〈第3回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」
訴えを取り下げたのだが……。
「ありがとうございます。わざわざすみません」
「気にしないで下さい。パン好きだと伺ったし、先日は本当にお世話になったので」
「その後、笹尾さんたちとはいかがですか?」
紙袋を提げ、みひろは訊ねた。昨日、慎経由で前田の「聞き取り調査の当日の夜も四人で食事に行き、その後も問題なく職務についている」という報告を聞いたばかりだが、気になっていた。笑顔のまま、川浪は答えた。
「楽しくやっています。今夜もこれから、四人で食事会なんですよ。場所はこの間お勧めしたパンがおいしいビストロ。『三雲さんたちに勧めたの』って話してたら、行きたくなっちゃって」
「ああ。そういうこと、ありますよね」
相づちを打ちつつ、「早退したのに食事会に行くんだ」と違和感を覚えたが、それだけ仲がいいということか。そう納得し、再度礼を言って別れようとみひろが口を開きかけると、先に川浪が言った。
「聞き取り調査でいじめ被害を伝えた時、実はちょっとヤケになっていました。同じ警視庁の職員でも、警察行政職員って警察官より下に見られているでしょう」
「えっ。そうなんですか?」
驚き、訊ねたみひろに川浪は完璧な形状の眉を寄せて頷いた。今日は長い髪を肩に下ろしている。
「もちろん、みんながそうじゃないですよ。でも、うちの署でも消耗品の在庫が切れていたり、希望した品を購入してもらえなかったりすると、『俺たちあっての行政職員だろ』みたいな態度を取る人がいます。間違ってはいませんけど」
「間違ってますよ。ひどいですね」
そう返しながら、みひろは笹尾が大真面目に「手錠と警察手帳なしじゃ、警察官は仕事になりませんから」と話していたのを思い出した。「ええ」と頷き、川浪は続けた。
「だから職場改善ホットラインに電話しても期待してなかったし、本庁から人事第一課の人が来るって知らされた時も、『聞き取り調査なんて、形だけのクセに』って思ってたんです。でもすごく悩んでいたので、『どうにでもなれ』って気持ちで伝えちゃいました」
「伝えていただいて、よかったです。職場環境改善推進室は、部署や職分に関係なくトラブルがあれば対処しますよ。私も二年前まで民間企業にいて、事務職の経験もあります」
「そうだったんですか。道理で、いい意味で警察官ぽくないなと思ってました」
「ありがとうございます」
笑顔で返しながら、みひろは腕時計をチラ見した。と、向かいの川浪がきょろきょろしたり髪を弄ったり、わかりやすく落ち着きがなくなった。
ひょっとして、私を引き留めたい? 何か話したいことがあるのかも。そう閃き、一方で今日これからの予定も思い浮かび、みひろは頭を巡らせた。
「川浪さん。私はこの後ちょっとした集まりに行くんですけど、一緒にどうですか?」
「でも、食事会に行かないと。それにご迷惑でしょう?」
「全然。誰でも参加OKの、気軽な集まりなんです。ちょっとだけいて、そのあと食事会に行ったらどうでしょう」
身振り手振りも交え、できるだけ軽いノリで誘う。川浪は明らかにほっとした様子だが、「どうしよう」と首を傾げて迷っている。もう一押ししようとみひろが口を開きかけた刹那、川浪は言った。
「三雲さん。ジャンケンしませんか? 私が勝ったら、三雲さんと一緒に行きます」
「構いませんけど……でも、ジャンケンで決めるなら逆じゃないですか? 私が勝ったら一緒に来てもらうのが」
面食らい、みひろは突っ込んだが川浪は、
「いいんです。私が勝ったら一緒に行きます」
と繰り返し、左手で右腕のコートとニットの袖口を押し上げた。続けて右手を開いたり閉じたりの準備運動を始め、表情は真剣。意図がわからず戸惑いはしたが、断る理由もないので、みひろも紙袋を左手に持ち替えた。
「いきますよ。最初はグー」
声を張って告げ、川浪は拳をつくった右手を上下させた。夕暮れの官庁街でジャンケンを始めた、アラフォーとアラサー女性。行き交う人たちの訝しげな視線を感じる。
「ジャンケンポン!」
二人で声を合わせて言い、お互いの右手を差し出した。川浪はチョキで、みひろはグーだ。と、川浪は右手を下ろし、がっくりとうなだれた。
「ダメか。やっぱり私、ジャンケンが弱いんですね」
「そんな。もう一度やりますか?」
「いえ。いいです」と返し、川浪は顔を上げた。そして、
「変なことをお願いして、すみません。お誘いいただいて、嬉しかったです。失礼します」
と早口で告げて一礼し、その場から歩き去った。