ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第二回 ルーツは相撲取り
戦争罹災者を山谷へ
戦後、都内には、戦争によって行き場を失った人々が溢れた。
焼け出された人々、帰ってはきたが家族が離散していた復員兵、失業者……。これらの人々は「浮浪者」と呼ばれ、その数は都内だけで数万人はいると言われていた。その多くは、少しでも雨露がしのげる場所として、上野駅の地下道を中心に集まり、着の身着のままの野宿生活を強いられた。中には栄養失調状態が続いて餓死する者も現れた。この状態を見かねた連合国軍総司令部(GHQ)からの強い要請により、東京都はこれら生活困窮者の援護対策を迫られた。しかし、十分な対応ができず、大東京簡易旅館組合連合会に協力を求めたのであった。
終戦直後、上野駅の地下道は浮浪者たちで溢れかえっていた。
(写真提供:朝日新聞社)
山谷は、宿場町として栄えた千住に近いことから、江戸時代にはすでに「木賃宿」と呼ばれる安宿が軒を連ねた。戦前には、日雇い労働者を対象にした簡易宿所が100余軒立ち並び、その経営者らで浅草簡易旅館組合(現・城北旅館組合)が組織されていた。しかし組合の宿所は、東京大空襲で1軒も残らず灰燼と化した。
連合会を通じて都の申し入れを受けた浅草簡易旅館組合は、駐留軍から払い下げられた天幕を使ったテントに、戦争罹災者を収容することになった。以下は前述のカセットテープより。
「我々の業者にしましても、焼けて戻って来たはいいが、土地はあっても資材がない、金もないと。こういうふうなことから都のほうで進駐軍の天幕を斡旋してくれまして、払い下げを受けました。新宿、品川、山谷等に(テント村が)できたわけなんですね」
仁之助たちは、トラックを持って上野へ出向き、浮浪者たちを次々と山谷へ連れてきた。
「自分で働いて、人の厄介にならずに宿銭払って、自分で食っていける者は一つ山谷へ来いと。そうすればあんたがたのために、宿屋ができているから来いと。こういうふうなことでもって声を掛けましたところ、1日のうちに山谷の宿舎が満員になってしまったわけなんです。恐らくその時だけでも、千人を超す人間が来たわけで。超満員でした」
テント村に加え、応急処置としてバラックのような簡易宿泊所も建設された。これらは東京都民生局による委託で、民間人が経営するという方法がとられた。対象は山谷だけでなく、新宿(旭町)、品川、深川高橋など計7カ所。山谷はテント・ホテル7棟に約3300人、簡易旅館4施設に約3200人が収容された。仁之助は製材所を運営していたので、その木材を使って簡易宿泊所を増設していった。
時期を同じくして、仁之助はパチンコ店の経営にも乗り出した。短期間ではあったが、かなり収益があったようである。哲男さんが回想する。
「店から飛び出して自転車にひかれたことがあったので、パチンコのことは覚えています。当時、冷暖房もないから店は開けっ放しだったんです。パチンコの台が置いてあって、女の人が上から玉を入れていました。母から聞いた話では、店はすごく儲かって、裏にある4畳半の部屋がお札の山になったと。それで炭俵にお金を詰めていたと言っていました」
終戦直後は砂糖が不足していたため、仁之助は化学に詳しい親戚の手を借り、サッカリン(人工甘味料)の製造も手掛けた。だが、いずれの事業も長続きはせず、簡易宿泊所の経営に的が絞られていく。
昭和20年代に建てられた簡易宿所「ほていや」。
現在の「エコノミーホテルほていや」の最初の姿である。
昭和25年には朝鮮戦争による特需で仕事の需要も高まり、活気が活気を呼んで旅館が増えていった。その3年後には小規模な簡易旅館を含めると100軒を数え、宿泊者は6千人を超えるまでになり、戦前以上の旅館街が復興したのであった。あの双子歌手のこまどり姉妹も、山谷の簡易宿泊所に住み、三味線を片手に浅草の飲食街を流していたのだ。
しかし、山谷はその後に苦難の時代を迎えることになる。
〈次回は10月3日(水)頃に更新予定です。〉
プロフィール
水谷竹秀(みずたに・たけひで)
ノンフィクションライター。1975年三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。カメラマンや新聞記者を経てフリーに。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』で第9回開高健ノンフィクション賞受賞。他の著書に『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』(小学館)、『だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人』(集英社)。
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初出:P+D MAGAZINE(2018/08/31)