教えてくれた。女性に礼を言い、慎とみひろは建物を出た。
門から敷地を出て、徒歩で通りを進んだ。広い通りには病院や公務員宿舎など大きな建物が並び、人と車が行き交っている。時刻は午前十時前で日射しは照りつけるようだが、風のおかげでさほど暑さは感じられない。荒川、旧江戸川が東京湾に注ぐ河口が近いので、風にはかすかに潮の匂いも感じられた。
五分ほど歩くと、新左近川に出た。通りの先には、アーチ状の白い鉄骨に支えられた大きな橋がある。橋の両脇には大人の胸の高さほどのフェンスが取り付けられ、その前に景色を眺めているのか、男性が一人立っていた。
「このあたりのはずなんですけど、いませんね」
橋の脇の土手に立ち、みひろは周囲を眺めた。慎が無言で深緑色の川を見ているので、みひろは問うた。
「泉谷さんに会ってどうするんですか?」
「堤の言動と、規則違反の見落としがないかの確認をします」
「なるほど」
あくまで職場環境改善推進室の調査って体(てい)でいく訳ね。心の中でそう付け加え、みひろは頷いた。
昨夜は本橋がスナック流詩哀を出て間もなく、みひろも独身寮に帰った。慎が抱えているものを知りたいとは思ったが、知った後どうするかまでは考えていなかった。ましてや、こんなに大きく厄介な事件が絡んでいるとは想像していなかったので、慎を止めるにしろ、どう切り出したらいいのかわからない。それでも、本橋の「当事者だし」や持井の「躊躇なく潰すぞ」という言葉を思い出すと、胸に焦りと不安を覚えた。
どぼん、と音がして、みひろは顔を上げた。橋から少し離れた川面(かわも)に、波紋が広がっている。はっとして視線を滑らせると、フェンスの前にいた男性の姿がない。
「飛び込み!? 助けなきゃ」
そう言って、みひろは土手を降りようとした。川は流れは緩やかだが、深さはかなりあるはずだ。が、慎に、
「必要ありません」
と断言され、みひろは足を止めて振り返った。「見ろ」と言うように慎は前に顔を向け、みひろがつられると、川面にフェンスの前にいた男性が浮いていた。白いTシャツにジーンズ姿の目と口を閉じ、動かない。
意識を失ったのかと思ったが、男性は両腕と両足を軽く開き、リラックスしているようにも見える。その姿にみひろが違和感を覚えた時、エンジン音がした。川下から、大型のモーターボートが一艘(そう)近づいて来る。甲板には四、五名の男性がいて、そのうちの二名は青いウエットスーツを着て足ひれを付け、ヘルメットをかぶっていた。顔には、シュノーケルマスクも装着している。
フェンスの前にいた男性から少し離れた位置で、モーターボートは停まった。ウエットスーツの男性の一人が舳先(へさき)に行き、シュノーケルをくわえて足から川に飛び込んだ。もう一人のウエットスーツの男性も飛び込み、別の男性がオレンジ色の板のようなものを渡した。ウエットスーツの二人は両腕で水を搔いてフェンスの前にいた男性に近づき、一人が男性の頭の後ろ、もう一人は足元に回った。頭の後ろの一人がフェンスの前にいた男性の脇の下に手を差し入れて体を支え、耳元に何か語りかけた。同時に片手を伸ばしてフェンスの前にいた男性の首筋に当てる。意識レベルと脈拍を確認しているらしい。その間に足元の一人は、オレンジ色の板のようなものを、フェンスの前にいた男性の体の下に滑り込ませる。水中用の担架だろうか。
よかった。でも、異常に早く助けが来たな。そう思って滑らせたみひろの視線が、モーターボートの船体とブリッジの脇に記された「POLICE」「警視庁」の文字を確認する。
「ひょっとして、訓練? あの人たちが第二機動隊ですか?」
驚いて訊くと、慎は首を縦に振った。
「はい。遭難者役の男性も、隊員です」
「なんだ。早く教えて下さいよ」
憤慨しながらも納得する。言われてみれば、フェンスの前にいた男性のあの姿勢は水中で溺れないようにする浮き方だと、どこかで見た覚えがある。
モーターボートに乗った隊員たちは、深緑色で、両肩から二の腕にかけてオレンジ色の切り替えが入ったシャツと深緑色のパンツという制服姿だ。同じ恰好の隊員数名が橋の上にもいて、集まった野次馬にこれは訓練だと説明している様子だ。
「機動隊って、紺色の制服に野球のキャッチャーみたいなプロテクターを付けて大きな盾を持って街頭で警備ってイメージでしたけど、水難事故の救助もするんですね」
「警視庁の機動隊には九つの部隊と特科車両隊があり、前身となった警視庁予備隊時代の特徴や本部の所在地、シンボルマークなどからそれぞれニックネームが付けられています。たとえば第四機動隊は『鬼(おに)』、第七機動隊は『若獅子(わかじし)』、第八機動隊は『忍(しの)び』。第二機動隊は『河童(かっぱ)』で、これは水害警備に多く配され、装備と訓練が行き届いていることに由来します」
「そうなんですか。カッコいいけど、ザ・体育会系、警察の中でもぶっちぎりの男臭さって感じですね。で、泉谷さんは?」
私見を述べ、みひろは身を乗り出してモーターボートの上の隊員たちに目をこらした。フェンスの前にいた隊員が乗った担架は船上に引き上げられ、その周りにウエットスーツの隊員と他の隊員が集まっているが、泉谷はいない。
と、また動きがあった。モーターボートが橋の下に移動して停まる。すると橋の上からオレンジ色のロープが数本投げ落とされ、モーターボートの舳先に立つ隊員がそれを受け取った。
「まだ何かやるんですか?」
みひろの疑問に答えるように、橋にいた隊員の一人が、仲間の手を借りながらフェンスをまたいで橋の外側に出た。気づけば、白いヘルメットの下から覗く隊員の顔は泉谷だ。
「あっ」
と声を上げたみひろは、泉谷が別の隊員を背負っているのにも気づいた。
「要救助者を警備艇に収容するという訓練です。橋から警備艇までは約十メートル。ビルの三階ほどの高さがありますが、要救助者への身体的ダメージを避けるために急降下はできないので、ロープを登る時より高い技術が求められます」
淡々と淀みなく、慎が解説する。それを聞きながらみひろが見守っていると、泉谷は
手袋をはめた両手でロープを握り、橋のコンクリートの側壁に両足を乗せて下降を開始した。両足で側壁を蹴って勢いを付け、ロープを握ったり放したりして速度を加減しながら、背中の隊員を揺らさないように降りて行く。
「すごい筋力とバランス。昨日は気づかなかったけど、ちゃんと鍛えているんですねえ」
みひろが感心すると、慎は呆れたように言った。
「当然でしょう。機動隊の隊員はボディビルダーではありません。見せるためではなく、使うための筋肉を鍛えているんです」
「はあ」
そう言う室長には、見せる筋肉も使う筋肉も付いてませんよね。いつもならそう返してやるところだが、本橋に言われたこともあり、ためらって口にできない。
みひろが自分が監察係から飛ばされた理由と、データ抜き取り事件を追っていることを知っているとわかったら、慎はどう思うのだろう。想像もつかないが、これまでのような気軽なやり取りは、できなくなるかもしれない。みひろは胸にこれまでに感じたことのない切なさを、ふいに覚えた。
泉谷は無事にモーターボートの甲板に到着した。背負っていた隊員を下ろすと、橋の上の野次馬たちから拍手が起きた。ヘルメットの縁に手を当てて橋を見上げ、泉谷は白い歯を覗かせて一礼した。