〈第3回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」

警視庁レッドリスト2

調査の後、いじめ被害者の川浪の意向で、
訴えを取り下げたのだが……。

CASE1 シークレット・ガーデン :  男社会の女の園(3)


 

 7

 下げていた頭を上げた時、川浪は安堵と解放感で軽い興奮状態だった。みひろたちのセダンが見えなくなったのを確認し、吉祥寺署の駐車場を出て歩道を歩きだした。五日市街道沿いのコンビニに入り、カゴを手に奥のスイーツコーナーに向かった。

 大袈裟で回りくどいやり方だったけど、みんなにわかってもらえたわよね。これでもうあれもお終いになって、全部元通りになるはず。そう確信すると胸が弾み、川浪は棚からプリンやシュークリーム、ロールケーキなどを取ってカゴに入れた。レジに行き、スマホで後払い決済をしてスイーツの入ったレジ袋を提げ、元来た道を戻った。

 署の建物に入り、階段で二階に上がって廊下を進み、用度係の部屋のドアを開けた。

「遅くなりました」

 会釈して室内を進んだ。それぞれの机で仕事をしていた仲間たちが、「お帰りなさい」「お疲れ様です」と応える。川浪は通路を歩き、奥の前田の机に向かった。ビジネスフォンで誰かと話していた前田は通話を終え、受話器を置くところだった。

「先ほど、阿久津さんと三雲さんが帰庁されたのでお見送りして来ました」

 そう報告すると、前田は顔を上げて川浪を見た。

「そうですか。笹尾さんから聞きましたが、気がつかなくてすみませんでした。お家が落ち着くまで、僕もフォローしますから。一緒にがんばりましょう」

 優しく穏やかに言い、前田は微笑んだ。川浪は「いい人なんだけど、頼りにならないのよね」と心の中で呟きながら、「はい。ご心配をおかけしました」と返して一礼した。そして顔を上げ、

「差し入れです。係長は、このプリンがお好きでしたよね?」

 と問いかけ、レジ袋からカップ入りのプリンとスプーンを出して机に置いた。

「いいんですか? すみません」

 前田は顔を緩め、手を伸ばしてプリンとスプーンを取った。振り向き、川浪は並んだ机に歩み寄った。

「みんなの分も買って来たの。好きなのを食べて」

 レジ袋を持ち上げて声をかけると、仲間たちは仕事の手を止めて集まって来た。三人とも喜びと感謝の言葉を口にしながら、レジ袋の中を覗き手を伸ばす。それを眺め、川浪は改めて安堵を覚え、言った。

「いろいろごめんね。じきに父親は退院できるはずだから、遅刻と早退もしなくてよくなると思う。これまでのことは水に流して、やり直させてね」

 後ろの前田を気にしながらの言葉のチョイスだが、言いたいことは伝わったはずだ。川浪はそう思い、手を止めてこちらを見ている仲間たちを見返した。

「もちろん。さっき三人で、『いい機会をもらえたね』って話していたんです。私たちこそ、改めてよろしくお願いします」

 レジ袋から出したシュークリームを手に、笹尾が応える。笑顔で、声も明るい。嬉しくなり川浪が返事をしようとした矢先、笹尾はこう続けた。

「今夜、みんなでご飯を食べませんか? 仲直りの印っていうか、再出発の記念に」

「えっ。でも」

「川浪さん。行きましょうよ」

「実はもう、お店を予約しちゃいました。奮発して、吉祥寺南町の焼き肉屋の個室」

 森と谷口も言う。どちらも選んだスイーツを手に、笹尾と同じ顔で笑っている。たちまち川浪の胸はしぼみ、焦りが押し寄せてきた。

「今私は、これまでのことは水に流してって」

「だから、その記念に。どっちにしろ今夜はみんなで食事する予定だったし、家の用事でダメとかないですよね?」

 笑顔を崩さず、口調だけ圧の感じられるものに変えて笹尾はさらに問うた。追い詰められている。そう悟り、川浪の焦りはさらに増し、怖くもなった。それでも必死に頭を巡らせ、後ろを振り返って言った。

「じゃあ、係長も一緒に。たまにはいいじゃないですか」

「僕? 喜んで、と言いたいところだけど、息子の誕生日なんですよ。すみません。また今度」

 スプーンでプリンを口に運びながら、前田は申し訳なさそうに答えた。その姿を呆然と見返す川浪の耳に、「残念ですね」「また誘います」という仲間たちの声が届く。

「今夜六時からってことで。川浪さん、楽しみですね」

 笹尾が言い、森と谷口が笑う。その声を聞きながら、川浪は胸の焦りと怖さが絶望に変わるのを感じた。

 

 8

 三日後。みひろは午後五時の終業チャイムと同時に、「失礼します」と告げて職場環境改善推進室を出た。明朝が締め切りの報告書はまだ書き上がっておらず、「お疲れ様でした」と返す慎の声は呆れ気味だったが、気にしない。みひろはバッグを抱えて小走りに廊下を進み、階段を降りて本部庁舎別館を出た。建物の間を抜け警察総合庁舎前の門から警視庁の敷地を出て、内堀通りを歩きだす。

「三雲さん」

 声をかけられ、振り向くと川浪がいた。春物の白いニットにモスグリーンのロングスカート、ベージュのジャケットという格好で肩にバッグをかけ、手には紙袋を提げている。

「こんにちは。どうされたんですか?」

 驚きながら挨拶すると、川浪は笑って答えた。

「家の用事で早退して、日比谷に来たんです。ついでに、三雲さんたちにこれをと思って。うちの近所のパン屋さんのなんですけど、よろしければどうぞ」

 そう言って、川浪は紙袋を差し出した。受け取って中を見ると、サンドイッチやメロンパンなどが入っていた。その中に、三角形にカットしたカステラに羊羹が挟まれているものを見つけ、みひろは声を上げた。

「シベリアだ! なかなか売ってないんですよね。室長の好物なので、喜びます。きっと、『シベリアという名前の由来には諸説あり』とか、またウザい蘊蓄を語りだしますよ」

 慎の声色を作って続けると川浪は肩を揺らして笑い、さらに言った。

「地元の井戸水を使って作っているそうで、シンプルだけど飽きない味でおいしいですよ」

 


「警視庁レッドリスト」シリーズ連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
◎編集者コラム◎ 『安楽死を遂げるまで』宮下洋一
【著者インタビュー】佐久間文子『ツボちゃんの話』/急逝した坪内祐三氏の比類なき業績や彼との生活を綴った追悼の書