【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第30話 外車と雨と噓――どえむ探偵秋月涼子の贈り物

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第30回目は「外車と雨と噓」。「どえむ探偵秋月涼子」との待ち合わせ時間より1時間も早く着いたSのお姉様・真琴さん。「さっき来たばかり」という真琴さんの嘘を、涼子があっさり見抜けたワケとは……!?

いつの間にか雨は止んでいた。

涼子は、椅子に腰かけたまま上半身だけを真琴さんのほうに傾け――

「それにしても、お姉さま、今日はずいぶん早くから、このお店にいらっしゃったのねえ。そんなに待ち遠しかったんですの? お姉さまって、可愛い!」

「そんなことないよ。さっきも言ったじゃないか。私だって、涼子が来るちょっと前にここに着いたんだって」

真琴さんはそう答えた。だが、それは嘘だった。本当は、涼子の言ったとおり、ずっと前からこの店に来ていたのだ。

なぜ、涼子にそれがわかったのだろう。わかるはずはないのに。

なぜ、嘘がバレたのだろう?

聖風学園文化大学三年生の新宮真琴さんが、その異変に気づいたのは、、三週間ほど前、冬休みも近づいた十二月十五日のことだった。愛車のオンボロ軽自動車が、右折する度にカタカタといった音をたてるのである。翌日、ディーラーに持っていくと、ドライブシャフトとかいうものが悪くなっていて、交換すると三万円ほどかかるという。なお、正規のディーラーで見てもらえというのは、真琴さんの父親からの助言であった。父親の言うことには、修理したあとトラブルがあった場合、ディーラー相手のほうが「ねじこみやすい」というのだが、本当だろうか? 真琴さんは少し疑わしく思ったものの、あえて異を唱えるほどクルマに詳しいわけでもないので、とりあえず従ってみたのである。

三万円はなかなか痛い――と、真琴さんは思ったが、実はそれだけでは済まなかった。ディーラーの話では、このドライブシャフトというものは、右側が悪くなればそのうち左側も悪くなるものだそうで、それも交換したほうがいいという。加えて、このまま乗っているとブレーキが固着する――とは、どういうことか真琴さんにはあまりよくわからなかったのだが――危険があるので、そのあたりもごっそり交換しなければならない。さらに、燃料噴射装置とやらにも不具合があるとのこと。

結局、安心して乗っていられるようにするためには、もろもろ合わせて二十五万円ほどかかるというのだ。ちなみに車検は二月。今、応急処置でごまかしたとしても、どうせ車検のときには同じくらいの費用がかかるらしい。

「それで、この状態で乗り続けるのは、すごく危険なんですか?」

そう尋ねると――

「今日、明日、すぐにどうこうなるという話ではありませんが、なるべく早く対処したほうがいいでしょうね」との答え。

「とりあえず今日は、お金を持ってきていないので、帰ります」

ディーラーの人は別に強く引き留めるでもなく、真琴さんを帰してくれはしたが、その顔はなんだかとても心配そうだった。

その夜、涼子が部屋に遊びにきた。

二人ともシャワーを浴びたあと、真琴さんは自分だけは青いパジャマを着て、涼子には裸のままでいるように命じた。といっても、風邪などひいては大変だから、部屋は十分に暖めてある。加湿器もしっかり稼働中だ。

真琴さんの話を聞くと、涼子はこんなことを言いだした。

「それなら、涼子、お姉さまに新車をプレゼントいたしますわ。クリスマスプレゼント。実は涼子、お姉さまにはもっといいクルマに乗っていただきたいって、ずっとそう思っていましたの……ああっ、でも、涼子もまだ学生ですから、あんまり大きなお金は動かせません。ですから、ポルシェだとかフェラーリだとか、そんな高価なクルマは無理ですわ。ベントレーとかロールスロイスとかも……でも、二百万円くらいのクルマでしたら……お姉さま? そのくらいでも、けっこういいクルマはありましてよ」

秋月涼子は、一つ年下の十九歳。真琴さんと同じ聖風学園文化大学に通う二年生で、サークルも同じミステリー研究会(略してミス研)に属している。ただ違っているのは、真琴さんがどちらかと言えば貧乏な庶民の娘であるのに対して、涼子のほうはこの地方指折りの資産家である秋月家の娘だ、という点である。

「お前は、何を言っている?」

真琴さんはそのとき、裸にした涼子の腕を背中に回し、赤いタオルで手首を一つに縛ろうとしていた。といっても、別に犯罪行為に及ぼうというわけではない。いつものSM遊びを始めるところだったのだ。

バイセクシャルを自認する真琴さんは、その美貌、そのすらりとした大柄な身体、その歯に衣着せぬ発言で、ミス研の女王と呼ばれている。いっぽう涼子のほうはと言えば、「あたしって、間違いなくMですわ。それもドが付くドMなんです」と自称するほどの、M体質。だから、二人が結ばれたのは、当然の結果だったのかもしれない。

もっとも、涼子は単に真琴さんのM奴隷というだけではない。

「涼子、大学を卒業したら、探偵になるつもりなんです。それも、SMをすると途端に推理が鋭くなるドM探偵に! このミス研に入部したのも、その探偵修業のためですの!」

いつもそんなことばかり言っているのだ。バカなのか? バカにちがいない。

「やっぱり、二百万円では、少し安すぎますかしら。もちろん、そのお気持ちもわかります。蘭子先輩は、大きなベンツに乗ってらっしゃいますし、お姉さまも新車を買われるなら、負けられませんものね。でも、和人くんのは、スカイラインっていう、とっても古い中古車ですわ。あれは、古いからいいんですって。旧車っていって、古いところに価値があるそうですけど、なんだか変な趣味ですわ。お姉さまには、そんなご趣味はありませんでしょう? 少しがんばってベンツでもかまいませんけど、蘭子先輩の真似をしたように思われるのも、なんだか悔しいですし。お姉さまは、どう思われます?」

「蘭子先輩」というのは、加賀美蘭子さん。涼子の秋月家と並び称される資産家で、聖風学園を経営する加賀美家の娘である。「和人くん」というのは、その蘭子さんの婚約者の萩原和人くん、二年生。蘭子さんは、この和人くんを「若さま」と呼んで、たいへん大切にしている。蘭子さんの加賀美家は、江戸時代から和人くんの萩原家に世話になってきた――というのがその理由らしいのだが、真琴さんはそれを、なんだかバカらしく感じることもある。

涼子のおしゃべりは続く。

「ベンツに対抗するメーカーっていったら、やっぱりBMWなんでしょうか。たしか、うちの父がそんなことを言っていましたわ。うちには、ボルボが二台ありますけど、なんとなくお姉さまには似合わない感じがします。やっぱり、ベンツになさいます? でも、そうなると、涼子も少し覚悟を決めなければいけませんわねえ。二百万では、とても収まりそうにありませんし……ところで、あの……お姉さま? 涼子の腕、縛らなくていいんですの?」

「うん。手を縛る代わりに、こうしてあげる」

真琴さんは、涼子のほっそりした裸体を膝に乗せ、背後から羽交い絞めにした。そして、できるだけ穏やかな声を出すように努めた。というのも、真琴さんはそのとき、かなり腹を立ててしまっていたからである。

「今夜はSMをする前に、少し話し合いをしよう」

「あの……お姉さま?」

「涼子、今の話だけど……お前から新車をプレゼントされて、私が喜ぶと思った?」

「喜んではいただけませんの?」

「当たり前だろ? 喜べるはずがない」

「どうしてです? なにがいけないんでしょう?」

「新車なんてプレゼントされたら、お返しができないもの。言葉を選ばすに言うけど、私はお前よりずっと貧乏なんだよ。そんなこと、涼子だって知ってるはずじゃないか」

「お返しなんて、涼子、望んでいませんわ」

「でも、お返しができないなら、私は涼子に恵んでもらったことになるじゃないか。Mのお前がSの私に恵みを垂れるのか。そんなの、生意気だぞ」

「いいえ、いいえ」

涼子は真琴さんの腕の中で、裸体をよじらせながら言った。

「恵みだなんて……ちがいます、お姉さま。こう考えてください。Sのお姉さまが、Mの涼子から奪いとるんですわ。SがMのすべてを奪う。それこそが、SMの正しい姿です」

「また、そんな軽はずみなことを言って。じゃあ、考えてごらん。私が、ベンツやBMWじゃ足りない。何千万円もする、もっとすごいクルマをよこしなさいって言ったら? 涼子の持ってるお金を本当にすべて、私のために使いなさいって言ったら、どうする? お前は、探偵事務所もやっていけなくなるよ。そうしたら困るでしょう?」

「もちろん困りますわ」

涼子は、ちっとも困った様子を見せずに、そう答えた。

「だから、そのときは涼子、お姉さまのお膝にすがって、お願いいたします。お姉さまのご希望に添えない涼子を、どうぞ許してくださいって。そうしたら、お姉さまが許してくださるってこと、涼子、ちゃんと知っていますもの。ああっ。もちろん、罰は受けますわ。お姉さまはきっと、涼子にとっても屈辱的な、そしてとっても甘美な罰を与えてくださいます。そうして二人のSMは、さらに深まっていくんですの」

「もう、涼子は変な理屈ばっかり」

なんだか真琴さんは、少しおかしくなってきた。涼子がどこまで本気でしゃべっているのか、どうにもわからない。ただ、真琴さんの少しの怒りなど、涼子はちっとも問題にしていないらしい。そのことだけは伝わってきた。

「奴隷さまには、かなわないなあ」

真琴さんはときどき、涼子を「奴隷さま」と呼んでからかうことがある。いざ議論となると、涼子がちっとも真琴さんに譲ろうとせず、我を通してしまうことが多いからだ。

「じゃあ、お姉さま。涼子のプレゼント、受け取ってくださいますの? ベンツとBMW、どちらにしましょうか」

「バカ。絶対にそんなもの、受け取らない。涼子がなんと言おうと、新車なんか買ってもらったら、私のプライドが傷つくもの」

「じゃあ、クルマはどうなさいますの? 二十五万円で車検に出します?」

「いや。十八万円で買ったクルマに二十五万円かけるのも、なんだか合理的じゃないような気がする。また、中古の軽を買いなおすよ。今、貯金が十万あるから、それを頭金にしてローンを組もうかな。ただ、どうだろう? 学生でローンが組めるのかな」

真琴さんには、まだローンを組んだ経験がなかった。今のクルマは、現金一括払いで買ったのである。そのときには、高校時代にちょくちょくやったアルバイトの報酬や、親戚からもらった大学入学祝いの金などで、今よりも貯金があったのだ。

「あの……お姉さま? 涼子、お願いがあるんです。聞いていただけます?」

「なに?」

「買い替えるなら、軽自動車ではない、普通のクルマにしてほしいんですの」

「どうして?」

「実は、うちの父が心配していて。友達のクルマに乗せてもらうときでも、軽自動車はなるべく避けるようにって、父から言われているんです。事故になったら危ないからって。だから、お姉さまのクルマによく乗せていただくという話をしたときにも、軽自動車じゃないって、嘘をついたんですの。でも、ずっと嘘をつきつづけているのも、つらくて……それに、いつかはお姉さまも、うちの両親にお会いになるでしょう?」

「うん。近いうちに会わなくちゃね」

真琴さんはそう言って、軽くうなずいた。自分たちのことを互いの両親に紹介し合うというのも、最近の二人の課題になっている。

「そのときに乗っていくクルマが軽自動車だと、少しまずいと思うんですの」

「たしかに第一印象は、大切にしないといけないな。じゃあ、軽自動車はやめよう」

「それで、できればドイツのクルマにしていただきたいんです」

「どうして?」

「父が、ドイツのクルマは安全だって、いつもそう言ってますの。信仰みたいなものですわ。それか、ボルボ……でも、ボルボの中古って、あんまり数が多くありませんし……」

「涼子って、意外とクルマに詳しいんだな」

「今度の春休みに、免許をとるんです。ほら、二十歳になりますし。それで、免許をとったらすぐにクルマを買ってもらうことになっているんです。だから、今、ネットやなんかでいろいろ勉強してますの」

「そうなんだ」

「ところで、お姉さま? さっきローンのこと、おっしゃってましたけど、ローンは、利子が無駄ですわ。現金で買うほうがお得です」

「それはそうだけど、その現金がないじゃないか」

「あるじゃありませんか。涼子がお預かりしている百万円」

「ああ……」

真琴さんは、百万円と少々の額の金を涼子に預けていることを思い出した。以前、遺産探し事件のときに得た探偵業の報酬である。探偵業といっても、真琴さんは犬と遊んだだけなので、受け取るのを拒否したのだが、涼子のほうはぜひ受け取ってくれと言って譲らず、結局宙に浮いた形になっていたのだ。(『隠された遺産――どえむ探偵秋月涼子の首輪プレイ』参照)

「涼子、お預かりしたままで、ずっと気になっていましたの。あれをお使いになるといいと思いますわ」

「あれは、大学院の学費の足しにしたいという気持ちもあるんだけど」

「それは、ローンを払ったつもりで貯金したらいかがです? 利子を払わなくて済む分、そのほうがお得です」

「たしかにね」

さすが資産家の娘だけあって、涼子は合理的なことを言うと、真琴さんは少し感心したが、譲ってばかりもいられない。

「でも、予算は五十万円までにする。それで買えるドイツ車の中古ってあるかな?」

「探せばあると思います」

「探せば……ね」

真琴さんは、涼子のお腹のあたりに絡めている両腕に、少し力をこめた。

「ねえ、涼子。私が本当に喜ぶプレゼントが何か、知りたくない? お金なんて使わなくても、私がとってもとっても喜ぶプレゼント。涼子のことを可愛がりたくてたまらなくなるようなプレゼント」

「もちろん、知りたいです」

「それはね、今の条件に合う中古車を探し出してくること。それから、中古車屋さんとの交渉もね。ほら、値引きとか、保証とかさ……私、この冬休みも勉強がけっこう忙しいんだ」

真琴さんたちの通う聖風学園文化大学では、冬休みが終わったあと、一月中旬から後半にかけて後期の試験が行われる。学費全額免除の特待生としてこの大学に通っている真琴さんは、その待遇を維持するために、試験ではどの科目もすべて高得点を叩き出さなければならないのだ。

「本当にそんなことで、お姉さまに喜んでいただけますの?」

「そうだよ。それこそ、心のこもったMのご奉仕じゃないか。ポーンと新車を買ってもらうのより、ずっと嬉しいよ」

「あの……せめて、ちょっとした付属品をプレゼントするのを許していただけません? カーナビとか……だって、ほら。涼子、これからもお姉さまのクルマには乗せていただくこともあるでしょうし……そのお礼ということで」

「まあ、そのくらいなら、いいけど」

「ありがとうございます」

「涼子がプレゼントするのに、涼子がお礼を言うなんて、なんか変」

「あら、ちっとも変じゃありませんわ」

涼子は、真琴さんの腕の中で身をよじりながら言った。どうやら向きを変えて、こちらの顔を見ようとしているらしい。

「だって、それが正しいSM関係ですもの」

数日後には、涼子はもうクルマを見つけ出してしまった。というより、涼子の決めた車種、年式、走行距離などの条件をもとに、実際には和人くんが見つけたらしい。いや、さらに正確に言えば、和人くんの親戚の中古車屋さんが、条件に合うクルマをネットオークションで競り落としてくれた、ということだった。

「競り落としたって……私はまだ、そのクルマを買うと決めたわけじゃないぞ」

真琴さんがそう言うと、和人くんはニコニコ笑いながら――

「大丈夫ですって。きっと気に入りますよ」

その翌日には、四人で試乗に出かけた。使ったクルマは、蘭子さんのベンツである。運転席には蘭子さん、助手席に和人くん、後部座席には真琴さんと涼子が乗りこんだ。

和人くんはクルマ好きという話なのに、運転はしない。

「ぼくは加賀美先輩の運転するクルマに乗るのが、好きなんですよね」

そんなことを言って、ニコニコしている。

用意されていたのは白いクルマで、外車という言葉から真琴さんがぼんやり思い描いていたよりも、かなり小さかった。軽自動車と変わらないのではないか、とも思ったが、実際に乗りこんでみると、横幅はやはり少し広く感じられる。助手席には、和人くんが乗ってきた。

「ウィンカーとワイパーが左右逆だから、注意してくださいね」

「オートマが、日本車とちがって癖がありますから、びっくりしないように」

なるほど言われたとおりで、ウィンカーのレバーが左にある。それにオートマは、オートマであるにもかかわらず、段階的に変速するようで、その度にガクンガクンと揺れる。

「変なクルマだな」

「マニュアルモードにもできますよ。新宮先輩の免許は、オートマ限定ですか」

「いや、マニュアルも乗れる免許だよ」

簡単な試験と難しい試験があったら、難しいほうを受けたくなる。真琴さんにはそんなところがある。だから大学入学前の春休み、教習所に通ったときにも、オートマ限定ではなくマニュアル車も乗れるほうの免許をとったのだ。

「じゃあ、マニュアルモードにしたほうが乗りやすいかも……です。クラッチを踏まずにすむマニュアル車だと思って、運転してみてください」

「なるほど。このほうがいいみたい」

「じゃあ広い道に出て、少し飛ばしてみましょうか」

スピードを上げていくと、少し驚いた。見た目はあまり変わらないのに、いつも乗っている軽自動車よりもずっとドッシリした感じがするのだ。ものすごく安定している。

「このクルマ、なかなかいいな」

「でしょう?」

別に自分が設計したわけでもないくせに、和人くんは妙に得意そうだった。

「これ、本当に五十万で買えるのか」

「もう五万キロも走ってますからね。諸費用込みで四十九万円です。特別にお買い得っていうわけじゃありませんけど、良心的ですよ。それに、保証はふつう一か月しかつけないんですけど、特別に六か月つけます。それから、新宮先輩が今乗っているクルマを二万円で下取りします。」

「よし、買った!」

真琴さんは即決した。

店に戻ると、涼子と蘭子さんが待っていた。

「どうでした? お姉さま」と涼子。

「うん、よかった。これに決めるよ。涼子、ありがとう」

「あら」と、涼子は嬉しそうに真琴さんの隣に寄り添ってきた。

「新宮さん?」と、今度は蘭子さんが声をかける。

「若さまにも、ちゃんとお礼を言っていただきたいわ。あなたのために、ずいぶん交渉なさったのよ」

「いいんですよ、蘭子先輩。うちの親戚もちゃんと儲かるわけだから」と、和人くん。

「いや、本当に助かったよ。ありがとう」

真琴さんは、和人くんに軽く頭を下げて見せた。別にそれほど感謝したわけではないが、蘭子さんの顔を立てたのである。真琴さんは、蘭子さんがちょっと苦手なのだ。正直に言うと、少しだけ怖い気がする。

クルマの受け渡しは、年が明けた最初の日曜日、一月六日ということに決まった。

一月六日、午後三時。真琴さんは、約束の時間よりも一時間も早く、中古車屋に辿り着いた。右折する度に異音のする軽自動車を駆って、冷や冷やしながら、一人でやってきたのである。店の前の駐車場には、今日から真琴さんの愛車になる、例の白いクルマが鎮座していた。その隣に軽自動車を停める。

「あれっ。早いですね」

挨拶をすると、店の人――たぶん店長さんだろう――は、ちょっと不思議そうな顔をした。

「四時じゃなかったですか」

「ええ。楽しみでたまらないから、早く来ちゃいました」

真琴さんは、正直にそう言った。そのほうが相手も喜ぶと思ったのだ。予想通り、店の人は白い歯をちらりと見せた。

「クルマを見ていてもいいですか。萩原くんたちは、あとで来る予定です。今、ドライブレコーダーを買いに行っているはずです」

涼子はカーナビをプレゼントしたいと言っていたが、それはもう付いていたので、ドライブレコーダーを取り付けることにしたのである。和人くんと蘭子さん付き添いのうえで、今ごろはこの店のすぐ近くにあるカー用品店で、どれがいいか物色しているはずだ。

「ええ、どうぞどうぞ。ごゆっくり」

店の人はそう言うと、ショールームの中へ戻っていった。

真琴さんは、前から横から後ろから――それから背伸びをして上から見下ろしてみたり、しゃがみこんで下から見上げてみたり、いろいろな角度からクルマを眺めてみた。眺めれば眺めるほど気に入った。スマホで何枚も写真を撮った。

買うと決めてから、真琴さんはネットでこの車種のことを調べてみたのだ。たいていの試乗記では、和人くんの言っていた通り、そして自分でも感じた通り、オートマのぎくしゃく感がこの車種の欠点とされていた。乗り手を選ぶ、などとも書かれていた。そんなことを言われると、「選ばれてやろう」という気持ちになってしまう。それに、マニュアルモードで乗れば、ぎくしゃく感はそれほどでもないということを、真琴さんは既に知っていた。

問題は、ガソリン代である。日本車に比べると、燃費はあまりよくないらしい。しかもハイオクガソリンを入れなければいけない。だが、それだけ高貴ということではないか。そのほうが、Sである自分にふさわしい――そんなことまで考えて、私ってバカだなとおかしくなった。

五分もしないうちに、霧のように細い雨が降り出した。それでも真琴さんは、飽きもせずクルマを眺めていたが、やがてひどく寒くなってきた。もしかしたら、この雨は雪に変わるかもしれない。この辺りの気候はかなり温暖だが、それでも年に四、五回は雪が積もることもある。

雨が駐車場のアスファルトを黒く染めていく。真琴さんは細かく足踏みしながら、やっぱりクルマを眺めていた。

「もうお入りなさい。中からでも、クルマは見えますよ」

店の人がドアを開き、少しあきれた様子で声をかけた。

「そうですね……そうします」

真琴さんは、店の中に入り、小さなテーブルを囲んでいる椅子の一つに腰を掛けた。例の店長らしき人が、コーヒーを持ってきてくれた。ショールームには、もっと高級な外車が三台ほど陳列されていたが、それらには目もくれず、真琴さんはやっぱり外の白いクルマを眺めていた。

ほぼ四時ぴったりに、涼子たちが現れた。今日は、和人くんの運転するクルマに乗ってきたらしい。

「お姉さま、お待ちになりました?」

「いや、私もついさっき来たところ」

そんな嘘をついたのは、自分がはしゃいでいるのを涼子に悟られたくなかったからである。そのほうがSらしいと、真琴さんは思うのだ。

「ほら、見てください。ドラレコ買ってきましたわ。前だけじゃなく、後ろも映るんですのよ。お店の人に頼んで、さっそく取り付けていただきましょう」

ところが、その取り付けに一時間以上もかかるという。これは予想外だった。真琴さんも涼子も、十分くらいで済むと思っていたのだ。

書類の受け渡しなどが済むと、すっかり手持ち無沙汰になってしまった。ドライブレコーダーの取り扱い説明書を読んで時間をつぶしてみたが、あまり集中できない。時々、ちらりと窓の外を見た。気がつくと、雨は雪になることもなく、いつのまにか止んでいた。

和人くんと蘭子さんは、裏手にある空き地のような場所まで、クルマを見に行ったらしい。そこに古いクルマが何十台も並べられているのを、真琴さんも先日試乗に来たときに見て知っていた。涼子は、真琴さんの隣に腰かけて、備え付けの女性週刊誌を熱心に読んでいる。

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真琴さんは、またちらりと窓の外を見た。ちょうど真琴さんのこれまでの愛車を、店の人が移動させるところだった。店の前の駐車場から、裏にある中古車置き場へ持っていくのだろう。真琴さんは少しばかり感傷的な気持ちで、その後ろ姿を見送った。たしかにオンボロではあったが、この一年と九か月ほどのあいだ、真琴さんの足となって働いてくれた可愛い相棒だったのだ。

隣に腰かけていた涼子も、真琴さんにつられるように視線を上げた。

「なんだか名残惜しいような気もしますわ」

「まあね。でも仕方ない。でも、ドライブレコーダーの取り付けに、こんなに時間がかかるとは思わなかったよ」

「あれは、カメラが二つも付いてますの。その分、時間がかかるんですって」

店の前の駐車場には、まだあと一台のクルマが残っている。今日から真琴さんの愛車となる小さな白いドイツ車だ。さっきから店の人がそのドアを大きく開いたまま、中に潜り込んでさかんに作業をしているのは、涼子が買ってきてくれたドライブレコーダーの取り付けのためである。

「そういうことなら、ゆっくり待とう。せっかくの涼子のプレゼントだから、しっかり取り付けてもらわないとね。涼子、本当にありがとう」

「まあ、お姉さまったら。そんなふうに改まっておっしゃられると、涼子、かえって恥ずかしいですわ」

涼子は、椅子に腰かけたまま上半身だけを真琴さんのほうに傾け――

「それにしても、お姉さま、今日はずいぶん早くから、このお店にいらっしゃったのねえ。そんなに待ち遠しかったんですの? お姉さまって、可愛い!」

「そんなことないよ。さっきも言ったじゃないか。私だって、涼子が来るちょっと前にここに着いたんだって」

「あら?」

「ん? どうした?」

「あらあらあら?」

「だから、どうした?」

「お姉さまったら、意地っ張りでいらっしゃるのねえ。でも、そんなわかりきった嘘には、このドM探偵、秋月涼子、けっしてだまされたりいたしませんわ」

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涼子は、丸い大きな二つの目で、真琴さんを見つめている。その口元には、もやもやとした微笑の影が漂っている。

たしかに涼子の言ったことは、当たっていた。真琴さんは約束の四時よりも一時間も前に、この店に着いていたのだから。一刻でも早く、自分の愛車となるクルマを見たかったのだ。見るだけではない。スマホでクルマの写真を撮りもした。だが、それがなぜ涼子にバレてしまったのだろう。涼子たちは、四時ぴったりにここにやってきた。店の人に聞いたのだろうか。いや、それもあり得ない。真琴さん抜きで涼子が店の人と話をした時間はなかったはずだ。

「どうして私が嘘をついたと思うんだ?」

「だって、あんなにはっきりした証拠があるじゃありませんか」

「証拠?」

「お姉さま、やっぱり嬉しすぎて、舞い上がっていらっしゃるんですね。ふだんのお姉さまなら、すぐにお気づきになるはずですもの」

涼子はついに、その柔らかな唇のあいだから、「ふふ……」と含み笑いを漏らした。

「お姉さまって、本当に可愛いですわ。涼子、ますますお姉さまのこと、好きになってしまいます」

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真琴さんは、しばらくのあいだ黙りこんで、じっと涼子の顔を見つめた。涼子の二つの目に、ふと不安の影が差した。

「あの……お姉さま? 涼子、なにかいけないことを言ってしまったんでしょうか」

「いや、そうじゃないよ」

「でも、お姉さま、なんだか怖いお顔をして……」

「そうじゃない。びっくりしただけ」

「なぜですの?」

「涼子が、わたしの嘘をあまりにも見事に見破ったから。本当は、一時間も前からこの店に来てたんだ。涼子の言ったとおり、嬉しくてたまらなかったの。でも、照れくさいから、なるべく顔に出さないつもりでいたわけ。ねえ、どうして私が一時間も早くこの店に来たってわかった? 証拠って、なに?」

「あれですわ」

涼子は、窓の外を指さした。

「あれって?」

「お姉さまの乗ってきたクルマのあと。あそこだけ乾いているでしょう? でも、ほかの場所は濡れていますね」

「うん」

「お姉さま? 雨はいつ降り始めました?」

そうか……。

「雨はたしか、三時少しすぎに降り始めたはずです。だから、もしお姉さまが四時ちょっと前にここにいらっしゃったのなら、雨に濡れた路面の上にクルマを停めたことになります。だとしたら、あんなふうにクルマのあとが乾いているのは、おかしいですわ。逆に言えば、雨が降り出す前、遅くとも三時くらいまでにこのお店に着いたからこそ、あのクルマのあとが乾いていたわけです」

「その通りだな」

「ですから、涼子、お姉さまは新しいクルマ――といっても中古ですけれど――そのクルマに乗るのを、とっても楽しみにしていらしたんだと思ったんですの。それで、それで……お姉さまが喜んでいらっしゃると思ったら、涼子もとっても嬉しくなって、つい余計なことを言ってしまいました。ごめんなさい」

「謝ることないよ。私はただ、涼子の推理の明敏さに、びっくりしただけなんだから」

「まあ、お姉さまったら、また涼子をバカになさって。こんなことくらい、すぐにわかって当然ですわ。だって涼子、卒業したら名探偵として……」

「うん、わかってる。でも、それ以上、生意気な口をきいてはダメ」

真琴さんは、右手のてのひらで涼子の口をそっとふさいだ。そして、耳元に小さな声で、こう囁いてやった。

「涼子の探してきてくれたクルマ、すごく気に入ったよ。ありがとう。だから、今夜は涼子の好きなようにご奉仕させてあげる」

口をふさがれたまま、涼子は二つの目だけで微笑んで見せた。

◆おまけ 一言後書き◆
真琴さんが買った中古車はフォルクスワーゲンのUP、それまで乗っていた軽自動車はダイハツのエッセ、という想定で書きました。ちなみに私は昔、五十万円で買った中古のフォルクスワーゲンに乗っていたことがあります。今の愛車は軽自動車です。

2021年3月16日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2021/03/25)

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