【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第36話 涼子を探せ――どえむ探偵秋月涼子の失踪

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第36回目は「どえむ探偵秋月涼子の失踪」。Sのお姉さま・真琴さんの部屋でやるのが恒例のお遊びを、「どえむ探偵涼子」の部屋でしていたふたり。その夜以降、連絡がつかなくなった涼子を探して、ミステリー研究会のメンバーが動き始めるが……。

長い春休みも後半に差し掛かった三月半ばのある夜のこと。

聖風学園文化大学二年生――もうすぐ三年生になる――新宮真琴さんは、壁に立てかけた縦長の大きな鏡に映っている自分と涼子の姿を見つめた。真琴さんは、青いパジャマ姿。裸で椅子に括りつけられている涼子の背後に、すらりと立っている。涼子の白い肌はもう、暖房の熱気にうっすらと汗ばんでいるようだ。真琴さんとちがって暑がりなのである。それに、さんざん敏感な部分を弄んでやったあとだから、そろそろ我慢しきれなくなっているのかもしれない。

今夜、真琴さんは珍しく、涼子の高級マンションの部屋に遊びに来ている。自分のアパートの部屋でやるのが恒例のお遊びを、今夜は特別に涼子の部屋でやることにしたのだ。涼子は数日前に十九歳になった。その誕生祝いに涼子の願いを聞き届けてやって、久しぶりにこの部屋に泊まることにしたのである。(真琴さんが泊まるということになると、涼子があまりにも細々とよく働くので、なんだか気の毒になってしまう。だから、普段は泊まるのを控えているのだ。)

「ほら、涼子。自分の姿を、もっとよくご覧なさい。ちょっと私に可愛がられただけで、こんなに乱れちゃって。あさましいわねえ。お前の誕生パーティに来ていた人たちに、この姿を見せたら、なんて言うかしら。きっと、あきれちゃうよ。まあ、これがあの着飾って、上品ぶってた秋月家のお嬢様の、本当の姿なの? まるで欲望の奴隷じゃないの? そんなふうに言うかも」

「ああ……お姉さま……」

涼子は、真琴さんの顔を直接見たくなったのか、ほっそりした首をねじ曲げて顔を仰向けると――

「涼子、卑しい奴隷ですわ。お姉さまの……お姉さまだけの、奴隷です」

そして感極まったのか、軽く開いた唇の合間から、ほっと溜息をもらした。真琴さんには、その息が桃色に湿っているように感じられた。唇に指でそっと触れてやる。

「ああ、可愛い」

「でも、お姉さま?」

涼子の口調が少し変わる。これまでの蜜のようなねっとりした感じから、急に落ち着いた感じになって――

「この拘束ですけれど、少し緩すぎませんこと? これだと、少し動いたらすぐに外れてしまいます。涼子、わがままを許していただけるのなら、もっともっときつく、厳しく縛りつけていただきたいんですけど……」

涼子は、気分の切り替えが実にはやい。ついさっきまでうっとりと甘い気分に浸っていたらしいのに、急に苦情を言いたくなったようだ。

「もっとお姉さまの圧倒的なお力に、完膚なきまでに打ちのめされてみたいって、涼子、ときどきそんなふうに思ったりもしますの。拘束にしても、そうですわ。こんなゆるゆるの拘束では……ああっ。もちろん、涼子の肌に痕なんかつけたくないっていうお姉さまの優しさ、いつも感謝しています。感謝していますけれど……でも、ときには、いくら暴れても絶対に外れない、厳しい拘束も素敵かなって思ったりしますの」

涼子は今、両の足首を真っ赤なタオルで椅子の脚に括りつけられている。左右の手首も、腋が露わになるよう、頭の後ろのところで、やはり赤いタオルを使って一つに括られている。ただし、どれもやろうと思ったらすぐに自分でほどくことができるくらいの、ごく緩やかな縛り具合だ。

「ああ、それはね……」

真琴さんは軽く咳払いをすると、注意深く言葉を選びながら言った。

「私は……こう思うんだ。きつく縛りつけられないと、Sの命令通りの姿勢をとれないなんて、本当のSMじゃないってこと。本当のMなら、べつに縛られなくても、Sが命じたとおりの姿勢を喜んでとれると思うの。どんな恥ずかしい格好だって、できると思うんだ。もちろん今の涼子にはまだ無理としても……」

「お姉さまのおっしゃること、涼子もよくわかります」

まだ話している途中なのに、涼子は平然と言葉を挟んできた。真琴さんは苦笑して口を閉じた。奴隷さまにはかなわない――最近、真琴さんは冗談でなく、しばしばそう思うのだ。

秋月涼子は真琴さんの一年下の後輩。大資産家である秋月家のご令嬢だが、真琴さんの可愛い奴隷――あくまでSM遊びの上での――でもある。

二人ともミステリー研究会(略してミス研)の部員で、知り合ったのも、その部室でのこと。学費全額免除の特待生としてこの大学に通っている真琴さんは、成績優秀、美貌、長身を誇り、周囲からミス研の女王とあだ名されるS気質。いっぽうの涼子は自称ドMの小柄な色白の美少女で、二人は夏休みの初めには、裸で同じベッドに眠る仲になったのである。

もっとも、秋月涼子はただの自称ドMではない。

「あたし、大学を卒業したら、探偵になるつもりでおりますの。世界初のドM探偵ですわ。ミス研に入ったのも、その修業の一環ですのよ」

そんなことを言ったりするのだ。バカなのか? バカなのだろう。

涼子は、すらすらと言葉を継いでいく。おしゃべりが得意なのだ。その声は、音程は高いが、まろやかで響きがよく、少なくとも真琴さんの耳には音楽のように快い。

「ですから、いつもというわけじゃありませんのよ。ほんのときどきでいいんです。お姉さまには、涼子が反抗心を持たないように、厳しくしつけていただきたいと思うんですの。ええ、もちろん涼子、お姉さまに反抗しようなんて心、少しもありません。いつでもお姉さまのご命令に、喜んで従うつもりです。でも、ほら、徒然草にもありましたでしょう? 懈怠の心、自ら知らずといえども、師これを知る……でしたかしら。涼子にも無意識のうちに、いけない心が湧いてくるかもしれません。それを防ぐためには、ときには……」

「そうだなあ」

徒然草の引用は少し的が外れているのでは? そう思いながらも、真琴さんは鷹揚に答えてやった。

「じゃあ、次の機会にきつく縛ってあげてもいいかな。それ用のロープを用意してもいいよ。もちろん私の手作りで」

「本当ですか、ありがとうございます」

さっき本当のSM云々と言ったが、涼子をきつく縛りあげたくないというのは、それだけが理由ではない。真琴さんには変に空想が暴走する癖があって、拘束ということに関しては、すぐに地震や火事のことを思い浮かべてしまうのである。もし涼子を本当に身動きができないくらい厳しく拘束しているときに、大地震や火事に遭遇したら――だが、そんな話を始めたら、また涼子がそれに反論して、終わることのない議論が始まりそうだ。

それに、たった今涼子の話を聞きながら、真琴さんはこんなことを考えたのである。

いくらきつく縛ったとしても、蝶結びにしておけば自分ですぐにほどけるのではないか。タオルを細長く切ってロープ代わりにすれば、涼子の肌を傷つけることもない。それに、裸にして縛ってやったあと、避難訓練と言って、自分で戒めをほどいてパジャマを着るまでの時間を計ってやるのはどうかな? 何度も何度も、それを繰り返させる。これはおもしろいかもしれない。急げ急げって、せかしたら、あわてて恥ずかしい格好をしてしまうかも。実際に災害対策にもなるし、これは一石二鳥だな――

真琴さんは、涼子の側から離れて、ベッドに腰かけた。真琴さんの部屋にあるのとはちがい、がっしりとした立派なベッドである。

「そろそろご奉仕の時間にしようか」

パジャマのボタンに指をかける。

「私が自分で脱ごうかな。それとも、涼子が脱がしてくれるのかな」

「もちろん涼子がお手伝いをいたします」

「じゃあ、こっちへおいで。ゆるゆるだって言ってたから、自分でほどけるだろ?……あっ。腕からほどいたらダメだよ。まず足から……あら、じたばたしちゃって、可愛い!」

涼子は両腕を頭の後ろで組み、なめらかな腋をさらしたまま、足首の拘束をほどくと、ベッドの前まで駆けよってひざまずいた。真琴さんは、その頬に口づけてやった。

「あの……お姉さま? 本当に次は、きつく縛ってくださいますの?」

「本当だよ。それに、今夜のご奉仕が上手だったら、ほかにも涼子の望みをかなえてあげてもいいよ。ほら、まずは上手に私の服を脱がせられるかな。まだ手首はほどいちゃダメ。そのままでやってみなさい」

涼子は、手首のところで括られた不自由な両腕で、真琴さんのパジャマのボタンを一生懸命になって外しながら――

「それだったら涼子、今夜のご奉仕、とってもとっても頑張りますわ。ああ、楽しみ!」

だが、それ以来、真琴さんは涼子の姿を見ていないのだ。

数日後の日曜日。真琴さんは大学の近くの喫茶店で、蘭子さんと和人くんの二人組と向かい合っていた。二人とも、真琴さんと同じくミス研の部員である。

加賀美蘭子さんは三年生。聖風学園文化大学を経営する加賀美一族の孫娘。加賀美家は涼子の秋月家と同じく、この県内屈指の資産家として知られた存在だ。和人くんは、その蘭子さんの婚約者。涼子と同じ一年生。和人くんのところの萩原家は、昔々このあたりを治めていた殿様の家柄で、蘭子さんの加賀美家は代々その世話になってきたのだという。だから、蘭子さんは二つ年下の和人くんのことを「若さま」と呼んでいる。バカらしい。

蘭子さんは、切れ長の目で真琴さんの顔をまっすぐ見つめて尋ねた。

「……で、それ以来、音信不通になっているってこと?」

「完全に音信不通というわけじゃありません。この何日か、メールの返事は来たんです」

「メール? LINEじゃなくって?」

「あれは嫌いなんです。高校のときグループラインでトラブルがあったし、二人だけでやっても、今度は会話がダラダラ続く感じで面倒だし。だから、涼子との連絡は、それ専用のメールアドレスを作ってやっているんです。でも、そのメールも普段はあまり使いません。直接、電話で話すほうが多いですね」

「電話? 今時、珍しいのね」

たしかに珍しいのかもしれない――と、真琴さんも自分でそう思う。だが、真琴さんは涼子の声やおしゃべりを聞くのが好きなのだ。だから涼子との連絡に限っては、できるだけ電話で直接話すようにしているし、涼子もその希望を尊重してくれている。

「それにミス研のLINEグルーブでも、この数日は涼子のメッセージは出ていません」

「たしかにそうね」

蘭子さんは、自分のスマホを見ながら――

「でも、メールで返事が来ているのなら、そんなに心配することはないじゃありませんか」

「そのメールが、変なんです」

「変って? 見せてくださる?」

真琴さんは、この数日のあいだに涼子から届いた、二通のメールを見せた。それは、こんな文面だった。

********************
新宮真琴様

お世話になっております。本日、お約束していましたが、よんどころない事情により、お伺いすることができなくなりました。まことに申し訳ございません。どうぞお怒りにならず、御諒解賜わりますようお願い申し上げます。

秋月涼子
********************

********************
新宮真琴様

ご連絡ありがとうございます。ご心配いただきまして恐縮です。当方は大丈夫でございます。数日経ちましたら、事情をご説明申し上げます。よろしくお願い申し上げます。

秋月涼子
********************

「一通目が、三日前、約束の日に来られなくなったというメールです。二通目は、昨日来たやつで、事情って具体的にどういうこと? って聞いた、私のメールに対する返事ですね」

「なるほど。変に形式ばった文面ね」

「ああ、いや……それはいつものことなんです。できるだけビジネスメールっぽい文面にしようっていう約束になってるんですね。というのは、万が一スマホを他人に見られたときでも、変に恥ずかしくないようにってことで……いや、別に恥ずかしいことをしているわけじゃないんですけど」

「じゃあ、問題はないじゃありませんか」

「まあ、聞いてください。初めのメールに『よんどころない事情』ってあるでしょう? 涼子はあまり、そんな抽象的な言い方はしないんです。むしろくどいくらい具体的に、事情の中身を書いてくるのが普通なんですね。それから、二通目に『数日経ちましたら』ってあるでしょう? これも同じです。涼子はたいてい、何月何日って具体的な日時を指定してくるんです。だから、私は……」

そこで真琴さんはちょっと迷ったが、思い切って言うことにした。

「それは涼子が書いたんじゃなくて、誰かが涼子に成りすまして書いたんじゃないかって、疑っているわけです」

「なんだか根拠が薄弱のようだけれど……」

「実は、もっとちゃんとした根拠があるんですが、それについてはあまり言いたくはありません。プライバシーに関わってくるので、聞かないでください」

「そんな勝手なことを言われても、困るわ」

「ああ、それは、加賀美先輩」

それまで黙って聞いていた和人くんが、突然――

「根拠が薄弱かどうかはいったん棚上げにしたら、どうでしょう。とにかく新宮先輩がそう疑っているっていう前提で、話を進めたらいいんじゃないかな」

「若さまがそうおっしゃるなら……」

蘭子さんは、険しくなりかけていた声をすぐに元に戻した。和人くんの言うことなら、たいていは受け入れてしまうのである。だからこの二人の関係は、SMで言えば年下の和人くんがS、年上の蘭子さんがMなのではないかと、真琴さんは以前からそう思っている。もっとも、和人くん以外の人に対しては、蘭子さんはかなり支配的な態度に出るのだが――

「では、涼子ちゃんのスマホを誰かが手に入れて、偽のメールを発信している。少なくとも、新宮さんはそう疑っている。その線で話を進めましょう。でも、そうすると怖いことになりそうね。そう、たとえば……」

そこで蘭子さんは、ふっと微笑を浮かべた。だいたいこの蘭子さんという人は、端正な顔立ちをしているが、普段はかなり無表情である。そのせいか、たまにはっきりとした表情を浮かべると、非常に強い印象を見る人に与える。今の微笑は、実に意地わるい感じだった。

「涼子ちゃんは既に殺されている。でも、犯人がまだ生きているように見せかけるために、偽のメールを発信している……なんてね?」

「それは一番に考えました」

「考えたの?」と、蘭子さんはあきれたような声を出した。

「ただ、その可能性は薄いと思います。そんなことをするのは、アリバイ工作のためですよね。でも、一通目のメールが三日前、次のメールが昨日。そんなに長いアリバイなんて必要ないでしょう。むしろ、もし殺人犯がいるとしたら、そんなに長い期間、被害者のスマホを持って歩いているのは、かえって不利になるはずです。警察が調べたら、発信した場所なんかもわかるはずだし」

「じゃあ、新宮さんはどう考えているんです?」

「誘拐とか……ストーカーによる拉致・監禁とか……」

「ありそうもないわねえ。もちろん私が言った殺人も含めてだけど……ほかに、なにか根拠があってそんなことを考えてるの?」

「涼子のマンションに何度か行ってみました。留守みたいです。夜になっても窓に明かりがつかないし」

「マンションを見張ったの? 涼子ちゃん、探偵になるって言ってたけど、今はまるで新宮さんが探偵をやってるみたいね」

「スマホにかけても出ないし、マンションの家電も留守番電話になっています。それにメッセージを吹き込みましたけど、返事は来ません。こんなことは今まで一度もありませんでした。とにかく……」

真琴さんは、なんだか不意に涙が溢れてきそうになったので、そこでいったん言葉を区切った。そして、なるべく落ち着いた声を出そうと努力した。

「もちろん私も、別に本気で、そんなことを考えているわけじゃありません。ただ、一度でも声を聞くか、姿を見るか……そうしたら安心できるんですけど」

「涼子ちゃんの実家に聞いてみたらいいじゃないの。案外、風邪でも引いて、家で寝込んでいるだけかも」

「そうあってくれればと思います。ただ、私は涼子の実家の連絡先を知らないんです。スマホとマンションの電話番号を教えてもらっただけで。それで、加賀美先輩から連絡をとってもらえないかと思って……」

蘭子さんは涼子と同様、小学校から大学まで聖風学園に通ってきた、いわば「聖風っ子」。だから、涼子とのつきあいは真琴さんよりも長い。涼子の実家の住所や電話番号も知っているはずなのである。

「ああ、そう……まあ、そういうことなら……」と、蘭子さんは思案顔になった。

「実は加賀美先輩は、涼子ちゃんの実家が苦手なんです」と、和人くん。

「ん? どうして?」と尋ねた真琴さんに――

「加賀美先輩はどこに行っても、あの加賀美家のお嬢様だって、最大限の丁重さで扱われるでしょう。ところが、涼子ちゃんのところだけは、ごく普通の感じなんですね。だから……」

「そんなことありません、若さま。あの家が少しおかしいだけです。でも、とにかく、そんな事情なら電話してみましょう。きっと笑い話になるのがオチだと思いますけどね」

涼子は、実家にもいなかった。

「だんだん笑い話では済まなくなってきたようね。なんだか、なにもかもが少しずつ変な感じがするわ」

何人か話す相手を変え、二十分ほど粘りに粘っていた蘭子さんは、電話を切ると少し眉をひそめた。

「わかったことは、涼子ちゃんが実家にもいないってこと。どうやら実家の人たち……って言っても家政婦さんとか、そんな人たちだけれど、涼子ちゃんはマンションにいるという認識のようだけれど、それもなんだか曖昧で、どこかにお出かけかもしれませんとも言っていたわ。そのくせあまり心配しているようにも見受けられないのは、ひょっとしたら居場所を知っているのかもしれない。ご両親はお仕事で台湾に旅行中。数日後には帰国するというお話だけど、それにしても……」

少し声のトーンをあげて

「ちょっと突っ込んだことを聞くと、言葉を濁すばかりで……あげくには、よそのかたにプライバシーに関わることはお答えできませんって……変に突っかかってきて……あそこの家は、使用人の人たちにいったいどんな教育をしているのかしら。はなはだ疑問ね」

和人くんがニコニコしながら口を挟んだ。この子は、だいたいいつもニコニコ、ヘラヘラしている。

「いや、軽々しく家族の居場所を言わないのは、むしろ教育が行き届いているんじゃないですか」

「とにかく一貫してなんだか失礼な感じ。相変わらずね」

「まあまあ。でも、マンションにもいない、実家にもいないってことなら、残る可能性は一つじゃないかな?」

「と言うと?」

真琴さんが尋ねると、和人くんは確信ありげにこう答えた。

「Y町の別荘。加賀美先輩も覚えているでしょう? 小・中学校のころ、三回か四回、遊びに行ったじゃありませんか」

Y町というのは、隣県にある有名な温泉街である。

「たしかに可能性はありそうですね、若さま。でも、連絡がつかないのは、どうしてでしょう」

「別荘に行った先でなんらかのトラブルに巻き込まれたとか……想像をたくましくすると、親戚間の争いがあって、別荘に監禁されているとか……」

「あり得るわね」と、蘭子さん。

「そんなこと、あるんですか?」

「まあねえ、資産があるといろいろともめ事もあって……うちなんかでも……」

そうなのか? 真琴さんは庶民の出なので、大資産家ならではもめ事などと言われても、ピンと来ない。もっと詳しく聞きたいものだという気もしたが、これ以上は余計なことと思ったのか、蘭子さんはそこでぴたりと口を閉ざした。代わりに和人くんが、妙に張り切り出したようだ。

「なんだったら、ぼくがこれからクルマで様子を見に行ってみましょうか。今、四時すぎだから、高速を使ったら七時くらいには着くでしょう。それで例の別荘の様子を見て、涼子ちゃんがいそうだったら連絡する。新宮先輩、それでどうです?」

「なんだったら、私もいっしょに行ったほうが……」

「いや、それは無駄です。もし今夜にでも、涼子ちゃんがひょっとマンションのほうに現れたら、無駄足になるじゃありませんか」

「若さまがいらっしゃるなら、私も行きましょう」と、蘭子さん。

「いや、それも遠慮します。近場ならともかく、加賀美先輩が今からよその県まで出かけて行くってことになったら、お付きの人っていうか、ボディガードっていうか、あの人たちが出張ってくるでしょう」

「まあ……そうですけど」

「面倒ですよ。とにかくぼく一人で行ってみて、なにか見つけたら連絡しますから、お二人はこっちで待っていてください。ああ、そうだ。いろいろ道具を用意しておいたほうがいいな。ぼくも一度、実家に寄って行こう」

その夜、八時ごろ、真琴さんのスマホに和人くんから連絡が入った。たしかに別荘には、だれかがいるらしい。クルマが一台、駐車場に停まっている、それに、窓に明かりがついているとのことだった。

「ぼくは今夜こっちに泊まって、もう少し様子を見ます。なにかあったら、また連絡しますね」

次の連絡が入ったのは、翌日の午後四時すぎのことだった。

「本格的にまずい感じなってきました。実は……」

一通り状況を話し終えると、和人くんはこう尋ねた。

「で、どうします? 新宮先輩もY町に来ますか」

「もちろんだ。クルマで行くよ。でも、道がわかるかな」

「いや、それだったら迎えを出しますよ。加賀美先輩も放っておけないって、いよいよご出陣ということになったんです。例のボディガードを二人連れて……」

そこで和人くんはくくっと喉の奥で笑い、続けてこう言った。

「新宮先輩のアパートに寄るように言いますから、いっしょに来てください。ホテルの部屋は、ちゃんと予約しておきます」

蘭子さんは、大きな白いベンツで迎えにきた。運転席と助手席には、ボディガードらしき男の人が二人乗っていたので、真琴さんは後席に蘭子さんと並んで腰かけることになった。

「若さまのお話が本当なら、あなたの勘が当たっていたってことになるわ。さすがね」

「涼子が生きているってことがわかって、とりあえずほっとしました」

「でも……」と、蘭子さんは不吉なことを、妙に楽しげな口調で言った。

「急がないと、これからどうなるかはわからないわ」

パソコンの画面に映る動画を見ながら、真琴さんは呟いた。

「たしかに縛られているように見える」

平屋の瀟洒な別荘。その一室のカーテンが大きく開かれている。部屋の奥に見えるデスクの側に椅子があり、そこに少女が一人腰かけている。涼子だった。その椅子を老人が後ろから押すようにして、ゆっくりと移動させた。車椅子ではない。どうやらキャスターの付いた事務用の椅子のようだ。涼子は椅子に縛りつけられているので、立ち上がることができないらしい。だから老人に椅子を押させているのだ。庭の様子でも眺めようというのか……映像が粗いのではっきりとはわからないが、胴のあたりが椅子の背に括りつけられているらしく見える。

「でも、両手は自由みたいだな。どうして自分でほどいて逃げ出さないんだろう」

その真琴さんの疑問に、和人くんが――

「見張られているんですよ、あの老人に。それにもう一人、女がいます」

窓の側まで来た涼子の顔が、かなり大きく映った。異様な感じに見えるのは、×印の形で二本の絆創膏が口に貼られていたからだ。

「まるでホームズ物の『ギリシャ語通訳』じゃないか」

「その通りね、新宮さん。たしか、あの話では、遺産を譲渡する書類にサインをするよう、監禁・脅迫されて……やっぱり涼子ちゃんも、資産に関するもめ事でもあって監禁されているのかしら。よく見えなかったけれど、机の上にはなんだか書類みたいなものが積んであったわ。あの『ギリシャ語通訳』のお話って、被害者のギリシャ人は、最後には結局、殺されてしまって……」

「いやなことを言わないでください」

「大丈夫よ。暴行を受けている様子はないもの。あの老人も態度はかなり丁重だし……別荘の管理人かしら」

「どうやら主導権を握っているのは、女のほうみたいです。ほら、これからちょっとだけ映りますから、注意して」

画面の右手奥に、ちらりとスーツを着た女の姿が見えた。手でなにか合図をすると、老人がまた椅子を押して、涼子をデスクのほうに運んでいく。

そのとき、涼子が実に悲しそうな顔をしたので、真琴さんは胸を衝かれた。はっきりとは見えないが、ひょっとすると涙ぐんでいたのではないか。次の瞬間、おそらく女の手が、カーテンをピシリと閉め切った。

涼子が別荘に一人できたところ、何者かに監禁されてしまったのか。それとも本当に『ギリシャ語通訳』のように、なにか資産に関する書類にサインでもするよう迫られているのか。あの老人が別荘の管理人だという蘭子さんの推測は、当たっているのか。そしてあの女は、いったい何者なのか。

まだわからないことだらけだが、とにかく涼子は自分の意思に反して、この別荘に囚われている。そのことだけは間違いなさそうだ。

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「それにしても、こんな道具、よく揃えられたなあ」

涼子の別荘は、小高い丘の中腹にあった。真琴さんたちのいるホテルは、その丘の麓に建っている。その七階の部屋が、ちょうど別荘の窓と正対していて、見張りをするには最適だった。ただし、かなり距離がある。だから、ホテルの窓に三脚で設置した望遠鏡じみたものに、ビデオカメラをつなぎ、それで撮った映像がパソコンで見られるよう細工してあるのだ。和人くんはこうした工作じみたことをするのと絵を描くのが、妙に得意なのである。

「かなり散財してしまいました。ビデオとパソコンは実家から持ってきたんですけど、この三脚とレンズは特別です。近くじゃ売ってなかったので、今日の午前中にO市まで行って、家電量販店巡りをしました」

「無事に救出できたら、それは涼子ちゃんに買い取ってもらいましょう。あの子、探偵になるって言っているから、どうせ必要でしょうしね」

大資産家のご令嬢なのに、蘭子さんはそういう点では、まことにしっかりしている。

「それで、和人くん。ほかにわかったことは?」

「別荘にいるのは、まず間違いなく、涼子ちゃんとあの老人、それに女の三人だけです。昨日のうちに一回、そして今日も一回、インターホンを押してみましたけど、返答をしたのはどちらも老人のほうでした」

「大胆だな。本名を名乗ったのか」

「まさか。すぐに追い返されるように、不動産と宗教の勧誘のふりをしました」

「なるほど」

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「ほかには?」

「あの別荘には、防犯装置が付いています。たぶん赤外線センサーの奴じゃないかな。先輩たちの来る前に、ちょっと出かけて行って、わざと引っかかってみました。すると、玄関のところの赤いランプがくるくる回り出して……これはたぶん、こっちを脅すためのものですね。待ってるとすぐに家からあの老人と女が、そろって出てきましたよ。だから、いきなり警察に連絡が行ったりするタイプではなさそうです」

「無茶をするなあ。それで?」

「酔っぱらいのふりをしてぐだぐだ言ってたら、とにかく早く行け、行かないと警察を呼ぶぞって、えらい剣幕でしたよ。セキュリティが作動しても、その二人しか出てこないってことは、他にもっと屈強な人間がいるとは思えませんね」

「なるほどね。でも、そんなにあちこち出歩いて、よくこんな映像が撮れたね」

「え? だってこれは、バッテリーが生きている限り、自動でずっと映しているじゃないですか。あとで早送りして、肝心なところだけ見ればいいんですよ」

「そういうことか」

和人くんは、短い笑い声をあげた。

「新宮先輩、将来は探偵になるっていうのに、勉強が足りないんじゃないですか」

「私は、探偵なんかにはならないぞ」

「でも、涼子ちゃんが言っていましたよ。将来は、新宮先輩といっしょに探偵稼業をやるんだって」

「また、そんな勝手なことを言って。あとで厳しく叱ってあげなくちゃ」

「そのためにはまず、涼子ちゃんを救い出してあげなくてはいけなくてよ」と、蘭子さん。

「そうですね。どうしたら……これだけ証拠があるんだから、警察に届けたら動いてくれるんじゃ……」

「それだと、遅すぎるでしょうね」

和人くんが、珍しく真顔になって言った。

「証拠と言っても、この動画だけでしょう? そもそもこれはどうやって撮ったんだ、お前たちこそ覗きをやってた犯罪者じゃないかって話になりそうですよ。それで……いや、そうじゃありませんって一生懸命説明したとして……では明日、その別荘を訪ねてみようってあたりが、せいぜいじゃないですか? それで、相手にそんな人は知りませんって言われたら、警察は無理に家宅捜索はできないでしょう? あの老人が管理人、女のほうは秋月家の親戚だとしたら、別荘にいることに、別になんの不思議もないわけですし」

そうかもしれない――と、真琴さんは思う。以前、痴漢に遭った友人の付き添いで交番まで行ったことがあるのだが、話を聞いてもらうだけで何時間もかかり、そのくせ警察はなかなか動いてくれそうになかったのだ。そのときは当の友人のほうが根気が切れたのか、「じゃあもういいです」と言って、被害届も出さずに帰ることになってしまった。そのことを思い出したのだ。

「では、若さま。どうなさるんです?」

「計画はもう立ててあります。二方面作戦です。つまりですね……」

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計画を聞き終えると、蘭子さんが気づかわしげに言った。

「私のほうは、あの二人がついていますから安心ですけど……」

というのは、別室で待機している、例のボディガード二人組のことらしい。

「若さまのほうが、危ないんじゃありませんか」

「危なくなんかありませんって、加賀美先輩。先輩が玄関で二人を引きつけておいてくれたら、なんの問題もないし、もしそれに失敗しても、相手はもうかなりよぼよぼのお年寄りと、女の人一人ですよ。いくら喧嘩に弱いぼくでも大丈夫です」

「和人くんは喧嘩に弱いのか?」

真琴さんの問いに、和人くんは例のニヤニヤ笑いを浮かべた。

「高校時代、一年に一回ずつ、計三回殴り合いをして、全てに負けた男として有名です」

「新宮さん、言っておきますけど」

蘭子さんが、断固とした口調で話を引き取る。

「若さまは、理由もなく暴力をふるったわけではありませんよ。そのことは、よく承知しておいていただきたいわ。危険に陥った女性を救ったり、いじめの加害者に立ち向かったり、喧嘩を仲裁しようとしたり……」

「ちがいます、ちがいます!」

和人くんは右手をブンブン振りながら――

「本当は、女の子の取り合いで負けたり、いい気になってる奴を叩きのめそうとしたら、反対に叩きのめされたり、関係ない喧嘩に、ただ巻きこまれたりしただけです」

「本当に若さまは、謙虚でいらっしゃるのねえ」

蘭子さんは和人くんを愛しげに眺めやると、再び真琴さんの顔を真っ直ぐに見つめた。

「でも、あなたは若さまの謙遜を、本気にしたりはしないでしょうね。いいこと? 新宮さん。今回、計画がうまく進んで、涼子ちゃんを救い出すことができたとしたら、みんな若さまのおかげだってこと、決して忘れないでくださいね」

「はあ」と、真琴さんは答えた。そんなことは、涼子の無事を確かめてからの話ではないか。そう思ったが、今それを言って、蘭子さんを怒らせるのは得策ではない。

「忘れないようにします」

「ところで、新宮先輩。先輩はどうします? ここで待っていますか」

「まさか。私も行くに決まってるだろう?」

「じゃあ正面突破部隊のほうと、遊撃隊のほうの、どっちにします? 遊撃隊っていっても、今はぼく一人ですけど」

「計画通りに進んだら、涼子に早く会えるのは、和人くんの遊撃隊のほうだね」

真琴さんはそれを確認すると、きっぱりと宣言した。

「じゃあ、私は和人くんといっしょに行くよ」

13

少し離れたコインパーキングに二台のクルマを停めると、真琴さんたち一行は別荘に向かって歩き出した。時刻は、午後九時になろうとするあたり。真琴さんと和人くんは、顔を隠すために大きめのサングラスをかけ、指紋を残さないように白い手袋をしている。どちらも和人くんがあらかじめ購入していたものだ。和人くんが手にしている大きな頭陀袋には、さらにいろいろなものが入っているらしい。

蘭子さんとその二人のボディガードは、顔を見られることが前提なので、サングラスも手袋もしていない。

やがて別荘の門に辿り着いた。門には内側から閂が差してある。門から玄関までは、十メートルほどの距離か。

和人くんは、脇にある生け垣を乗り越えると、門の閂を外した。真琴さん、蘭子さん、それに二人のボディガードが門内に入りこんだとき、玄関にある赤いランプの点滅が始まった。セキュリティが作動したようだ。

「じゅあ、蘭子先輩、よろしくお願いします」

「任せてください、若さま」

蘭子さんは、二人の屈強な男を従えて、ずんずんと玄関のほうへ進んでいく。真琴さんは和人くんのあとを追って、庭木のあいだをすり抜けながら、建物の裏手のほうへと回りこんだ。

「ここでちょっと様子を見ていましょう」

大きめの庭木の陰、玄関の様子が見えるところで立ち止まると、和人くんは真琴さんの腕を引いて、耳元にそう囁いた。

「加賀美先輩、うまくやってくれるかな」

蘭子さんが、老人と女、二人の住人を玄関におびき寄せ、そこで足止めするのが、この計画の最初の難関なのだ。

蘭子さんが今しも玄関に取りつこうとした途端、ドアがぱっと開いて、老人が飛び出してきた。

「あんたたち、何者です?」

蘭子さんが、硬い、やや金属的な声でまくし立て始める。

「あたくし、加賀美蘭子と申します。こちら、秋月さまの別荘ですわね。以前、何度もお招きにあずかったことがございますわ。今夜は、緊急の要件で訪ねてまいりました。ええ?……あたくしのことをご存じない? まあ、あきれた。そちらの涼子さまの通っていらっしゃる聖風学園の理事長の孫娘ですわ。緊急の要件というのは、そちらのお嬢さま……ええ、もちろん涼子さまのことです! その涼子さまが、こちらの別荘で囚われの身になっているという情報を、たしかな筋からお聞きしたんです。それからもう一つ、たった今、何者かがこの別荘に忍びこもうとしていましたよ。セキュリティが作動しているでしょう? 雲をつくような大男……長い顎髭を生やした怪しい大男が、生垣から忍びこもうとしていましたの。あたくしたちが追い払ったからいいようなものの……」

さすが蘭子さんである。わけのわからない話を、実に堂々と語り続けている。老人のほうはひどく混乱しているらしく、何度か助けを求めるように、家のほうを振り返っている。

「ああっ、もう……あなたでは、お話が通じないようですわね。あなた、こちらの管理人のかた? どなたか、秋月家のかたはいらっしゃいませんの?」

なにかぶつぶつ言いながら、老人が家の中に引っ込んだ。――と、すぐに女を一人連れて、また玄関先に戻ってきた。女が言った。

「こんな夜遅く、どなたです?」

「どなたですって? また同じお話を繰り返さなければいけませんの? あたくし、加賀美蘭子です。そちらの涼子さまが通っていらっしゃる、聖風学園の理事長の孫娘です。涼子さまとはサークルもごいっしょしております。今夜は非常に緊急の要件でお伺いしました。ある確かな筋の……」

蘭子さんは、また同じ話を繰り返し始めた。ただし、さっきよりもさらに堂々と、さっきよりもさらに声が高くなっている。

「よし、二人とも出てきた」

和人くんが囁く。

「じゃあ、ぼくたちはこっちです。こうなれば楽勝ですよ」

14

真琴さんたちは別荘の裏側へと向かった。平屋だが、かなり大きな別荘だ。

「ここ、キッチンです」と、和人くん。

何度か招かれたとあって、頭の中に間取りがちゃんと収まっているらしい。和人くんは、持っていた袋の中からマイナスドライバーを取り出した。そして、ガラスと窓枠の間を、位置をずらしながら何度か叩いた。――と、あまり大きな音もせず、ガラスにいくつものひびが入っていく。

「うまいな。どこで覚えたんだ?」

「昨日ネットで調べました。ネットって、よくないですねえ。犯罪の手口がすぐに調べられるんだから」

そんなことを言いながら、ガラスの破片を二つ三つ取り去り、そこから腕を差し入れて窓のロックを外す。そして、ゆっくりと窓を開けた。実に器用だ。

「ここから入りましょう」

和人くんに続いて、キッチンの中に忍びこむ。そこから廊下に出ると、例の涼子のいるはずの部屋へと急いだ。廊下には明かりが灯っていて、十分に明るい。

「まだ気づかれていないはずです。はい、これ、カッター。とにかく一刻も早く、拘束を解くのが肝心です。部屋に鍵がかかっていないといいけど……」

「もし鍵がかかっていたら?」

「そうしたら、いったんまた外に出て、涼子ちゃんのいる部屋の窓から直接入ります。ただ、あそこは玄関に近いから、見られる危険があります」

その玄関のほうからは、相変わらず立て板に水のごとく話し続ける蘭子さんの声が流れてくる。

「どう申し上げたら、わかっていただけるのかしら? あたくしの素性が疑問というのでしたら、涼子さまのお父さまにでも、お母さまにでも、問い合わせてごらんなさい。すぐにはっきりしますから。それに、涼子さまがこの別荘に監禁されているという情報は、ごく確かな筋からうかがったものですのよ。それを、この加賀美家の孫娘であるあたくしが言うのですから、最大限の敬意を払って傾聴するのが当然ではありませんか」

涼子を監禁している当の相手に、そんなことを告げているのだから、明らかに話がおかしい――そして、もちろんそのことは蘭子さん自身も十分にわかっているのだが――それをあそこまで堂々と主張できるというのは、並みの神経ではない。その主張をぶつけられるほうも、返答に窮するだろう。

部屋の鍵は開いていた。真琴さんと和人くんは、カッターを手に室内になだれこんだ。

15

考えてみれば、当然のことだったのだ。

サングラスをかけた二人組が、カッターを振りかざしていきなり部屋に飛び込んできたのだから。

それに、口をふさいでいた絆創膏を乱暴に剝ぎ取られ、声を出せるようになったのだから。

涼子でなくても、悲鳴ぐらいあげるだろう。

だが、それは実に見事な悲鳴だった。ホラー映画の監督だったら、その悲鳴を一度聞いただけで、涼子を主役に抜擢したかもしれない。音程の高い、響きのやわらかな、そして長く続く、申し分のない悲鳴だった。

「あっ、バカ。私……私だよ。こっちは和人くんだ」

真琴さんは、サングラスを外して見せた。涼子の悲鳴は、ぴたりと止んだ。大きな二つの目がパチパチっと、音でも立てそうな感じで、何度か瞬きを繰り返した。

「あら? あらあらあら?」

「どうした?」

「お姉さまこそ、どうしてここに?」

「助けにきたんだ。待ってろ、すぐにほどいてやるから」

映像で見た通り、涼子は胴体を椅子の背に括りつけられていた。しかも太い結束バンドで、本当にきっちりと括られている。はじめは、バンドの爪の部分をどうにかしたらすぐに外せそうに思えたが、うまくいかなかった。結局はカッターを使うことになった。しかし相当に丈夫にできているらしく、なかなか切れない。

「あの? お姉さま?」

「大丈夫。痛くないか? もうすぐだから……和人くん、そっちは?」

和人くんは、反対側を担当している。

「こっちもあと少しです」

悲鳴を聞きつけたのだろう、廊下を走る音がして、ドアが開いた。例の女が部屋の中に入ってきた。

「あなたたち、何者ですかっ」

和人くんが素早く立ち上がる。

「ぼくが食い止めます。先輩はとにかく早く、それを切って……」

「よしわかった」

和人くんはドアのほうに走り、女にむしゃぶりついた。――と、途端にくるくるっと身体を回されて、床にうつぶせに倒されてしまった。「あたたたた……」と、情けない声をあげている。弱いとは聞いていたが、本当に弱い。

次の瞬間、ドアにまた人影が差した。

「涼子ちゃん、無事なの?」

蘭子先輩が、二人のボディガードを引き連れて、女の後を追って来たのだ。床に這いつくばった和人くんを見つけると、今度は蘭子さんが短い悲鳴をあげた。

「若さま、若さま! 大丈夫ですか?」

和人くんの上にのしかかっている女を睨みつける。

「もう許しませんよ! あなたたち――」

二人のボディガードに向かって

「あの女を叩きのめしてしまいなさい」

女は和人くんの身体から離れ、素早く二、三歩後ずさった。蘭子さんのボディガードは、ドアの前にのびている和人くんが邪魔になるのか、少しもたもたしているようだ。そのあいだに、女はいかにも武道家らしい、なんとも美しく見える構えをとった。真琴さんの位置から、ちょうどその横顔が見えた。

あれ?

なんだか見たような顔だ。誰だったろう。

だが、もう考えている余裕はなかった。涼子を拘束していたバンドが、そのときようやく切れたのだ。

「よし、今のうちに逃げよう。あの窓から……」

蘭子さんが叫んでいる。

「若さま、若さま。お怪我はありませんか? あなたたち、何をぐずぐずしているんですか。早くあの女を叩きのめしてやりなさいっ」

「ほら、今のうちに」

立ち上がった涼子の腕をとって窓のほうに向かう。だが、涼子はその腕を振りほどくと、部屋の中央に立った。そして、例のまろやかな、よく響く声で叫んだ。

「皆さん、落ち着いて。落ち着いてください。これは誤解です」

涼子は、もう一度言った。

「誤解ですわ!」

和人くんも、ようやく立ち上がった。

「また負けちゃった。これで四連敗」

16

午後十一時三十分。真琴さんは入浴を終えると、涼子の部屋に戻り、ベッドに腰かけた。この別荘の風呂は温泉を引いているとのことで、湯は白く濁っていた。心なしか肌がなめらかになったような気がする。

蘭子さんと和人くんは、ボディガードを引き連れてホテルに戻ってしまった。和人くんは相変わらずニコニコ、ヘラヘラしていたが、蘭子さんのほうはかなりご立腹で、「バカバカしくてお話にもならないわ」と、同じ台詞を三度ほど繰り返していた。もっとも、いざこの別荘を出るころには、和人くんとのお泊りが嬉しいのか、かなり機嫌も直っていたようである。

真琴さんは涼子の希望もあって、あと数日、この別荘に滞在することにしたのである。ホテルの部屋は、明日の朝、チェックアウトの手続きをとるつもりだ。

「今夜は、これでお終いにします。明日また、頑張りますわ」

「それでね、涼子。もう一度はっきり整理しておきたいんだけど……まあ、ここに座りなさい」

「はい」

涼子はつつましく目を伏せて、真琴さんの隣に腰かけた。いつもはベッドの前にひざまずかせるのだが、今夜ここでSM遊びを始めるわけにもいかない。

「涼子は、私と会う約束を破って、ここで経営の勉強をしていたわけだね」

「仕方がなかったんです、お姉さま。父から課題を出されていて。涼子も秋月家の娘なんだから、経営の勉強をしなければいけない。本当は経済学部へやるつもりだったのに、お前のわがままで英文科にしたんだから、代わりに自分で勉強しなければいけないって……それに、とっても横暴なんですの。父が台湾から戻ってくるまでに、あの本を全部読んで、レポートを書かなければならないことになったんです」

「ならないことになったって……それは前からわかっていたことじゃないの?」

「それはそうなんですけど……涼子、ついさぼってしまっていて……」

涼子の机の上には、『新経営学入門』とか、『経営学の常識』とか、『若い社長のための経営学』とかいった本が、何冊も積み重なっている。

「いけないね、涼子。勉強は、計画的にやらなくちゃ。まあ、明日からは、竹下さんだけでなく、私も監督してあげるから、しっかり頑張りなさい」

女性の顔に見覚えがあったはずである。真琴さんは一度、会ったことがあるのだ。竹下さんというのは、「青いUSBメモリの事件」と涼子が名づけている出来事があったとき、監視役として涼子に付き添っていた女性なのだ。(『第35話 青いUSBメモリの事件――どえむ探偵秋月涼子の予行演習』をご参照ください。)

「お姉さまがいっしょにいてくださったら、涼子、とっても頑張れる気がします。竹下さんって、すごく忠実なんですけど、その忠実さは私の父に向けられていますの。無条件に涼子の味方とは言えませんわ。その点、お姉さまは涼子だけのご主人様。涼子、張り切ってお勉強いたします」

17

「それで、次。私へのメールの返事だけど、あれは?」

「竹下さんに書いてもらったんですの」

「どうしてそんなことになった? 竹下さんにスマホを取り上げられたの?」

「いいえ、少しちがうんです、お姉さま。竹下さんは別にスマホを取り上げたわけじゃなくて……涼子がスマホばかり見ているって、注意をしただけなんですの。でも、それで涼子、駄々をこねて……もう知らない! そんなに言うなら、スマホは竹下さんが持っていてちょうだい、その代わり、メールのお返事やなんかも全部、竹下さんが書いてちょうだいって……つまり、涼子のほうからスマホを竹下さんに預けてしまったんです。でも、お姉さまへのお返事だけは、丁重な文面で、きちんとお出しするようにって、ちゃんと指示を出しておいたんですけれど」

「たしかに丁重な文面だった。でも、私への返事は、涼子が自分で出さなくちゃダメじゃないか」

「ごめんなさい、お姉さま」

「それで、椅子に縛りつけられて、おまけに口に絆創膏まで貼られていたのは、どうして?」

「あの……それも、涼子の発案で……ねえ、お姉さま。コナン・ドイルの『ギリシャ語通訳』って、御存じですか」

「バカにするな。知ってるに決まってるだろ? それどころか、私たちのあいだで話題になってたんだぞ。今度の事件は、『ギリシャ語通訳』に似てるって、みんな本当に心配したんだから」

「ごめんなさい。でも、あのお話の中で、縛られて口に絆創膏を貼られる人のことが出てきますでしょう? それで涼子、思ったんです。涼子も囚われの美少女のつもりになれば、経営学のお勉強も身が入るかもしれないって……期日までに終わらせなければ、とってもつらい辱めを受けることになるぞって脅されて、可憐な美少女は、苦難に耐えながらも、けなげに頑張るんです。それで竹下さんに頼んで、あんなふうに縛ってもらいましたの。それに絆創膏も……」

「けなげって、自分がこれまでさぼっていただけじゃないか。ところで、食事のときなんかは?」

「その度ごとにほどいてもらって、戻ってきたらまた縛ってもらって」

「竹下さんもたいへんだ」

「でも縛られると、とってもやる気が出てきましたわ。涼子ってやっぱり、生まれながらのドMなんだって、Mとしての自覚がさらに深まりましたの」

「まさか竹下さん相手に……」

真琴さんは心配になって、少し慌てた口調になった。

「SM、SMって、連呼したりしていないだろうね」

「まさか。涼子だって、ちゃんと相手を見て発言いたしますわ」

どうだろう? なんだか怪しい――と、真琴さんは思ったが、とりあえず今は追及を緩めることにした。それよりも言ってやらなければならないことがあったのだ。

18

「あのね、涼子。あんなにきつく縛られるのは、本当によくないよ」

「そうなんです。竹下さんって、根っからの体育会系のせいか、情緒っていうものがなくって……あんなふうでは、とてもSMなんてできません」

「そういえば、あの人、強かったねえ。和人くんなんて、あっという間に組み伏せられちゃったもの」

「合気道の達人なんですの。たいていの人では、勝負になりませんわ」

――とすると、特別に和人くんが弱かったわけでもないのか。

「まあ、それはいいや。とにかくさ、SMの情緒の件はひとまず置いといてね……地震や火事になったとき、あんな縛り方をしていたら、避難もできないだろう? だからダメなんだよ。きつく縛るにしても、いつでも自分でほどけるようにしておかなくちゃ。私が次に考えてるのは、きつく縛っても、ちゃんと涼子が自分で抜け出せるような縛り方なんだ。それだけじゃないよ? 縛ったあとで、抜け出す特訓をさせるからね。もしちゃんとできなかったら、厳しい罰をあげるんだから」

「ああ、涼子、楽しみです」

「もう、私以外の人に縛らせたらいけないからね」

「承知いたしました、お姉さま。涼子、そんなふうにお姉さまに禁止していただくと、なんだかとっても幸せです」

涼子は、うっとりした甘い声で繰り返した。

「とっても幸せですわ」

19

ところが、その甘い口調がすぐに変わって――

「ところで、お姉さま?」

「ん?」

「竹下さんが涼子の代わりに出したメールですけど、どうしてすぐに偽物だっておわかりになりましたの? さっき、涼子は『よんどころない事情』なんて書かずに、もっと具体的に書くからなんていうお話が出ていましたけど、本当に涼子、そんな癖があります?」

その件については、さっき蘭子さんや竹下さんを交えて話し合ったとき、真琴さんがそう説明していたのである。それを涼子も聞いていたのだ。

「まあ、それもあるけど……それだけじゃない。もっとはっきりした根拠があったんだ」

「どんな根拠です? あのメール、さっき見せていただきましたけど、涼子自身でもあんなふうに書きそうな気がします」

「いや、涼子は絶対に、あんな文面は書かないと思うよ。私は一目見て、これは別人が書いたんじゃないかって思ったもの」

「そうでしょうか?」

涼子は不審そうな顔をしている。

「自分では、わからないものなのかなあ」

20

真琴さんはスマホを取り出して、例の偽のメールの一通目を、涼子に見せてやった。

********************
新宮真琴様

お世話になっております。本日、お約束していましたが、よんどころない事情により、お伺いすることができなくなりました。まことに申し訳ございません。どうぞお怒りにならず、御諒解賜わりますようお願い申し上げます。

秋月涼子
********************

「どこが変なんでしょう?」

涼子は、まだ不思議そうに首をかしげている。

「本当に、自分で気づかない? あきれた。じゃあ、今度はこれを見て」

真琴さんは、一月ほど前に来た、やはり涼子からのメールを見せてやった。

********************
新宮真琴様

お世話になっております。本日、午後六時のお約束ですが、学術文化部会の渉外の会議が長引いてしまったため、三十分ほど遅れそうです。まことに申し訳ございません。厳しく叱っていただきますこと、楽しみにしております。よろしくお願い申し上げます。

秋月涼子
********************

「あ、わかりました」

「だろ? 涼子はいつも、約束を守れなかったときには、叱ってくださいっていう内容を入れるもの。でも、こっちのメールには、『どうぞお怒りにならず』なんて、正反対のことが書いてあるじゃないか。ちっとも涼子らしくない」

「言われるまで、自分でも気づいていませんでした」

「そんなものなのかもね。みんな自分のことは、案外わかっていないのかも」

懈怠の心、自ら知らずといえども……。真琴さんは、あの日涼子が引用した徒然草の一節を思い出した。

「それにしてもお姉さまって、やっぱり探偵の才能がおありになりますわ。ズバリと偽メールを見破るなんて」

「そういえば、涼子? お前、自分は将来、私といっしょに探偵をするなんて、言い触らしているらしいね。和人くんから聞いたよ。勝手にそんなこと宣言して……懲罰ものだぞ」

「ああ、お姉さま。そのことについても今度、厳しく叱ってください。本当に、次にお姉さまのお部屋に行くときが、涼子、とっても楽しみです」

そう言うと、涼子は真琴さんの肩にそっと頭をもたせかけてきた。

◆おまけ 一言後書き◆
今回も、真琴さんが二年生、涼子が一年生だったころのお話としました。ただ、もうすぐ次の学年へと進む春休みの話なので、時系列を辿ると「第10話 どえむ探偵秋月涼子のご奉仕」の次の話ということになります。

2021年9月16日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2021/09/26)

ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第68回
岸 宣仁『財務省の「ワル」』/キャリア制度発足以降、地下水脈のように生き続ける『ワル』という精神風土