〈第1回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」
加藤実秋が放つ新たな警察小説、連載スタート!!
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どさりと、みひろは抱えていた段ボール箱を机に下ろした。息をついて周囲を見回す。
狭い部屋の中央に、みひろの机と向かい側にもう一つ机が置かれている。机上にはノートパソコンとビジネスホンがセットされ、左右の壁際にはデジタル複合機と書類棚も置かれているが、突き当たりの窓の前には大量の段ボール箱が積み上げられ、周りには古いホワイトボードやロッカー、折りたたまれた長机とパイプ椅子、何かのイベントで使ったと思しき看板や着ぐるみの頭部まであった。蛍光灯を煌々と点していても室内はどこか薄暗く、漂う空気は冷え冷えとして埃っぽい。最近まで物置として使われていたのだろう。
机に向き直り、みひろは段ボール箱を開けた。ボックスティッシュやマグカップ、膝掛けなどの私物の上に書類が一枚載っている。書類を手に取り、眺めた。
「辞令 警務部人事第一課雇用開発係職場環境改善推進室勤務を命ず」、飾り気のない文字でそう書かれている。
「部署名、長っ」
思わず口に出してしまう。と、バタバタという足音が廊下を近づいて来てドアが開いた。
「おはよう。いやはや、ここは遠いね。汗かいちゃったよ」
豆田が頭髪とは反対にふさふさで真っ黒な眉を寄せてぼやきながら、部屋に入って来た。ハンカチを持った手を汗と皮脂でテカる顔に当て、腋の下に書類のファイルを挟んでいる。ここも警視庁の敷地内だが本庁舎ではなく、別館。しかも四階の北側の端だ。
「おはようございます。係長、これって左遷ですか?」
問いかけて、みひろは書類を差し出した。ハンカチを下ろし、豆田は慌てた様子で顔を横に振った。
「なに言ってるの。違うよ」
「でも、今は六月ですよ。人事異動って四月と十月でしょ」
そう続け、部屋の突き当たりに向けたみひろの視線を遮るように、豆田が前方に回り込んで来た。
「それはほら、いろいろ事情があって。ここは監察係の持井首席監察官が、直々に発案して開設した部署だからね。準備に時間がかかったんだよ」
「監察係って、ひいじいさんとかいう警察官の犯罪や不祥事を取り締まる部署ですよね。なんでまた」
「ひいじいさんじゃなく、非違事案(ひいじあん)……説明するから座って。守秘義務については言うまでもないと思うけど、これはトップに限りなく近いシークレットだから。いいね?」
急に真顔になり、豆田が言う。怪訝に思いながら「はい」と答えてみひろが椅子に座ると、豆田も向かいの席に着いた。
「監察係の仕事は、いま三雲さんが言った通り。非違事案が発覚した警察官は、赤文字リストに名前を記載された上で懲戒処分。場合によっては逮捕される」
「赤文字リスト? 噂には聞いてたけど、本当にあるんですか」
驚いて身を乗り出したみひろを、豆田が指を口に当てて「し~っ!」とたしなめる。明らかに二人きりなのに室内を見回し、潜めた声でこう続けた。
「赤文字リストは実在する。僕は見たことないし、一生見る機会もないだろうけどね。赤文字リストに名前が載ったら、免職とか降格とかわかりやすい処分を受けなくても僻地や閑職に飛ばされて、何度昇進試験を受けても絶対に合格できなくなる。つまり、警察官として終わりってこと。怖いよねえ」
自分で自分を抱くようなポーズを取り、豆田は身を縮めた。
「はあ。でもお給料はもらえるし、有給も取れるんですよね?」
「なに言ってんの! 定年までず~っと同じ部署、同じ階級のままなんだよ?」
「好きな仕事で楽しい職場なら、それもありだと思いますけど」
あっけらかんと返すみひろにこれ以上やり合ってもムダだと判断したのか、豆田は話を進めた。
「監察は非違事案の重要度によって本庁の監察係が行うもの、都内に十ある方面本部の方面監察官が行うもの、所轄署の警務課と公安係が行うものに分けられているんだ。でも非違事案は増加している上に、隠蔽しようとする例も後を絶たない。加えて近年警視庁は、東京オリンピックの開催などに向けて新人警察官を増員してるから、そのモラルとコンプライアンスをどう遵守するかって課題も抱えてる。そこで、既存の部署とは違う位置づけで監察業務を実施する部署を設立することになったんだ。それがここ、雇用開発係職場環境改善推進室ってわけ」
指先で机を指し、豆田は長い説明を終えた。ふんふんと聞いていたみひろは返した。
「もっともらしい理屈をこねてますけど、要は手伝い、または下請けってことですね」
「いやいやいや。それを言っちゃお終い、じゃなくて、なんでそうなるの」
勢いよく、豆田が首を横に振る。
「やっぱり左遷、むしろ私も赤文字リスト入りしてるんじゃないかなあ」
みひろの頭に鷲尾の顔が浮かび、二カ月ほど前のマリハラの相談を巡る彼とのやり取りも思い出した。
「違うってば。非違事案に該当するか最終的に判断するのは監察係だけど、身内である警察官を調査するんだよ? 赤文字リスト入りした職員にそんな重大な仕事はさせないから。むしろ、職場改善ホットラインの相談員としての実績を買われての大抜擢だよ。ちなみに、調査対象の警察官にこちらの目的を知られるのは御法度だからね。あくまでも内偵。だから部署名も当たり障りのないものになってるんだ」
「まあ、クビにさえならなきゃなんでもいいんですけどね。出世にも興味ないし。それより、調査とか内偵とか私には無理ですよ。相談員の経験はあっても、捜査員はやったことないし」
思ったままを口にし、疑問を投げかけた。すると豆田は、今度は首を縦に振った。
「それなら大丈夫。調査は上司と組んでやってもらうから」
再び机を指して告げる豆田を見返し、みひろは問うた。
「えっ。そこは、豆田係長の席じゃないんですか?」
「そんなはずないでしょ。監察係とのパイプ役を仰せつかったから、顔は出すけどね。三雲さんの上司は、雇用開発係の係長兼職場環境改善推進室の室長。超やり手だよ。キャリアのほとんどを出向先の警察庁と人事一課で過ごし、二年前に史上最年少の三十四歳で監察係の係長に就任。ノンキャリアで警部っていうのは僕と同じだけど、あちらはスーパーエリートだ」
「そのスーパーエリートがなぜここに? 監察から新部署に異動って、どう考えても──」
「それにしても、室長は遅いなあ。どうしたんだろう」
棒読みの大声でみひろの突っ込みを遮り、豆田は立ち上がった。電話をするつもりなのか立ち上がってドアの脇に行き、制服のポケットからスマホを取り出す。
上司は訳ありか。空いた机を見て、みひろは思った。間違いなく左遷、監察係でなにかヘマをしたのだろう。それはどうでもいいが、面倒臭そうだ。スーパーエリートなら鬼のようにプライドが高いだろうし、威張り散らした挙げ句、みひろに説教やダメ出しをしまくるかもしれない。あるいは、やさぐれてやる気ゼロ。ふて腐れた態度で、仕事を全部押しつけて来るとか。
なんか、もう逃げたい。ここに来て二十分も経っていないのに暗澹(あんたん)たる気持ちになり、みひろはうなだれた。
と、ノックの音がしてドアが開いた。顔を上げて振り向いたみひろの目に、ダークスーツ姿の男が映る。
「室長。待っていたんですよ」
スマホを手に、豆田も振り向いた。それを無表情に見返し、
「どうも。遅くなりました」
と告げて男は部屋に入って来た。
なんか、いかにもって感じ。男を見て、みひろは思った。細身で長身、色白で卵形の顔にスクエア型のメガネがよく似合っている。しかし切れ長の目は、奥二重で三白眼気味。鼻梁の細い鼻と唇の薄いやや大きめの口と相まって、頭は良さそうだが冷たく近寄りがたい印象だ。
「彼女が三雲さんです。室長の阿久津さんだよ」
振り向いて、豆田がみひろを指した。つられて男もこちらを見る。
「阿久津慎です。よろしくお願いします」
姿勢を正して微笑み、慎は一礼した。目尻に二本シワが寄って口角がきゅっと上がり、別人のように無邪気で柔らかな印象になる。慌てて立ち上がり、みひろも頭を下げた。
「三雲みひろです。こちらこそよろしくお願いします」
豆田に誘(いざな)われ、慎はみひろの向かいの席に進んだ。提げていたバッグを机に置き、中からファイルを取り出す。
「豆田係長。早速ですが、今後の調査指針を作成しました。監察係で行われている手法に、公安のマニュアルも取り入れたものです。ご意見を伺えるとありがたいのですが」
「ご意見だなんて、そんな。すぐに目を通します」
押し頂くようにしてファイルを受け取る豆田を見て、慎はまた微笑んだ。
「異動を機に、新たな気持ちで職務に取り組もうと思っています。至らない点もあるかと思いますが、よろしくご指導下さい」
言いながら、みひろの方も見て目礼する。片腕でファイルをしっかりと抱え、感激した様子で豆田は頷いた。
「もちろんです。きっといい部署になりますよ……早速ですが、監察係から調査事案が届いています」
そう告げて、脇に挟んでいたファイルを差し出す。真顔に戻り、慎は受け取ったファイルから書類を取り出した。書類に向けられたメガネの奥の目がみるみる鋭くなり、強い光を放つのがわかった。
「なるほど」。少し鼻にかかった声で呟き、慎は顔を上げた。そして向かいのみひろを見て、
「行きましょう。初出動です」
と言った。