【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第26話 メデューサは人を殺せない―妖女メデューサの冒険⑤
人気SM作家・美咲凌介による書き下ろし掌編小説・第26回目は「メデューサは人を殺せない―妖女メデューサの冒険⑤」。大好評のこのシリーズ。今回は残酷さもありながら儚いSMの世界観を存分に感じられるストーリー。メデューサの魅力が詰まっています。お楽しみください。
メデューサ……ギリシア神話に登場する怪物。ゴルゴン三姉妹の一人。その目は宝石のように光り輝き、その姿を見た者は石に変えられる。もともとは類いまれな美少女であったが、不遜にもアテナ神と美を競ったため、呪いを受けて自慢の髪を蛇に変えられた。イノシシの歯、青銅の手、黄金の翼を持つとも伝えられる。のちにペルセウスによって退治された。斬り落とされたメデューサの首からは、天駆ける馬ペガサスと黄金の剣を持つ怪物クリュサオルが生まれた。この両者は海神ポセイドンとの間にできた子であるともいわれる。
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森の奥。周囲の木々の幹や枝に、薄い板や布を張り渡してこしらえた、粗末なテント状の小屋。メデューサとペルセウスは、ここで一月ばかり暮らしている。
「メデューサ、あれ、やってみろよ。あの姿を消す技……」と、ペルセウス。
「あれ? あれは、身体消失術って名づけたのよ」と、メデューサ。
「お前、名づけるのが好きだな。その身体消失術でね、生首だけ残っているところで止められないか?」
「どうかしら」
散れ、散れ、散れ……と念じていくと、メデューサの手足が砂のように崩れ、さらに微小な粒となって消えていく。やがて白い衣服がはらりと落ち、首から上だけが宙に浮いた。頭の上で無数の蛇がのたうっている。ペルセウスが叫んだ。
「そのまま! そこで止めてみろ」
だが、頭はすぐに消え、蛇だけが少しのあいだ見えていたが、それもじきに消えた。
「やっぱり無理か」
しばらくすると、メデューサの裸体が小屋の隅に現れた。消えたときとは逆に、蛇から頭、胴体、そして四肢が蘇る。
「途中で止めるのは難しいわね。でも、どうして?」
「商売に使えないかと思ったんだ」
「ああ」と、メデューサは地面に転がっている石造りの生首を見た。生首の頭の上には、たくさんの蛇が鎌首をもたげている。自分の顔をモデルにメデューサが彫ってやったものだが、本物とは違って口には大きな牙を生やし、両の目は恐ろしげに吊り上がっている。手早く衣服を身に着けながら──
「これでも、ちゃんと稼げてるじゃない?」
「でも、生首が笑ったりしゃべったりしたら、もっと人気が出るだろ?」
「そんなことしてたら、私のほうの商売ができなくなるわ。それに、この身体消失術はね、心を静かに落ち着けていないとできないの。あんな騒がしい広場で、すぐに消えたり出たりはできないのよ」
「そうか、仕方ない。じゃあ、そろそろ出かけるか」
ペルセウスが石の生首を布に包んで外に出ると、メデューサは大きな袋を片手に提げてあとに続いた。袋の中には、小さな自作の木像──オオカミやフクロウ、ウサギなど、森の動物を彫ったもの――が詰まっている。
外はよく晴れていた。初夏の朝の日差しが眩しい。二人は少し離れた場所に置いてある馬車に向かって歩いた。二人は以前、アテナ神殿の巫女を救って褒美をもらったことがある。その金で手に入れた二頭立ての馬車である。
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広場には、人がごった返している。隣で、ペルセウスが声を張り上げている。
「さあさあ、お立合いの皆さん。よおっく聞いてくれ。長いあいだ見つめたら危ないよ。石になっちまう。ほら、こう息を一つ吸って、吐いて……この間合い。この間合いだよ。それ以上見ていると危ない。おわかりか? そうか。よし。では、恐ろしいゴルゴンの首を見てやろうという勇気のあるお方は、この壺の中に銭を投げ入れて。銭のない人は布でもいい、パンでもいい……うん、おじさんが一番乗りか。さすがだねえ」
わらわらと人が集まってくる。ペルセウスの声の調子が、いっそう高くなる。
「そうだ、そうだよ。ほら、この旗を見ろ。なんて書いてある? その通り。ゴルゴン殺しのペルセウス。この俺が、そのペルセウスさ。……おっ。よく知ってるねえ、お兄さん、おっしゃる通り、ゴルゴンってのは、髪の毛が全部蛇でできている、女の化け物だ。それだけじゃないぜ。イノシシの牙に、青銅の腕、さらには黄金の翼で空を飛ぶという、恐ろしい化け物。しかも、その顔を見た者は、みんな石にされてしまう。……うん? だから、これさ。この盾!」
ペルセウスは、きらきら光る青銅の盾をかざして──
「この盾で、その魔力を跳ね返してゴルゴンを退治したのが、この俺、ペルセウスだ。さあ、ゴルゴンの首を見ようという、勇気のあるお方は、ほかにはいないか。よし、締め切りだ。では、いいかい? ひと息のあいだしか見つめてはいけないよ。そら!」
──と、布を取り去ると、台の上にはメデューサの彫った石の生首が置いてある。木の汁や獣の血で赤黒く彩色してあるので、見るからに気味が悪い。群衆がざわめく。
「今、瞬きをしたような……」
「口が、にやりと笑ったぞ」
「その通り!」と、ペルセウスは生首を布で包みながら、わざとらしく声を低める。
「実は、このゴルゴン。まだ完全に死んではいない。いつ蘇るともわからない。皆、気をつけてくれよ。さあ、一度見た人は、離れて離れて。二度見てしまったら、石にされるかもしれないよ。おおっと。そこのご老人、どうした? おや、そこの人も……」
立ち去ろうとした者たちのうち二・三人が、つまずいたり尻もちをついたりしている。なんのことはない。実はメデューサがひっそりと数匹の蛇を地面に伸ばし、足首に引っかけたのだ。蛇はすぐに戻したので、誰も気づいていない。ペルセウスが、また声を張り上げる。
「さては、ゴルゴンの首を、長く見つめすぎたな。身体が石になりかけている。ああ、いやいや、心配はご無用。ここに秘伝の膏薬がある!」
と、足元の袋の中から小さな木の椀をいくつも取り出した。椀には、白っぽいどろりとしたものが盛ってある。実は、ただのイノシシの脂なのだが……
「今、転んだ方だけではないよ。お立合いの中には、膝が痛い、肩が痛いというお方はいないか? そんなお方には、この秘伝の膏薬が効く。アルカディアの野に巣食う大イノシシの脂に、霊験あらたかな薬草の汁を数十種煮込んだ、秘伝の膏薬。何を隠そう、このペルセウスもこの膏薬を愛用している。そのおかげで……ああ、危ないから少し離れて……」
ペルセウスは、木の枝を一本、空高く放り投げると、同時に自分も跳びあがりながら、くるくると宙でトンボを切った。いつのまに抜いたのか剣が光にきらめき──地に落ちたときには、木の枝は細切れにされていた。
「ほら、この通りの身の軽さ。それもこれも、この秘伝の膏薬のおかげ。さっき転んだお方たちには、ただで進ぜよう。その他の方にも、本日はまことによい天気。この天気を愛でて、普段よりはぐっとお安くお売りするよ……」
インチキな薬は、飛ぶように売れていく。
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メデューサは少し離れたところで、目の前に敷いた布の上に小さな動物の木像を並べ、静かに座っている。こちらには、あまり人が寄ってこない。
「美しい女がいる……」と、近づいてくる者たちのうち半数ほどは、メデューサがにっと微笑むと、なんだか怯えたような顔をして遠ざかっていく。長い筒状の布で頭の蛇を隠していても、敏感な者はなんとなく恐怖を感じてしまうらしい。
残りの半数ほどは、メデューサの美しさに惹かれて寄ってきて、二言三言冷やかしの声をかけたりもするが、メデューサが相手にしないでいると、これもまたすぐに去っていく。
だから、一日に三つか四つしか売れないが、それでも値段が高いので、稼ぎの総額はペルセウスにそう負けはしない。
今は、ようやく二人目の客が取りついたところ。初老の、これも旅人なのか、肩に大きな荷物を背負った男だ。
「このオオカミは、いいね。よくできてる」
「お目が高いですねえ。それは自分でも、気に入っています」
「いくらだね?」
「この国の金貨でなら、小さいので二枚」
「そいつは、また高いなあ。金貨一枚に、こいつをつけるというのでは?」
男は、布の束を差し出した。
「金貨以外では、売らないことにしています」
そんな会話をしていると、ふと異様な気配を感じた。広場の向こう側から、ざわめきが伝わってくる。メデューサにつられて、男もそちらに視線を走らせた。と、すぐに──
「こいつはいけない。ろくでもない奴らが来た。あんたも早く逃げたほうがいい」
そう言うと、足早に立ち去って行った。見ると、ペルセウスの周囲からも、人が散り始めている。
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一人だけ馬に乗っている男がいる。その周囲を二十人ほどの男たちが取り囲み、砂埃を巻き上げながら、広場を突っ切ってくる。
「なんだ、あれは?」
メデューサの側に駆け寄ってきたペルセウスが、額に手をかざし、目を細めた。
「変な旗を掲げてる」
「よそ者皆殺し隊って書いてあるわ。あか抜けない名前ねえ」
「名づけ上手のメデューサなら、どんな名前にする?」
「そうねえ」と、しばらく考えて──
「異邦人撲滅隊とか……」
「おお、ちょっとかっこいいな。それにしても、どこの国でも、あの手の奴が湧いてくるんだなあ」
「本当に。でも、皆殺しっていうのは、極端ね」
「どうせ口だけだろ? だが、武装してるな。鎧兜に身を固めって奴だ」
「弓矢と槍は持っていないみたい。ありがたいわね」
「よし。じゃあ、俺の一撃で……」
「やめてよ、人殺しは」
メデューサは、ペルセウスをにらみつけた。
「あなた、私と旅をするようになってから、もう五人も殺したじゃないの」
「仕事だから仕方ないだろ? 俺は賞金稼ぎなんだから。それに悪い奴らしか殺してないぞ」
「悪い奴らって言ってもねえ……」
メデューサから見ると、ちょっと腑に落ちないところがある。どっちもどっちと言うのか……
「お金をやるから人を殺してくれって頼む連中は、悪い奴らじゃないの?」
「金をくれるなら、いい奴じゃないか。少なくとも俺たちにとっては」
「俺たちって言わないでよ。私は関係ないわ」
「メデューサ、お前だって……」
今度は、ペルセウスがメデューサをにらみつけた。
「金持ちで威張りちらしてるっていうだけで、何人も人をいじめ倒してきただろ? 裸にして泣き出すまでいじめるなんて、どうかと思うぞ」
「身の程を教えてあげただけよ」
そんなことを言い合っているあいだに、男たちの一団がもう目の前にやってきていた。全員が兜を被り、青銅の鎧を身にまとっている。
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「お前たちはよそ者だな。注進があったから、言い逃れはできんぞ。よそ者が、なんでこの土地でのさばっている?」
馬上の男が、大音声でわめいた。四十歳くらいか。声も大きいが体も大きい。メデューサも、負けずに声を張り上げた。
「私たちは、大人しく商売をしていただけです」
「そうだそうだ」と、ペルセウス。
「黙れ。よそ者の分際で、口答えするな。いいか? この土地では、よそ者が商売などすることは、認めておらんのだ。どこの馬の骨とも知れぬ連中が、わしらの財産をかすめ取るのは許さん。稼いだ分を全て渡して、這いつくばって詫びるなら許してもやるが、少しでも歯向かうなら皆殺しだ」
「皆殺しって、私たちたった二人しかいないじゃありませんか」
「そうだそうだ」と、ペルセウス。
「黙れ。よそ者の分際で、生意気な。ほれ、さっさと這いつくばって詫びろ。そうしたら許してやる」
「よそ者、よそ者って、いったいあなたたちと、どこが違うというんです? もちろん、私たちのほうが若々しくて、美しい姿をしていて、あなたたちときたら下品でみっともない顔つきをしていますけど、そんなことはほんの小さな違いにすぎないし……」
「いいぞいいぞ」と、ペルセウス。
「おのれ、愚弄するか。血だ、血だ! わしらには高貴な血が流れておる。お前たちよそ者の汚らしい血とは違う」
「血?」
これまではやしたてていただけのペルセウスが、急にぐいっと前に出てきた。
「血ねえ。おもしろい。血の流し合いをしてみるか?」
「なんとも生意気な奴らよ」
馬上の男が、短く笑った。
「チビと女が、いきがりおって……」
「チビだと?」と、ペルセウス。
「女がなんですって?」と、メデューサ。
男は、剣を抜いて高く掲げ、配下の者たちに呼ばわった。
「者共、かかれ。この生意気なチビと女を、切り刻んでしまえ」
「抜いたな。よし、一撃で……」
ペルセウスが跳んだ。だが、その前に、メデューサの頭に被った布がはじけとんでいた。
6
メデューサの蛇が馬上の男を突き飛ばし、次にその太い胴に絡みついて、高々と持ち上げた。よほど恐ろしかったのか、男はもう剣を落としていた。
「化け物め。化け……」
言葉は、そこで途切れた。蛇にじりじりと締めつけられ、低い呻き声しか出せなくなったらしい。メデューサは絞め殺してしまわないように用心しながら――
「お前、私に感謝しなさい。私がつかまえてやらなかったら、ペルセウスに斬られていたわよ」
ペルセウスは目まぐるしく動いている。血しぶきが舞っている。
数人が地に倒れた。
「まさか? 殺したの? ペルセウス」
「いいや。鎧があるからなあ……剣を傷めたくなかったし」
見ると、地面には剣を握ったままの形で、数本の手首が落ちていた。手首を斬り落とされた男たちは、悲鳴を上げながら逃げまどっている。尻もちをついて泣き出した者もいる。
他の男たちの大半は、もう逃げ始めていた。かろうじて残っていた二・三人は、メデューサが余った蛇を使ってなぎ倒してやった。
「おおい」と、ペルセウスは、逃げ散ろうとしている男たちに声をかけた。
「こいつらの腕を縛って、血が流れないようにしてやれ」
それから、メデューサの蛇に絡めとられた男を見上げ──
「メデューサよ。俺の獲物を返せ」
「あとでね」
メデューサは、男を馬車の中に放り込んだ。
7
翌日の朝。森の奥の粗末なテント状の小屋の前。
メデューサは、男に話しかけた。
「お前に、聞きたいことがあるの」
男は丸裸にされていた。ただし、兜だけは身に着けたままだ。後ろ手に括られて、その革紐の先は背後の木の幹に結ばれている。尻を地面にべったりとつけ、怯えた目でこちらを見つめている。メデューサが蛇を隠していないからだ。それに、例の身体消失術という奴も何度か見せて──自慢の裸体を見せてやるのは少し業腹だったが――怖がらせてやっていたのである。
もちろん、メデューサのほうは、今は衣服を身に着けている。
「お前、昨日、女がどうとか言っていたけど……女の私より弱いくせに、どうしてあんなに威張っていたのかしら」
「お前は……化け物ではないか」
「化け物でも、女よ。それに、人のことを気安く化け物だなんて、いけない口の利き方ねえ。罰をあげなくちゃ」
メデューサは蛇を伸ばして男の身体を絡め取り、真っすぐに立たせた。次の瞬間、やはり蛇で男の足をすくい取った。男はぶざまに転び、側頭部を地面に打ちつけた。男の口からくぐもった呻き声が漏れた。
「兜って、便利ねえ。それを被っていると、少し頭を打ったくらいじゃ死なないんでしょう? 私、あのペルセウスとは違って、人殺しは嫌いなの。感謝しなさい」
男は、黙っている。
「それから、よそ者とは血が違うなんて言ってたわね。本当かしら」
メデューサは、ゆっくりと男に近づいた。片手に小刀を持っている。男は、妙にひからびた感じのする声を出した。
「何をする? やめろ」
「殺さないって言ったじゃないの、安心しなさい。ただ、ちょっと血をいただくだけ」
メデューサは、抗おうとする男の腹を何度か殴りつけて大人しくさせ、腕を取ると、手首の表側にぐさりと小型の刃を入れた。
「手首の裏を切ると、血が流れすぎて死んでしまうのよ。知ってた? でも、ここなら大丈夫。ほうら、血が滲み出てきた……ちょっと待ってなさい」
メデューサは、一度小屋に引っ込むと、小さな皿を二枚持ってきた。
「お前の血を、この皿に取って……ほら、今度は私の血を取るわ」
そう言うと、自分の左の手首もざくざくと小刀で切っていく。
「ほら、見てごらんなさい。私は、どんな傷もすぐに治ってしまうの。首を斬り落とされたって、死ねないのよ。だから、血を取るためには、もっといっぱい切らなくちゃ。ああ、痛いこと」
二枚目の皿には、メデューサの血が溜まった。
「このままじゃあ、すぐにわかってしまうから……」
8
メデューサは再び小屋に入り、しばらくして戻ってきた。今度は皿ではなく、二つの木の小さな椀――昨日ペルセウスが秘伝の膏薬とやらを、それに入れて売っていた椀である──に、血が入れてある。
「お前には、高貴な血が流れているんだったわね。さあ、それでは教えてちょうだい。お前の高貴な血とやらは、このうちのどちらかしら」
「そんなこと、わかるわけが……」
「言いなさい!」
いきなり、男の腹を殴りつける。メデューサは、化け物になる以前でも、男と殴り合いをして一度も負けたことがなかった。力は弱いが、急所だけを確実に突く技術を持っているのだ。メデューサは、何度も何度も男を殴った。主にみぞおち──時に喉元や鼻と唇の間を──しかし、あごの先端だけは避けた。そこを殴ると、相手が気持ちよく失神してしまうことがあるのを知っていたからである。男は悶絶し、口が利けるようになったときには、両目にいっぱい涙を溜めていた。
「さあ、教えてちょうだい。お前の高貴な血は、どちらかしら」
男は、震える指でメデューサの左手にある椀を指さした。
「残念。はずれたわ」
メデューサは、また数回、男の腹を殴りつけた。
「もう一度、チャンスをあげるわね。さあ、どちら?」
「こっちが違うなら……もう一つのほうに決まって……」
「はい、また、はずれ」
「どうしてだ」
「これはねえ、どちらも私の血なのよ。バカねえ」
「イ……インチキだ」
「もちろんインチキですとも。インチキが見破れなかったから、バカだと言ってるんじゃないの。そして、私はバカな男は大嫌い。バカな男には、たっぷり罰をあげなくちゃ。それに……」
男の裸をじろじろと見まわすと──
「鎧を着ていたときは立派に見えたけど、ずいぶん弛んだ、みっともない体ねえ。醜いわ。私、醜い男も大嫌いなの」
メデューサが立ち上がると、男は草に尻をついたまま、ヒーッ、ヒーッと二度、かすれた声をあげた。
9
陽が中天にまで昇った。
男はやはり、後ろ手に括られ、木に繋がれたまま、裸で立っている。メデューサは、その前に椅子を持ち出して、脚を組んで座っていた。
「アレクオン、お前は感謝しなくちゃね」
メデューサはもう、男の名前を聞き出していた。
「本当だったら、私は今頃、お前の脚の骨は砕いているし、両目は潰しているし、手の指だって叩き潰しているはずなの。でも、あのペルセウスがお前と剣の勝負をしたいっていうから、許してあげているのよ。どう? ちゃんと感謝しているの?」
「感謝していますっ」
アレクオンと呼ばれた男は、まっすぐに立ったまま、身じろぎもせず、大きな声で答えた。そうするよう、メデューサが命じているのだ。
「じゃあ、今から十回、こう言いなさい。アレクオンはメデューサ様に感謝していますって」
「アレクオンは、メデューサ様に、感謝していますっ。アレクオンは、メデューサ様に……」
裸の男は、十回繰り返した。
「上手にできたわねえ。では、次よ、アレクオン。お前は、どんな男でしたっけ」
「はいっ」と、大仰なほど大きな声で返事をする。
「アレクオンは、女のメデューサ様より、弱い男ですっ」
「十回、言いなさい」
「アレクオンは、女のメデューサ様より、弱い男ですっ。アレクオンは……」
男は、また十回繰り返した。
「上手、上手。それから?」
「はいっ。アレクオンは、メデューサ様よりバカな男ですっ。アレクオンは、メデューサ様よりバカな……」
これも十回繰り返し終えたとき、メデューサは眉をひそめて言った。
「今の七回目は、少し心がこもっていなかったみたい。罰をあげなくちゃ……」
「そんなっ。もう許してくださいっ。許してくださあいっ」
「だから、許してあげてるじゃないの。脚を砕くことも、目を潰すことも、許してあげているのよ。ちょっとした罰くらい、喜んで受けるのが当然よ。あっ、そうだ」
メデューサは、ぴょんと小さく跳びあがった。
「いいこと、思いついた。あのね、お前をこうして無事に置いてやっているのは、ペルセウスとちゃんと戦えるようにしておくためなの。だって、ほら……目が見えなくちゃ、戦いにならないものね。でも、耳や鼻は、なくてもかまわないでしょう? だから、今度の罰は、耳を削ぐことにするっていうのは、どうかしら。とってもいい考えだと思うんだけれど。もちろん、よく切れる刀ではダメね。それだと、あんまり痛くないから。なるべき切れ味の悪いもので……」
「許してえっ。許してくださあいっ」
「耳くらい、なんなの? 私なんて、あのペルセウスに腕を斬られたこともあるけど、そんな情けない声は出さなかったわ」
「まあまあ。もう、そのへんで許してやれよ」
いきなり、ペルセウスの声がした。茂みの陰から、ひょいと顔を出す。馬車を置き、馬を繋いでいるところからこの小屋までは、道らしい道がない。どうやらここまで歩いてくる途中で茂みに隠れ、こっそり様子を眺めていたらしい。
「あら、帰ったの? それで、何かわかった? こっちは、とにかくこの男の名前だけはわかったわ。アレクオンっていうの」
「ああ、それは俺が聞いてきたのと同じだな。とりあえず、小屋に入って、ゆっくり話をしよう」
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ペルセウスは、町まで出かけて、例のよそ者皆殺し隊というものの正体、規模などを探りに行っていたのである。もし本拠地がわかっていれば、メデューサの身体消失術とやらを使って忍びこめばいいのだが、いかんせん、どこに巣食っているのかもわからない。そこで、ペルセウスが町の噂を集めに回ってきたわけだ。
もっとも、もう広場で何度か商売をやっているから、ペルセウスの顔もかなり知られている。その点が心配だったのだが――
「ああ、それは大丈夫だった。昨日の騒ぎは、蘇ったゴルゴンを俺がもう一度退治した、ついでに嫌われ者のよそ者なんとか隊も、俺がやっつけたってことになってるんだ」
「じゃあ、よそ者皆殺し隊っていうのは、みんなから嫌われてるの?」
「それが、そう単純にはいかない。嫌っている連中も多いが、こっそり味方している連中もいるみたいなんだ。俺と話をしてくれたのは、嫌っていた連中ばかり。でも、誰かが石を投げつけてきたからな。たぶん、そいつは皆殺しなんとかの味方なんだろう」
「まさか、その石を投げてきた人を、殺したりしなかったでしょうね」
「にらむだけにしておいた。俺はゴルゴン退治の勇者ってことになってるからな。心の広いところを見せなきゃ」
「なんだか私だけが悪者みたいで、不愉快ね。それで、よそ者皆殺し隊っていうのは、どのくらいの規模なの?」
「それなんだが……」
ペルセウスの話によれば、大した勢力でもないとのこと。今つかまえているアレクオンが首領株で、他に目立つ者はいない。剣を振り回して暴れまわるような危ない連中は、全部合わせても三十人程度。それも、いつも全員がそろうわけではないらしいので、昨日やってきた連中が、実質的には全勢力といったところだろう。
「大したことはないのね。じゃあ、まだしばらく稼げるかしら」
「いや、そうもいかない。俺がゴルゴンを退治したっていうのは、いちばん好意的な見方なんだ。反対に、俺とゴルゴンが仲間だっていう、本当の話を広めている連中もいるし。もう、この国は早めに出たほうがよさそうだ」
「残念ねえ。せっかく小屋も建てたのに。これをばらして馬車に積みこむだけでも、四・五日はかかりそう」
「まだある。アレクオンは、この国の王族なんだよ」
「じゃあ、よそ者皆殺し隊の後ろ盾は、王様なの」
「ところが、そうじゃない。というのはだな……」
ペルセウスの話によると──
王はむしろ、よその国の者を歓迎したがっているのだが、数年前から重い病気を患い、実権を失いつつある。そこに台頭してきたのがアレクオンたちの一派で、外国人のうち気に入らない者を牢に押し込んだりしているのだという。もう百人以上の者が、囚われの身になっているらしい。
「捕まえて、どうするの?」
「人質交渉をして、金を稼いでいるらしい」
「嫌な連中ねえ」
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「さて、そこにもう一人、鍵となる人物がいる」と、ペルセウスは急に声をひそめた。
「誰?」と、メデューサの声も、つられて小さくなる。
「この国の王子。名前はエウソロス。こいつがなかなかの人物で、人気も高いらしいんだが、五年くらい前から外国に武者修行の旅に出て、ずっと留守にしている。この王子様が、アレクオンと仲が悪いんだな。そして、もうすぐ帰るという知らせを、こっそり寄こしたっていうんだ。帰国したらすぐ、よそ者なんとか隊を制圧する予定らしい。しかも……しかもだよ……」
「なにさ」
「そのエウソロスっていうのは、どうも俺の知り合いじゃないかと思うんだ」
「まさか」
「いや、本当さ。エウソロスって奴と、三年くらい前、よその国でいっしょに山賊退治をやったんだ。そのとき意気投合して……」
「あなたが? 王子様と? 噓、噓!」
「忘れたのか。俺だって、国の王の孫だぞ。それだけじゃない。ゼウス様の息子なんだぜ」
「ああ、そうだったわねえ」
なんだかあんまり気安いのでつい忘れていたが、ペルセウスは──本人の言うことを信じればの話だが――ゼウス神がどこかの国の王女に産ませた子だったのだ。
「ということで、俺はその王子様とやらを迎えに行ってみるから。もし本当に俺の知り合いだったら、でかい儲け話になる」
「どうして?」
「あのよそ者なんとかを……」
「よそ者皆殺し隊ね」
「そうそう。それを王子といっしょに退治したら、褒美はがっぽり。馬車を新しいのに買い替えて、これから先の旅では贅沢な旅籠に泊まり放題だ」
「私もいっしょに行くの?」
「お前がついてきたら、ゴルゴンがどうしたこうしたで、話が面倒になるだろ? だから、お留守番。小屋の片づけを頼む」
「勝手ねえ」
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二人は、小屋の外に出た。次は、アレクオンを始末しなければならない。
「ほら。あなたのために、ちゃんと脚も折らず、目も潰さずにおいてあげたわ。感謝して」
「ありがとう。でも、どうして裸にする必要があったんだ? それに、またどうせ、ねちねちといたぶったんだろう? 可哀そうに。服を着せてやれよ」
「あなたがやってあげなさいよ」
ペルセウスは、笑いながらアレクオンの縛めを解き、服を着せ、その代わりに兜を脱がした。
「兜なんて被ってたら、本気の斬り合いはできないからな。兜に守られているっていう意識が、死ぬ覚悟を鈍らせる。アレクオンとか言ったな。メデューサにねちねちいたぶられて、つらかったろう。可哀そうに。俺がすっきり殺してやるから、感謝しろよ」
「許してください。許してえ」
「そう言うなって。お前も一度は剣を抜いたんだから、覚悟はできているはず。それに、死ぬのが嫌なら、俺に勝てばいいだけじゃないか。斬り合って死ぬ。武人として最高の死に方だろ?」
ペルセウスは、アレクオンに剣を返してやった。
「さあ、構えろ。命の取り合いをやろう。俺の一撃で……」
アレクオンは、一度は剣を手にしたが、すぐに放り出し──
「嫌です、助けてください。命だけは、助けてくださいっ」
「ほら、ああ言ってるじゃないの」
メデューサは、片手でペルセウスを制すると、今度はアレクオンに向かって──
「生きていたいわよねえ。たとえ脚をぐちゃぐちゃに砕かれても、両目をえぐり取られても、手の指を全部叩き潰されても、生きているほうがいいのよね?」
「それも嫌ですう」
「ほら、あんなに泣いてるじゃないか、可哀そうに」と、今度はペルセウスが──
「俺と一勝負して、すっきり片をつけようじゃないか」
「どっちも嫌ですうっ」
アレクオンは、子どものような泣き声をあげ始めた。メデューサは、ほうっと長いため息をついて、ペルセウスのほうを見た。
「逃がしてあげたら?」
「いいや、こいつは今、殺しておいたほうがいい」
「こんなに泣いてるじゃないの」
「すぐに泣き出す奴は、すぐに泣きやんで、こそこそ蠢き始めるんだよ。この手の奴は嘘つきで、復讐心だけは強いんだ。生かしておいたら、絶対にろくなことにはならないって」
「でも、あなたは今夜から出かけるんだから、復讐される心配なんてないじゃないの」
「だが、メデューサ。お前はここに残るじゃないか」
「私は死なないのよ。いいえ……」
メデューサはペルセウスを見て、にっこりと微笑んだ。その拍子に、逃げ出そうとしたわけではないだろうが、アレクオンの身体がぴくりと動いたので、蛇で絡めとってじわりと絞めつけてやる。
「たとえ死にたくなったって、私は死ねないの、なにがあっても。それに、姿を消すこともできるし……」
「あれは、戦っているときには使えないんだろう?」
「大丈夫だって」
「じゃあ、好きにしろ」
ペルセウスは、ひょいと肩をすくめると、小屋の中に戻って行った。メデューサは、蛇に絡めとられ、宙に浮いているアレクオンを見た。
「お前の顔は、二度と見たくないわ。もし仕返しなんて考えて、もう一度、私の前に姿を現してごらんなさい。手足の骨を全部折って、今度こそ両目を潰してあげるからね。殺しはしないけど、死んだほうがマシだっていう気分にさせてあげる。わかった?」
「わかりました」
「十回、言いなさい。弱くてバカなアレクオンは、メデューサ様のお言葉が、よくわかりましたって。大きな声で」
「弱くてバカな、アレクオンは、メデューサ様の……」
男は、声を張り上げて十回繰り返した。蛇の縛めを解いてやる。アレクオンは尻から地面に落ちると、その尻をさすりながら逃げ出した。やがてその姿は、茂みに隠れて見えなくなった。
その夜、ペルセウスは、帰国する王子を迎えに出立した。
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翌朝。近くの川で沐浴しようと早起きしたメデューサは、小屋を出た途端、妙な気配に気づいた。周囲の茂みがざわついている。あ……と、思ったときには、自分でも気がつかないうちに、頭の上の蛇が動いていた。
正面の茂みから、蛇に絡めとられた男が、苦し気に這い出してきた。そのまま高く持ち上げ、地面に叩きつけてやろうとしたとき──
すぐ近くで、誰かが剣を振るった。数十匹の蛇が、一度に刈り取られた。同時に、別の誰かが背後からむしゃぶりついてきた。一人ではない。右からも左からも、男の体がぶつかってくる。
蛇は、すぐ戻ってくる。だが、即座にまた斬り払われた。数本の剣が、顔の周囲を唸りをあげて飛び交っている。左の耳が斬り落とされた。口から悲鳴がこぼれた。
いつの間にか、膝をついていた。視線を上げると、周囲に百人ほどの男たちがいた。武器を持っているのは二十人ほどか──他の多くは、体一つで次々にぶつかってくる。
「その女は、人を殺すことができん。恐れるな、恐れるな。蛇さえ斬り続ければ、その化け物は、なにもできん!」
アレクオンの声だ。茂みの遠く向こうから、頭だけを出し、例の大声でわめいている。
「よそ者どもよ、今日、その化け物を捕らえれば、自由にしてやる。捕らえられなければ、皆殺しだぞ。命が惜しかったら、その化け物にしがみつけ、押し倒せ! 恐れるな、その化け物は、人を殺すことはできん」
また、数人の男がぶつかってきた。メデューサは、草の上に仰向けに打ち倒された。
「アレクオン! 私の慈悲を忘れたか」
倒れながら、ひと声そう叫んだが、次の言葉は出てこなかった。
「口を塞げ! その化け物にしゃべらせるな、たぶらかされるぞ。口を塞げ!」
開きかけた小さな口に、口枷が押し込まれた。それからは、メデューサの声は言葉にならず、ただ途切れ途切れに、あたりの空気を震わせるだけだった。
そのあいだも、ひっきりなしに頭の周囲に剣が振り下ろされ、蛇が斬られていく。失われた蛇はやがて戻ってくるが、戻ると同時にまた斬られてしまうのだった。
14
メデューサはかつて、百人以上の軍勢を一人で追い散らしたことがある。しかし、それは人間が自分の姿を恐れ、浮足立ち、その大半が逃げ出すということが前提での戦いだった。今は違う。誰一人、メデューサの姿を見て逃げ出す者はいない。恐れていないわけではない。間近に迫った男たちの顔は、明らかにひきつっている。しかし、彼らはメデューサよりも死が恐ろしいのだ。
メデューサは人を殺さない──そのことが知られてしまった以上、これまでのようにはいかなかった。
殺せば勝てるのかもしれない──
数本の蛇が、なんとか完全な形で戻ってきているようだ。メデューサはそれを伸ばし、ようやく自分の上に覆いかぶさっていた男の一人を、絡めとることができた。この男を宙に浮かべ、頭から地面に叩き落として、脳漿をぶちまけてやればいい。そうすれば、周りの男たちの何人かは逃げ散り、危機を脱することができるかもしれない。
殺せばいいのか──
だが、殺せなかった。メデューサは、その男を少し離れた場所に放り捨てた。男はすぐに立ち上がり、決死の形相でメデューサの上にのしかかってきた。
遠くから、アレクオンの声が聞こえる。
「蛇を斬れ。斬り続けろ。だが、首は斬るなよ。首を斬り落としても、その化け物は死なん。かえって逃げられるかもしれん。蛇だけを斬り続けろ」
だが狙いはしばしば外れ、メデューサの両の耳は、もう何度か斬り落とされていた。それが再び戻ってくるときのじんわりとした熱が、これまで体験したことのないほど熱く感じられ、メデューサは疲労の中に沈み込んでいく。
「括れ、括れ。手足を括ってしまえ」
最初に、メデューサの両の足首が一つに括られた。次に二本の手首が、これも一つに括られてしまった。
「よし、引きずれ。そのまま引きずっていけ」
脚を前にして、茂みをかきわけながら引きずられていく。足首を括った縄に、別の縄を結んで、それを大勢の男たちが引いているのだ。
身体を消すことができたら──
そうしたら、助かるかもしれない。
散れ、散れ、散れ――と念じてみる。しかし、無駄だった。こんなにも苦痛に喘いでいる状態では、あの技は使えない。わかっていたことだ。
頭の周囲には間断なく剣の先が落ちてきて、戻っては伸びようとする蛇が、次々に斬り捨てられていく。
どこか遠くで、獣が遠吠えをしている。そんな気がしたが、よく聞くと、それは枷を嵌められた口からほとばしり続ける、自分自身の悲鳴だった。
15
広場の一画にいるらしい。
長方形の頑丈な板が、地面から垂直に固定されている。その板の中央に開いた大きな穴が首枷、左右に開いた二つの小さな穴が手枷。板は最初は二つに分かれていたが、今はしっかりと固定され、生半可な力では壊すことはできない。
メデューサは、そんな拘束具に固定されていた。長い道を引きずられてきたあいだに衣服は破れ、ほとんど裸と変わらない。
枷の位置は人の腰あたりの高さにあるので、メデューサは地面にひざまずき、上半身を地面と平行にする姿勢になっていた。視線はたいてい下を向いているが、時にひどく痛みが走ると背がのけぞり、顔が前を向く。その拍子に、ちらりと前方が見える。
どうやら、たくさんの見物人がいるようだ。
あれから夜が来て、次の朝が来て、また夜が来て、朝が来た。そして今は、日が西に傾きかけている。
蛇は、延々と斬られ続けている。今は剣でなく、斧で刈り取られていた。朝も昼も夜も、何人もの男が交代で、ひたすら斬り続けているのだった。
しかし、その頻度もずいぶんと緩やかになっていた。蛇の戻ってくる速度が、すっかり落ちているためだ。斬られた蛇は地面に落ち、しばらくのあいだのたうったあと姿を消すと、メデューサの頭に戻ってくる。初めのうちは、それが呼吸を一度するかしないかのうちの出来事だった。今では、消えた蛇はゆったりとした呼吸を五つほど繰り返しても、まだ戻ってこない。
ひっきりなしに鞭が襲ってくる。蛇を刈り取られながら、背中や尻は、鞭で打たれ続けているのだ。
蛇の戻るのが遅くなったのと同様に、傷の治るのも遅くなっていた。皮膚が裂け続け、白い肌が血の赤でまだらになっている。
16
左右の脇腹には、槍が二本刺さったままになっている。
「まだ抜くな。傷が治ってから抜け。そのほうが、苦痛が大きい」
アレクオンの声が、すぐ耳元で聞こえた。メデューサを捕らえようとしたときには、ずいぶん遠くから指図をしていたのに、今ではすっかり安心しているのか、ずいぶん近くに寄ってきたものだ。
「それ、今だ!」
槍が二本同時に、脇腹から引き抜かれていく。塞がりかけていた皮膚が再び破れ、赤い血と白い脂で奇妙な模様のできた鉄の穂先が、ぬめった光を帯びて姿を現す。
メデューサの上半身が激しくのけぞり、口枷の内側から濁った悲鳴が噴き出てきた。
「見ろ、泣いておる。化け物が泣いておるわ」
アレクオンの声が言った。今では、自分の目の前にいるのだろうか。
「皆、見るがいい。化け物ゴルゴンは、このよそ者皆殺し隊が退治したぞ。化け物が泣いておる。見ろ、見ろ。化け物が泣いておる!」
それにしても、よそ者皆殺し隊って、あか抜けない名前ねえ──
心のどこかで、そんなことを考えていた。不思議と苦痛は感じなかった。いや、たしかに感じてはいるのだが、それとは別の部分がひんやりと静まっている。
そのうちに、メデューサは妙なことに気がついた。自分の視線が空に舞い上がって、ひどく高いところから鞭に悶える自分の半裸体を眺めているのだ。
私は、死んだのか?
死んだのかもしれない。魂が身体から飛び去って、今こうして天に昇って行こうとしているのかもしれない。
しかし、いつまでたってもそれ以上高くは上がっていかないのだった。それに、死んだのだとしたら、あそこでのたうっている白い肉体は、いったいどういうことだろう。あの肉体は、たしかにまだ生きているはずだ。
それにしても、静かな気持ちだった。そして、ひょいと気がついたのだった。今だったら、あれができるのかもしれない、身体消失術と名づけたあの技が、できるのかもしれない──と。
それにしても、身体消失術っていうのも、我ながらあか抜けないわねえ。
心のどこか、遠いところでくすくす笑いながら──
散れ、散れ、散れ……と念じ始めた。
初めに手足の先が、次に腕と脚が、少しずつ砂のように散り、消えていく。普段よりは、ずっとゆっくりとした速度だった。アレクオンも気づいたらしい。また、例の大声でわめき始めた。
「見ろ、見ろ! 化け物が滅びるぞ。ついに滅びるぞ!」
メデューサの胴が消え、やがて首だけが残った。首枷のところで、それは宙に浮いてゆらゆらと揺れていた。短く刈り取られたばかりで、頭のない蛇の数本を、アレクオンの手がつかみ取った。アレクオンは、メデューサの生首を高々と掲げた。
広場の門のあたりでざわめきが起きたのは、そのときだった。
17
きらきらと青く光る影が、馬に乗って、恐ろしい速度で疾走してくる。剣は既に抜き放たれている。
真新しい青銅の鎧兜に身を包んだペルセウスだった。アクレオンはまだわめいている。
「見ろ、見ろ! 化け物ゴルゴンは、今滅びるぞ!」
ペルセウスがひと声、叫んだ。
「メデューサ、死ぬな!」
メデューサの顔が消えた。次に蛇も消えた。高く掲げたアクレオンの手にはもう、なにも残っていない。ようやくペルセウスの姿に気づいたのか、アクレオンはあわてふためいて──
「防げ! 俺を護れ」
そう言いながら、鎧を着た者たちを前に押し出し、自分は後ろへ後ろへと下がっていく。ここまで卑怯だと、かえって見事というべきではないか──そんなことを思いながら、メデューサは──
集え、集え、集え……と、念じ始めた。
少しずつ、意識のもとに身体の粒が戻り始めた。メデューサの意識は、アクレオンのあとをゆるゆると追っている。
ペルセウスが馬から飛び降り、剣を振るい始めた。しかし、アクレオンまでは、まだ遠い。間に鎧兜をまとった者たちが五・六人はいた。
ペルセウスは以前のように、その敵たちの手首を斬り落としながら、少しずつ進んでくる。その背後に、百人ほどの軍勢が隊列を正して進んでくるのが見えた。見物人たちが左右に動いて、道を譲っている。
「王子様だ、王子様だ」
「エウソロス様が戻られた」
そんな声が聞こえた。ということは、この国の王子、エウソロスが戻るという話は本当だったのか。
「メデューサ、どこだ? どこにいる」と、ペルセウス。
「化け物は滅びたぞ。泣きながら滅びおったわ」
メデューサの身体が元に戻ったのは、ちょうどアクレオンがそう叫んだときだった。
「いいえ、ここにいるわ」
アクレオンが振り返り、メデューサの裸体を見た。そのまま、石のように硬直し、動かなくなった。グェッ、グェッと聞こえる奇妙な声が、その口から飛び出してきた。
蛇が躍りかかる。次の瞬間には、アクレオンは高く宙に持ち上げられた。
「メデューサ、また俺の獲物をさらうのか」と、ペルセウス。
「いいえ、私の獲物よ!」
メデューサは、さらに周囲に向けて、高い声で告げた。
「私は今、疲れている。だから、手加減できないわ! 命の惜しいものは下がっていなさい!」
18
メデューサは、アクレオンの脚を何度も地面に叩きつけ、その骨を折った。アクレオンは気絶してしまったらしい。だが、すぐに目覚めることになった。
今度は、右の腕、左の腕と、順に石の柱にぶつけ、こちらの骨もぐずぐずに崩してしまったのだ。その痛みに目を覚ましたアクレオンは、甲高く細い悲鳴をあげ始めた。例の子どものような泣き声だ。途切れ途切れに言葉が聞こえる。
「許して……許してくださあい」
「言ったでしょう? 殺しはしないって。安心しなさい」
メデューサは、無数の蛇で自分の正面にがっちりとアクレオンの顔を固定した。男の涙ぐんだ二つの目は、目尻が情けなく垂れて、ひくひくと震えていた。
「ああ、いい顔だこと」
別の二本の蛇を使って、その両目をえぐり取ってやる。そして次の瞬間、その大柄な体をどさりと地面に放り出した。
王子エウソロスが、騎馬のままゆっくりと近づいてきた。メデューサの姿を見ると、一度ぎょっとしたように馬を後ずさりさせたが、ペルセウスから話を聞いていたのか、またしずしずと近づいてくる。
「あなたがメデューサか。ペルセウスの話では、化け物ゴルゴンとは違い、たいそう慈悲深いとのこと。さて……アクレオンは? アクレオンはどこにいる?」
「そこにいるよ」と、ペルセウス。指さした先には、手足が妙にねじれた格好で、アクレオンが倒れていた。
「ペルセウス、殺してしまったのか? それはまずいぞ。正規の裁判にかけねばならないのに」
「俺はなんにもしていない。メデューサに聞いてくれ」
「死んでいませんわ、王子様」
──と、メデューサは自分の気持ちとしては、たいそう淑やかな態度でつつましく答えた。
「ただ、手足の骨があちこち折れて、両目が潰れているだけですの。耳は聞こえるし、口も利けるはずですから、裁判はきっと受けられますわ。ほら、耳を澄ましてごらんなさい。泣いている声が聞こえるでしょう?」
たしかにアクレオンの口からは、低いうめき声が漏れ続けていた。
「それならばよい。では、アクレオンよ、よく聞け。王の御心にそむき、異国の人々を迫害したること、その罪軽からず……」
疲れていたのだろう。メデューサは、その先はもう聞かなかった。ペルセウスの小柄な体によりかかったまま、すやすやと眠ってしまったのだ。蛇がしんなりと肩に降りてきた。
19
「なかなか豪勢な馬車じゃない?」
メデューサが言うと、ペルセウスは──
「だが、もう少し褒美をはずむと思ったけどなあ。どこもしぶいよ」
「思ったより、お金持ちの国じゃなかったみたいね」
「王様が病気になってから、振るわなくなっていたらしい。国が貧しくなると、あのアクレオンみたいな奴が増えるんだよ。でも、王子が帰ってきたから、これから少しは良くなるだろうさ」
「生意気なことを言うじゃないの」
「俺はゼウスの息子だからね。いずれは、どこかの国の王様くらいにはなるつもりなんだ」
「噓、噓……」
メデューサは、声をあげて笑った。
「本当さ」と、ペルセウスはもっと大きな声で笑った。
◆おまけ 一言後書き◆
次回はいよいよ、ペルセウスがアンドロメダを救出。メデューサは、ポセイドンと出会います。ご期待ください。
2020年11月18日
美咲凌介(みさきりょうすけ)
1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
初出:P+D MAGAZINE(2020/11/25)