〈第15回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」

■連載小説■ 加藤実秋「警視庁レッドリスト」

みひろの元を訪れたのは、
慎のかつての部下、監察係の本橋だった。

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 みひろと慎が橋の上に行くと、泉谷の所属する小隊の隊長がいた。あらかじめ慎が話を通しておいたようで、隊長は泉谷を呼んで慎たちの調査に協力するように命じた。隊長と他の隊員たちが警備艇で次の訓練地に向かい、泉谷は慎とみひろを川沿いの公園に誘った。次の訓練地は新左近川の上流で、泉谷も後から合流すると言う。

「へえ。職場環境改善推進室ですか。しばらく本庁には行ってないけど、そんな部署ができたんですね」

 のんびりと言い、泉谷はタオルで顔の汗を拭った。川に面したベンチに、慎とみひろと並んで座っている。正午近くなって風は止んだが、ベンチは木陰になっているので涼しい。

「ええ。警備実施第一係によりよい職場環境づくりのための聞き取り調査をお願いしたんですが取り込み中で、係員の周辺の職員に予備調査を行うことになりました。堤さんから聞いていませんか?」

 メガネの奥の目を隣に向け、慎が問うた。泉谷はきょとんとしてタオルを機動隊の支給品のバッグにしまう手を止め、首を横に振った。

「いえ。なにも」

「……そうですか」

 一拍空けて返し、慎は視線を落として前髪を搔き上げた。怪訝に思い、みひろは顔を見ようとしたが慎は体ごと泉谷に向き直り、質問を続けた。

「堤さんとは、二年前に東中野(ひがしなかの)署の地域課に所属していた時からの付き合いですね。あなたが堤さんの一年後輩で、お互い異動になった今も親しくしているとか」

「ええ。東中野署の地域課は雰囲気がよくて、当時のメンバーみんなで仲良くしているんですけどね」

 泉谷は答えた。慎が「付き合い」と「親しく」を強調したのは、鎌(かま)をかけたのだろう。しかし泉谷は「みんなで仲良く」とカモフラージュしたものの、焦ったり警戒したりする様子はない。

 堤さんとの交際が私たちにバレて調べられてるって、気づいていないんだな。みひろはそう悟るのと同時に、こうして向き合った泉谷はどこか線が細いとか、女を拒否するオーラを発しているとかいうこともなく、「同い年の会社員の彼女がいる」と言われてもおかしくないなと感じた。そしてそんな自分を「これも偏見だ」と戒める一方、とても大切で意味のあることを学んだ気もした。慎に伝えたら、どう言うだろう。そうみひろが考えていると、泉谷は話を続けた。

「堤さんとは、ゲームとかパソコンとかのオタク話で盛り上がれるんです。僕は部活でそこそこ活躍したから機動隊に配属されましたけど、本当は理系なんですよ」

「確かに。高校・大学と陸上部の長距離選手で、インターハイでは準優勝という経歴に目が行きますが、大学は理学部の化学科でしたね」

 慎が返し、みひろも第二機動隊の本部に向かう道中で目を通した、泉谷の身上調査票を思い出した。「ええ」と泉谷が頷く。

「堤さんも理系で体育会系のノリが苦手だから、僕が東中野署に赴任した時は、『脳みそまで筋肉なヤツが来た』って煙たがってたそうなんですよ。でも、話してみたら僕もオタクで。酔っ払うと必ず、『第一印象が悪かったぶん、現実より割り増しでいいヤツに思えちゃうんだよな』って絡まれるんで、ちょっとうんざりしてます。かと思うと、急に真顔で『ごめんね』とか『ありがとね』とか言うんで、憎めないんですけどね。もちろん、誠実で勉強熱心な先輩として尊敬もしています」

 最後のワンフレーズは顔を引き締めて言ったが、それ以前は輝くような笑顔。話の内容もグチを装ったノロケという、恋愛が上手くいっている人の典型的なパターンだ。みひろは改めて「この人と堤さんは恋人なんだ」と思うのと同時に、二人の今後を考えると複雑な気持ちになった。

「なるほど」

 慎が相づちを打った。みひろは首を伸ばしてその横顔を覗いたが、いつもの無表情で胸の内は読めない。

 それから、慎は堤が自分の職務と職場についてどう話しているか、プライベートでの様子はどうかなどを訊ね、泉谷は丁寧に答えた。三十分ほどで泉谷と別れ、慎とみひろは第二機動隊の本部に戻り、車で本庁に帰った。

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 ぐう、とくぐもった音が車内に流れた。運転席の慎が書類から顔を上げると、助手席のみひろは、

「すみません」

 と言ってスーツのジャケットの上から腹を押さえた。書類を片付け、慎は告げた。

「今日はもう、帰ってもらって構いませんよ」

「いえ。申し訳ありません」

 ?られたと思ったのか、みひろは頭を下げて傍らに置いたペットボトルのミネラルウォーターに手を伸ばした。

「本当に構いません。明日まで動きはないでしょうし」

 さらに告げ、慎はフロントガラス越しに前方を見た。

 ここは地下鉄半蔵門駅にほど近い通りで、前方には堤が暮らす独身寮がある。時刻は午後七時を過ぎ、十九階建てのタワーマンションの独身寮は、半分ほどの部屋の窓に明かりが点っていた。堤は三十分前に帰寮し、九階にある彼の部屋からも白い明かりが漏れている。浦安の堤のアパートに行ってから、二日。「規則違反の見落としの確認」という名目で、慎はみひろと堤の行動確認を続けている。

「でも」

「実は、今回の調査は再考しようと思っています。三雲さんの同性間の恋愛についての意見はもっともですし、やはり監察係への越権行為は問題かと」

「じゃあ、持井さんに言ったことは? 『身内の所為に目を配り、非違事案が疑われた場合は直ちに精査し報告するのが警察官としての義務』って啖呵を切りましたよね」

 ムダに記憶力がいいな。心の中でうんざりし、慎は隣に顔を向けた。

「その通りですが、時期が悪い。監察係だけでなく、堤が所属する警備実施第一係も取り込み中ですから」

 するとみひろは一旦目を伏せ、意を決したようにこちらを見た。

「その『取り込み中』なんですけど、実は室長にお話が――」

「とにかく、後は任せて下さい。少し歩きますが、一番町(いちばんちょう)にパンの名店があるのをご存じですか? 天然酵母を使っていて、某国の大使館にも食パンを納めているとか」

「郵便局の並びでしょ? 大ファンです! 食パンやバケットはもちろん、デニッシュ系もおいしいんですよね。店構えもおしゃれだし」

 狙い通りみひろは目を輝かせて語りだしたので、慎はメガネのブリッジを押し上げ、ダメ押しで問いかけた。

「では、フルーツサンドイッチは試しましたか? 店頭には並んでおらず、注文すると作ってくれます。ブルーベリー入りの食パンを使い、具は季節のフルーツとカスタードクリーム」

「食べます! じゃなくて、買って帰ります。お疲れ様でした」

 言うが早いか、みひろはバッグを摑んでドアを開けた。車を降り、夕闇の通りをパン店の方向に小走りに駆けて行く。

 息をつき、慎は運転席のシートに寄りかかった。

 慎には無関心のはずのみひろが、最近おかしい。個人的なことをあれこれ知りたがったり、様子を窺っているような気配を感じる。かと思えば、難しい顔で何やら考え込んでいたりもする。慎もみひろに関心はないが、現状最も身近な人間であり、注意する必要がありそうだ。

 五分ほど待ったがみひろが戻って来る様子はなく、慎はスマホを出して堤に連絡をした。返事が来たので車を降り、徒歩で独身寮の向かいにある劇場の駐車場に入った。十五分ほどで、ポロシャツにコットンパンツ姿の堤が現れた。

「泉谷に会いました。彼に、僕との取引について話していないんですか?」

 駐車場の奥まった車の陰に行き、慎はまず訊ねた。「ええ」と伏し目がちに堤は答えた。

「なぜ?」

「悪いのは僕だし、余計な心配をかけたくないんです。それに取引をすれば、何もなかったことになるんでしょう?」

「取引をして結果を出せば、です。まあいいでしょう。首尾は?」

 周囲を確認し、慎は本題に移った。劇場の客用の駐車場なので、芝居が終わるまで誰も来ないはずだ。言い訳するように、堤が答える。

「手は尽くしていますが、肝心のパソコンが押収されてしまっているので難しいです」

「僕の指示は守りましたか? 周りの人間に、監察係の調査で何を訊かれたか確認しろと言いました」

「もちろんです。でもみんな訊かれたのは、問題のパソコンを使ったことがあるか、中森さんと付き合いはあったか、データの抜き取りが起きた時はどこで何をしていたか、みたいな僕の時と同じ内容でした。パソコンを使ったことのある人はたくさんいましたけど、抜き取られたデータと関係がありそうな人は、今のところいません」

「堤さんも、問題のパソコンを使っていたんですよね。手がかりになりそうなことがなかったか、考えて下さい」

「ずっと前に何度か調べものをしただけだし、特に何も。僕も私物のパソコンを持ち歩いていて、基本はそれを使うので」

 さらに言い訳がましく答え、堤は俯いた。慎が冷ややかに「そうですか」と返すと、焦りを覚えたのか堤はこう続けた。

「だけど、何も収穫がなかった訳じゃありません。同じ警備第一課の警備情報第二係にゲーム仲間がいて、そいつが噂レベルですけど情報を持っていました」

「情報とは?」

 照明のせいか、やけに青白く見える堤の顔を見て、慎は問うた。警備情報係は警備実施に係わる情報の収集や分析を行う部署で、第一から第三係まである。堤も慎を見て答えた。

「問題のパソコンには、使った人が作ったファイルが複数あったそうです。書類の下書きとか写真とか、大したものはなかったみたいですが、その中の一つだけが全然関係のない別のデータで上書きされて、読めなくなっていたそうです。そういう、特定のファイルだけを使えなくできるソフトがあるんです」

「知っています。通称・データ消去ソフト、またはクリーナーソフトですね。しかし問題のパソコンの捜査に当たっているのは、サイバー犯罪捜査官を始めとしたプロ中のプロです。データが削除されていても、復元するでしょう」

 君島由香里は、東京プロテクトという名目のデータはパソコンのゴミ箱に入っており、復元してUSBメモリにコピーしたと話していた。では、中森の事件が発覚した後、何者かが再度データを削除したのか。その何者かが、警備実施第一係にデータを持ち込んだ張本人だな。堤に言葉を返しながら、慎は素早く頭を巡らせた。

「ええ」と頷いてから、堤はこう続けた。

「それが、復元できないそうなんです。市販のデータ消去ソフトじゃない、オリジナルのものみたいです。もちろん作ったのはプロ、しかも超凄腕のシステムエンジニアやプログラマーですね」

「なるほど。では、警備第一課の課員に、その『超凄腕』に該当しそうな人物は?」

「いません。いたら絶対知ってます」

 興奮気味にきっぱりと、堤は断言した。予想通りの返答だったので、慎は次の質問に移ろうとした。

「何してるんですか?」

 固く尖った声で問いかけられ、慎は振り向いた。後ろの駐車場の通路に、みひろが立っていた。とっさに言葉が浮かばず、慎はさっき別れた時と同じスーツを着て肩にバッグをかけたみひろを見返した。みひろも慎を見て、

「何してるんですか?」

 と繰り返し、こちらに歩み寄って来た。

(つづく)

 


「警視庁レッドリスト」連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
文学的「今日は何の日?」【9/28~10/4】
池上永一さん『海神の島』